一緒に帰ろう
戸締りをして会社を出る頃には、すでに夜の十一時を過ぎていた。
六月の末とは思えないほどの蒸し暑さに、思わずU(仮名)は顔をしかめる。
かつては賑わっていた繁華街。
その外れにあるUの会社の周辺は、いまや閉店した店だらけ。
だから、昼夜を問わず、人通りはほとんどないといっていい。
電柱の街灯が侘しく照らすだけの道路を、ふらふらと駐車場へ向かう。
なにぶん古い会社なので、来客用の駐車スペースを除けば、あと一台くらいしか停められない。そこはもちろん社長専用だ。
しかたなくUは有料駐車場を月極めで借りていた。
だが、これがまた絶妙な距離だった。
普段でもちょっと不便と思うくらいだから、疲れきった今の身体には遠過ぎる。
足を引きずるように角を曲がり、通りに出ても、酔っ払いすら歩いていない。
眠気覚ましに自動販売機で缶コーヒーを買い、冷えた中身を一気に飲み干す。
すこし目が冴えた。ような、気がする。
とにかく帰って早く寝ないと、明日の仕事に影響が出る。
昼間なら管理人のおじいさんがいる駐車場の小屋も、いまは戸板が下りている。
とっくに照明も消されていて薄暗い駐車場。
斜めの白線で区切られたスペースには、もうUの車しか残っていない。
あれ……?
自分の車へ向かうUは、ふと足を止めた。
助手席に誰かが座っている。……ように、見える。
昼に外出したときに下げたフロント側のサンバイザーがそのままで、ちょうど影になって顔が見えない。
しかし、誰かがいる。
確実に。
立ち止まったまま凝視する。
というより、目を逸らせなかった。
営業職の人間がよく着るような、クセのない紺色のスーツのジャケット。
行儀よく、ちょこんと座っている小柄な姿。
女だ。
誰だか知らない女が、鍵が掛かっているはずの自分の車に乗っている。
……なんで?
疑問と同時にキーをポケットから出して、アンロックのボタンを反射的に押した。
点滅して消える非常停止ランプ。
同時に車の中の女の姿も消えた。
疲れてるから、なにか見間違えたのかもしれない。
Uはそう自分に言い聞かせて、運転席に座った。
閉め切っていた車内の空気は乾燥しているわりに、どこか鬱陶しい。
助手席に特に目立った異常は見当たらなかった。
念のためにシートを触ってみる。
別に濡れてもいなければ、冷たくもない。
やっぱり気のせいか……。
エンジンをかけてシートベルトをする。
全部の窓を開けてサンバイザーを上げると、ライトを点けて駐車場から車を出す。
カチリ。
すぐ隣で音がした。
ちょうど赤信号で止まったので、助手席に視線を向けた。
シートベルトが締まっている。
無人の助手席で。
後続車のライトが近付いてきた。
反射的にふとルームミラーに目をやった。
運転席と助手席のヘッドレストの間から、後部座席とリアウインドウを見た。
後続車はそれほどスピードを出していないようだ。
それは、いいとして。
ミラーの隅にほんの一瞬、見切れた助手席。
髪の毛の先が写らなかったか?
そこに小柄な誰かが座っているなら、ぎりぎり見えるような位置に。
信号が青になった。
否応なく車を出した。
やっぱり、なんか乗ってるんじゃないのか、この車……。
走ると窓から風が入ってくる。
気温のせいか、生温い風がぬるりと顔をなでる。
暑いはずだが、背筋がぞくりとしてくる。
なるべく左を見ないよう心掛けて運転する。
もちろんルームミラーからも目を背ける。
ちょっと死角が増えただけで、こんなに運転しづらくなるとは思わなかった。
幽霊のせいで事故になるって、もしかしてこういうことなんじゃないか……?
見えたら怖いが、見えないのもまた不安だ。
いるかどうかがわからない。
だが、いるかもしれないと一度でも思った時点で、もうどうにもならない。
嫌な想像だけが一人で勝手に膨らんでいく。
自宅のアパートまで、ちょうど半分くらいの距離まで来た。
いまはもう疲労どころではない。
ダルさは吹き飛び、筋肉はカチカチで、目が冴えているどころか乾いてきた。
緊張が限界線で、疲労と拮抗している。
いつもなら通り過ぎるだけのコンビニ。
いますぐ車から降りたい。
一台も車のいないガラガラの駐車場。
車をバックで入れようとして、助手席のヘッドレストを左手で掴む。
思わずいつものクセで、助手席側から後ろを見ようと顔を向ける。
しまった……!
しかし、助手席には誰もいない。
ただ、掛けたはずのないシートベルトはそのままだ。
素早くバックして、駐車線内に停める。
窓を閉めて、ライトを消すと、エンジンを切り、自分のシートベルトを外した。
ドアを開けて外へ半身出たところで、一瞬固まる。
思い直して戻り、助手席のシートベルトも外す。
急いでドアを閉めて、歩きながらキーの無線でドアをロックした。
車内を見ないよう、一目散に店内へ飛び込んだ。
明るくて涼しい店内、棚に整然と並ぶ商品。
当たり前と思って、いままで気にも止めなかった見慣れた光景。
今日ほどニ十四時間営業のコンビニに感謝したことはない。
ここにはいま、安全と安心がある。
しかし、店が店なので、いつまでも長居するわけにもいかない。
結局、明日の仕事のことを考えると、あの車で帰る以外に選択肢は無かった。
のどが渇いて仕方がない。
外から車内を見たくなかった。
雑誌が並ぶ窓際の通路を避けて、スナック菓子の棚を通る。
冷蔵庫の缶コーヒーを手にしてレジに向かった。
会計するバイト店員の不愛想な態度すら、いまはなんだか名残惜しい。
冷たいアルミ缶を片手に、店から渋々と出た。
車を見る前に缶コーヒーを一気に飲み干した。
そうだ。もう一度、店内に戻って、空き缶を捨ててこよう。
なにか言い訳がましいが、とにかく車に戻りたくない。
コンビニへ戻ろうと踵を返したその一瞬、目の端で車を見た。
また、助手席のシートベルトが掛けられている。
もちろんシートには誰も座っていない。
……やっぱ、これ、居るわ。
怖い。
怖いことは確かに怖い。
だが、その一方で、Uはだんだんと腹が立ってきた。
タクシー幽霊の話は聞いた事がある。
でも、こっちはただの自家用車だ。
客でもなければ、縁も所縁もない。
勝手に相乗りとは、いったいどういう了見なのか。
こっちは、ただでさえ疲れている上に、明日もまだ仕事がある。
どれだけ幽霊が暇だか知らないが、生きてるこっちは毎日毎日忙しい。
いちいち死人になんぞ、付き合ってはいられるか。
車に戻ると、見えようが見えまいがUは無視を決め込むことにした。
自宅のアパートの駐車場で車を降りて、ドアを閉める。
この際もう助手席のシートベルトなんてどうでもいい。
キーで無線ロックをかけて、振り返りもせずに歩き出す。
ばたん。
ロックしたばかりのドアが何故か、また閉まったような音がした。
振り向いてみると、助手席のシートベルトが外れている。
どうやらあの女、やっと諦めて、車から降りてくれたらしい。
「てなことがあってさ」
久々に会った友人のUは、酔客で賑わう居酒屋でビール片手にそう言った。
「それで無事に帰れたのかい?」
差し向かいの席に座った私は、しょっぱい枝豆を摘まみながら聞く。
「見ての通りだよ」
「そりゃなによりだ。それで、もう車の方は大丈夫なのかい?」
「車にはそれっきり出てない」
残ったビールを一気に飲み干すUを眺める。
その日の缶コーヒーもこんな感じで飲んだんだろうなと私は思った。
……うん? ちょっと待てよ。
「車には?」
「そう、それなんだよ」
「なにかあったのか?」
「たまに残業なしで早く帰るとさ」
「うんうん」
「あの女が部屋に居るんだよ。すぐ消えるけど」
「住み着いてるじゃないか」
「しかもクソダサい灰色のスウェットの上下着てて」
「くつろいでるじゃないか」
着替える幽霊の話なんて、いままで聞いた事がない。
「とりあえず何もしてこないようだから、見えても無視してるけどさ。契約切れたら部屋引っ越すわ」
そいつはもしかすると、部屋じゃなくてUに憑いてるんじゃないか?
いままでの話の顛末からそう考えたが、私は黙っていることにした。
店を出た私たちは、タクシーを捕まえるために大通りへ出た。
酒で陽気になった連中があっちこっちで騒いでいる。
「なんか、まだ飲み足りねえなあ」
とはいうものの、Uはもうすでに結構な千鳥足だった。
「せっかく、明日は休みだしよ、飲み直そうぜえ」
「おいおい。そんなフラついてるのに、いまさら他の店行っても迷惑だろ」
「店じゃねえよ」
「じゃあ、どこで」
「俺の家でさ。ちょうどいま帰れば、ギリギリ出るかもって時間だ」
私が片手を上げると、滑るようにやってきたタクシーが静かに停まった。
ぐにゃぐにゃになったUをタクシーに押し込んで私は言った。
「悪いけど、明日は仕事があるんだ」