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第8話 邂逅 その7

 リュシェンヌは週に三日ほど私塾に通うことになった。本当は毎日通いたい。休んでいてはフェリクスたちに追い付けない。だが心配性の母が、礼儀作法の時間や家庭教師について外国語や貴族社会のあれこれなど勉強する時間を増やしてしまったのだ。こちらをさぼったらおそらく私塾には通わせてもらえないだろう。リュシェンヌはこの2年を無駄にはすまいと決心した。


 彼女が行けない日の私塾で教えられたことを必ず復習するようにした。マリやローザが前日習ったことを教えてくれる。リュシェンヌが礼を言うと、彼女たちがそれには及ばないと答える。


「これは私たちのためにもなるのよ。習ったことをあなたに教えると自分の復習にもなるの。どうやったらわかってもらえるか考えると、こちらも頭に入ってくるからありがたいの」

「そうよ。あなたは私たちより年下なのに、本当にがんばっているよね。負けていられないわ」

「フェリクスも毎日は来られないらしいの。でも彼には教えることなんてないけれどね」

「そうなの?」

「女の子相手には無口でしょう、彼。男の子たちとはよく話をしているし、悪ふざけもするけれど、勉強も剣も誰にも負けないの。将来有望だと思うわ。平民なら偉くはなれないけれど、騎士くらいにはなれそうじゃない?」

マリが呆れたような声で言う。

「ローザ、あなたの話し方まるっきりおばさんだから」

三人は思わず大声で笑い出す。リュシェンヌはこうして友達と心から笑い合いたいと思っていたので、それが実現して嬉しくて仕方ない。


「アンナ、次に来るとき帰りにローザのおうちのパン屋さんに寄らない?」

「あなたたちが来るなら人気のあるパンをとっておいてもらうわよ」

「あさって来られるわ。楽しみにしている」


 翌々日は快晴だった。リュシェンヌは朝出かける時に母に頼んでお小遣いを少しもらった。貴族の娘は自分でお金を持つことなどないので、それだけでもうれしい。楽しみにしすぎて昨夜はなかなか寝付けなかったほどだ。


 授業の後、三人は連れ立ってローザの家に向かった。商店街の一角にあるその店は、小さいけれどいかにもパン屋さんといった可愛らしい店で、外までパンの焼けるいい匂いがただよっている。人気のある店のようで客足が途切れない。


 ローザの後ろに続いて店に入ると、そこにはリュシェンヌの見たこともないいろいろな種類のパンが棚に並んでいた。リュシェンヌが普段食べている白くてフカフカのパンはないようだが、小麦色の生地でどれもおいしそうだった。彼女が思わず見とれていると、店の奥からローザの両親が出てきた。二人ともふっくらとして明るくて穏やかな笑顔がローザによく似ている。


「やあ、よく来たね。君がアンナだな。いつもローザから話は聞いているよ」

「あ、はい、初めまして」

「授業が終わってお腹がすいているでしょう。ここのパンでよければぜひ食べて行ってちょうだい」

「ありがとうございます。どれもおいしそうで、さっきから目移りしちゃって…」

ローザが横から声をかける。

「このあたりが甘いパンよ。奥の方に食事に合うようなものがいくつか並んでいるの」

「ああ、迷う~。甘いのは絶対にはずせないわ」


 リュシェンヌはマリと一緒に皿を持ち、ひとつひとつじっくり検討し始めた。あまりに真剣な様子を見てローザの両親は笑いながら接客とパン作りに戻っていく。

「ローザ、台所で食べられるから。お茶の支度はまかせていいわね」

「わかったわ、母さん」


 その時、奥から小さな男の子が走り出してきてローザの腰にしがみついた。ローザがその子の頭をリュシェンヌたちのほうに向けさせながら紹介する。

「弟のジーンよ。5歳なの。ジーン、アンナたちにご挨拶は?」

「ジーン、初めまして」

リュシェンヌが声をかけると、ジーンはますます顔を隠そうとする。


 ローザが苦笑いしながら答えた。

「この子は生まれつき体が弱いので、あまり外に出ることもないから恥ずかしがり屋なのよ。ごめんね」

リュシェンヌはその場に腰を落としてジーンの目の高さに自分の顔を合わせた。

「ジーン、私はアンナよ。お姉さんのお友達なの。よろしくね」

「アンナ?」

「そうよ!名前を覚えてくれてありがとう。ジーンも私のお友達になってくれるかしら?」

ジーンは照れて答えないが、うれしそうなのはよくわかった。

「ありがとうね、アンナ。さあ、パンを選ばないと売れてなくなってしまうわ」

リュシェンヌはそうだったと思い直し、パンの棚をまたじっくり見て回る。


「甘いのは絶対食べたいわ。それは決まってるの。うーん、でもこちらの硬めのパンも捨てがたい…」

「このパンは薄く切ってハムやチーズをはさんでもおいしいわよ」

「ローザ、あなた客商売に向いているわ」

そう言うマリと一緒にリュシェンヌは甘いパンを二つとゴロっと丸くてこげ茶色のパンを買った。


 ローザに案内されて店の奥にある家の台所に入ると、後ろからジーンもついてきた。

使い込んだ食卓につくように促され腰を下ろす。リュシェンヌは庶民の家、ましてや台所など初めて入った。小さな台所はパンが焼かれるいい匂いに満ちていて、きれいに磨かれた台所道具が壁にたくさんかかっている。ローザが手際よくお茶の支度をしているのをぼんやりとながめてしまった。


「どうしたの、アンナ、ぼんやりして」

「ああ、パンのいい匂いで本当に幸せだなあと思ったのよ」

「幸せだなんて大げさね。私はパンの匂いなんて当たり前すぎて気が付かないくらいなのに」

ローザがいれてくれたお茶をひと口飲んでリュシェンヌは思わず叫んでしまった。

「何これ、おいしい!」

「そう?うちはいつもこのお茶よ。どこでも売っているめずらしくもない茶葉だけど」

「ローザの入れ方が上手なのね。うちの…いやいや、それじゃあ早速パンをいただきます」

リュシェンヌはうっかり、うちの女中に教えてほしいなどと言いそうになったので、あわててパンを手に取った。まずは薄切りリンゴののったパンを半分にちぎってかぶりつく。


「うっわあ…中にクリームがたくさん入っていてたまらない。ローザのお父さんはパン作りの天才だわ」

「アンナはいろんなことに感動するのね。父が聞いたら大喜びするわ」

「アンナ、私のパンとひと口交換しない?」

「うん、ああこっちの中にはチーズとはちみつなのね。最高の組み合わせだね」

こんなおいしいパンは食べたことがないので、あっという間に一つ食べ終わる。

「アンナ、本当に甘いものが好きなのね。ちょっとびっくりだわ」

「親がうるさくて甘いものはあまり食べさせてもらえないのよ。虫歯になるからって」

心の中で両親にあやまりながら、二つ目のパンに手を伸ばし、イチジクのプチプチした歯ざわりを楽しんだ。お茶のおかわりをもらって他愛ないおしゃべりをする。その間にジーンとも少しずつ話をして彼が大切にしているおもちゃも見せてもらった。


「ああ、お腹いっぱいよ。この茶色いパンは持って帰って家でいただくわ。さすがに三つは無理だった」

「アンナ、近くに新しくできた雑貨屋さんがあるのよ。とっても可愛いものがいっぱいよ。私たちもまだ入ったことがないから、このあと覗いてみましょう」

「雑貨屋…ああ、今日はすごいことばっかりだわ」

うっとりとつぶやくリュシェンヌを見て、ローザとマリはやさしく微笑んでいた。




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