ゴミ捨て場の子ども
ある冬の日のこと。一人の少年が、路地裏を走っていた。空気は冷たく、雨は今にも雪に変わってしまいそうなほどだ。それなのに、少年は随分と薄着で、ひどく汚れていた。己の姿を気にも止めず、彼はただひたすら走る。
「いたぞ、あっちだ!」
「しつこい奴らだな」
少年は舌打ちを一つすると、路地裏の塀を飛び越え、街の中を移動する。
彼は、生まれた場所も親も知らない。ただ、どこかの貴族が、きまぐれに手を出した娼婦との子どもだと。代わりに自分を育てた老婆から聞いただけだった。その老婆も他界してしばらく経つ。後ろ盾のない彼は、あらゆることに手を染めながら、今日のパンにありついている。
今日も、一つ仕事を終えたばかりだった。彼のような孤児に出来る仕事は、限られている。彼は持ち前の運動神経と、己の顔だけで生計を立てていた。この街には、誰かが消えて仕舞えばいいと思う人間が多い。つまりはそういう人間の願いを叶えることが、彼の一番の仕事だった。
だが、今日彼は一つ失敗した。ターゲットの警戒心を、防衛策を見誤ったのだ。結果として、今こうして追われている。
「流石にここまで来れば、大丈夫だろ」
雨が雪に変わり、夜が朝になる頃。ようやく追手の影が見えなくなった。近場にあったゴミ捨て場の袋をベッドに、力無く座り込む。
彼は疲弊していた。雪のちらつく明け方に、薄着で外に出ていたのだ。熱も出ているかもしれない。もっとも、彼を看病してくれるような人はいないのだが。
「ふふ、俺の運もこれまでかな」
死人のように白くなった肌を震わせながら、彼は誰に言うまでもなく呟く。己の死を前にしているというのに、彼の顔に恐怖の色はない。むしろ、笑ってさえいる。このまま眠って仕舞えば、目覚めることはないかもしれない。それが、分かっているにもかかわらず。
ふと、雪が止んだ。霞み始めた視界の中、小さな靴が彼の目に入った。顔を上げると、そこには彼よりも小さな少年が、傘をさして立っていた。紫陽花の色をした瞳が、興味深そうに彼を見つめている。
「ねぇ、お兄ちゃん。こんなところで寝たら、死んじゃうよ」
桜色の唇が、彼に問うた。少年は翠の目を重たげに彼に向けながら、それでも笑っている。
「ふふ、それもいいかもね」
いつ終わってもいいと思いながら、惰性でここまで生きてきたのだ。彼には、もう生きる目的も手段もなかった。
「そっか。なら、僕が拾っていい?」
小さな子どもの口から出たのは、そんな言葉だった。
「拾う?君が、俺を?」
「うん。だって、死んじゃってもいいんでしょう?なら、僕が拾ってもいいよね。お兄ちゃんがいらないっていうなら、僕が欲しい」
これには流石に少年も、目を丸くした。こんな小汚い子どもを、子どもが拾おうとしている。
「……好きにしていいよ。俺は、もう眠い」
「本当?嬉しい」
花のように笑う少年の表情を横目に、彼の目はとうとう閉じてしまった。
少年は、ふと目を覚ました。最初に目に入ったのは、どこかの天井で。次に、自分がベッドの上で眠っていることに気がついた。今まで寝たこともない、しっかりとした羽毛布団。その傍らに、一人の老人が座っている。安楽椅子に腰掛けた老人は、何やら本を読んでいるようだ。その青い目が、翠色を見つめた。
「おや、起きたかい」
落ち着いた低音が、彼に語りかける。白い髭を綺麗に整えた老人は、見るからに上流階級の出立ちをしている。
「ここは、一体」
掠れた声で、眠っていた少年が老人に問う。起き上がった彼の髪は、くすんでいた昨晩と違って綺麗な金をしていた。
「その話をする前に、レインを呼んでくるよ。何せ、キミが起きるのを今か今かと待ち構えていたからね」
状況がうまく飲み込めていないまま、少年はうなづいた。
老人が出ていってしばらく。お盆を持った状態で、老人が帰ってきた。後ろには、小さな少年がいる。先程ゴミ捨て場にいた紫陽花色の彼だ。
「おはよう!よく寝れたかしら」
ベッドに真っ先に辿り着き、少年は彼の手を取った。小さな手は、彼の手よりも暖かく柔らかい。
「こら、レイン。彼が困っているだろう。すまないね、キミがいるのが嬉しくて仕方がないようだ」
老人はお盆を彼に渡す。上には湯気を立てたミルク粥が乗っていた。少年にとって数年ぶりの温かいご飯である。
「食べれるだけ食べるといい。キミにはまだ熱があるからね、無理はしないように」
「熱いから、気をつけて食べてね!」
「あ、ああ。ありがとう、ございます」
少年は恐る恐るスプーンでお粥をすくい、口にする。ミルクの甘味と塩の塩っぱさ、なにより温かい料理というだけで、彼の気分は落ち着いていた。
「それを食べながら、話を聞いてくれたまえ。まず、キミの名前を聞かせてくれるかい?」
安楽椅子に腰掛けなおした老人の問いに、少年は困った顔をした。
「俺には、名前がないんだ。生まれた場所も知らないし、親の顔も見たことがない」
「名前がない?ふむ、出だしから困ってしまったな」
そう困ってもいない様子で、老人は髭をなでつけた。
「では、ひとまずワタシから名乗ろうか。ワタシはローシュ。聞いたことはあるかね?」
「ローシュ?アルデバラン財閥の会長の?」
仕事の中で、彼はたびたびローシュの名前を耳にした。この国でもっとも栄えていると言っても過言ではない、大企業の創設者の名前である。
「知っていたかね。ワタシがここにいるのは、隣にいる彼の養父に当たるからだ。ほら、自己紹介をしなさい」
ローシュに背中を押され、紫陽花色の少年が前に出る。少し照れた様子で、自分の名前を口にした。
「僕はレイン。えへへ、やっぱり思ったとおりだ。お兄ちゃん、綺麗だね」
レインと名乗った少年は、汚れが取れて本来の色を出した金髪を見ながらそう答えた。
「今朝方、キミはそこのゴミ捨て場に倒れていた。それを拾ったのが、レインだよ」
なるほど、眠る前にレインが言ったことは、本当に実現されたらしい。現に少年はこうして、暖かなベッドで寝ていたのだ。
「犬や猫を拾ってくる覚悟はしていたが、まさか人間を拾ってくるとは思っていなくてね。驚いたとも。ああ、先に言っておくと。レインの両親は、先週亡くなってね。ワタシに引き取られることになっている」
少年は思わず、まじまじとレインを見た。両親を一度に亡くした子どもにしては、随分と落ち着いて見えたからだ。
「レインの意思を尊重するつもりではあるが。先ほど言ったように、人間を拾ってくるとは思っていなくてね。流石のワタシも混乱しているところだよ」
大して困ってもいなさそうな様子でローシュは話を続ける。
「さて、ここでワタシから質問なのだが。キミは、どうしたい?レインの意思を尊重するともいったが、キミは犬や猫ではなく一人の人間だ。キミの意思も加味しなくてはならない。キミの返答によっては、レインを説得する側に回るとも」
ローシュはそうは言っているが、瞳は暗に答えを示している。随分愛された子どもだなと少年は思いながら、紫陽花色の瞳を見つめた。その瞳は少し不安げだ。
「そう怖い顔をしないでくれ、ミスター。どうせ捨てるつもりの命だったんだ、どう使ってくれたって構わないよ。少なくとも今は、俺が貴方の提案を断る理由はない」
少年がそう言うと、レインは分かりやすく安堵の表情を浮かべた。
「そうだ、俺からの提案だ。レイン、君が俺に名前をつけてくれ」
「僕が、お兄ちゃんの名前を?」
「忠誠、とまではいかないけれど。君が俺の主人になるんだ、その方がいいだろう」
「ふむ。だそうだよ、レイン」
ローシュに異論はないようだ。レインはその小さな頭をしばらく悩ませた後、何かを思いついた様子で顔を上げた。
「エレン。エレンはどうかしら。嫌?」
「エレン」
少年はその名に覚えはなかった。だが、昔からその名前だったかのような、不思議な感覚があった。
「うん、素敵な名前だ。俺にはちょっと、勿体無いような気もするけれど」
「ううん、そんなことない。きっと、貴方はこの名前に相応しい人になる」
レインの言葉は、核心を得た時の音をしていた。少年──これからエレンになる彼も、そう決まっている気がしていた。何故だかは、分からないけれど。
「では、エレン。ひとまず、キミには休息が必要だ。医者から薬も貰ってある。お粥は食べ切ったね?一応聞くが、おかわりはいるかね」
「いや、いいよ。ありがとう、ごちそうさまでした」
「では、これを。飲んだらまた寝ておきなさい。病気の時は、休養が一番の薬だからね」
エレンが薬を飲んだのを確認すると、ローシュはお盆を下げて立ち上がる。
「さて。我々がいたらよく眠れないだろう。レイン、一度部屋を出よう」
「うん。あのね、エレン。元気になったら、いっぱいお話ししてね」
小さな手を振って、二人は部屋を後にした。残されたエレンは、ローシュの言う通りに眠る体勢になる。
「こんなに穏やかな時間、いつぶりだろう」
誰も追いかけてこない。寒さで凍えることもない。そんな時間は、数えるほどしか経験がない。
天井を眺めながら、エレンは今後どうなるのだろうと考えていた。レインにはああ言ったが、一時の子どもの気まぐれの可能性もある。実は全部夢で、本当の自分はあのゴミ捨て場で死んでいるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、いつしかエレンは眠りに落ちていた。
外は、まだ雪が降っていた。