外伝 苦労性アーチボルトの思い出話(2)
アーチボルトの回想の続きです。
もちろん、当時リュシェンヌ様は本名と身分を隠しアンナと名乗っておられました。それは殿下も同じことでした。フェリクスという名で、ただ一人の少年として私塾に通われていたのです。
あの私塾が殿下にとってどれほど大切な場所だったか。それはリュシェンヌ様が通われるようになって更に大事な場所になったようです。もちろんお二人ともまだ幼く、殿下もはっきりとわかってはいらっしゃらなかった。特にリュシェンヌ様のほうは殿下、いやフェリクスのことをただの友人としか思っていなかったでしょう。
それでも殿下はそれからの2年間で、信じられないほど精神的にも成長されました。これはもちろんバルト先生の教育の賜物と、良い友人たちに恵まれたから。
本当にバルト先生には感謝しかありません。身分が知られることを厭う殿下のお気持ちを汲んで、私は私塾には随行しておりません。ですので、先生にお目にかかったのは…あの辛い永遠のお別れの時が初めてでした。
リュシェンヌ様が私塾に通い始めてから2年後、突然の別れが訪れました。リュシェンヌ様が12歳になったら私塾を辞めて学園に通うというのは、初めからお父上の指示だったそうですが、それと同時に私塾自体がいきなり閉鎖されることになりました。これは後から知ったことですが、バルト先生にはこの国に迫る危機が見えていたのです。お若いころの悔いを繰り返さないためにもと、自ら申し出て「目」すなわち王国の密偵として潜伏しました。
私塾が閉鎖され令嬢に会えなくなって、殿下はかなり後悔されたようです。あれはやはり初恋だったのでしょう。私も細かくは伺っておりませんが、おそらくそのアンナという少女はどこか良い家庭の、貴族かどうかははっきりしませんが、しっかりとした家の令嬢だろうとは思われました。しかし、殿下もあまりに突然のことに動転して、何も聞かずに別れたとのことでした。
それでも時間は殿下の気持ちを待ってはくれません。外部からの危機はまだ現れてはいませんでしたが、国の内にはかなりの深さに虫が巣くっていました。現国王がお若いころからあまり政治に興味を示さず、一部の貴族たちに任せきりで、彼らの決定したことを追認するといったことが続いていたのです。これによって本来国が得るべき利益が損なわれたり、それぞれの領国間に格差が生まれたりといったことが頻出しました。確かにガイヤード王国は大国であり、すぐにその根本がゆらぐとは思えませんが、それでも内部からの腐敗を放っておけばいつかは崩壊します。国王夫妻が不仲で公に姿を見せないことも、国民からの求心力を損なう一因でした。
当時、王家の中でそれに気づかれたのは、第二王子であるルース殿下でした。ルース殿下は国の実態と王家の危うさを憂えながらも、ご自身が病弱であることと王太子となられる兄上のご性格から焦燥感を抱かれていたようです。そこへ現れたのが…というのがルース殿下にとっての現実ですが、カイル殿下です。王子様方は、特にカイル殿下は年が離れていたこともあり、それまで年に1度か2度儀式の時などにお会いするだけでしたが、成長されたカイル殿下と初めて直接お会いになって言葉を交わされて気づかれたのです。後にルース殿下はこうおっしゃいました。
「おかしな言い方かもしれないが、あの子を初めて見つけた。あの子になら託せると思った」
それからルース殿下からカイル殿下への「再教育」が始まりました。しかしながら、ルース殿下は予め私の両親から色々と聞いていらしたようで、頭ごなしに教えるのではなく王史を含む様々な文書を勧め、カイル殿下がご自身で興味を持ち理解を深めていき、国の現状と問題点に気づくようにと道を示していかれました。カイル殿下は初めて兄上から期待され、導かれて内心は大層嬉しかったと思います。王宮から出ることもなく、驚くほどの集中力で知識を身につけていきました。私も共に学ぶため、学園に通う時間がなくなったほどです。それも後から思えば、リュシェンヌ様にお会いする機会がなくなった要因の一つでもありました。もっともリュシェンヌ様ご自身も社交界には姿を見せませんでした。
何も持たないカイル殿下のためにルース殿下が選ばれたのは、当時既に政治の第一線から退いていたリード侯爵です。侯爵が公の職務を退いたのは年齢と体調のためというのは表向きで、腐敗した貴族たちとの直接の対立を避け、密かに彼らを排除するための方策を練っていたようです。カイル殿下を侯爵に引き合わせると、侯爵はやはり殿下の資質を見抜きました。意を同じくする貴族や官僚たちと殿下を繋ぎ、計画を実行するために動き始めました。
ルース殿下は、お体さえ丈夫なら冷徹な参謀になられたことと思います。事実お元気になられてからは神官としての地位を着々と上げていらっしゃいます。これは王族であることと関係なく、全くの実力からであることは誰もが認めるところです。
それはともかく、侯爵家で開かれた晩餐会すなわち顔合わせの場から帰り、成果を聞こうと殿下と二人きりになった私に殿下は叫びました。
「アーチ―!見つけた!!彼女だ、アンナを見つけたんだ」
「アンナ…?誰だっけ。ああ、もしかして、それはあの私塾で一緒に学んだという?」
「そうだ!他に誰がいる」
正直私は殿下がそこまで彼女のことを覚えて探しているとは思っていませんでした。
「彼女の名前はリュシェンヌ・リードだ」
「リュシェンヌ・リードって、それはつまりリード侯爵家令嬢ってこと?なんとまあ…」
「最初は信じられなくて、いつものようにお前の名前を名乗ってしまった。ああ、くそっ!それでなくても、彼女は全く俺に気づかないんだぞ。どうしたらいいんだ」
そう、殿下の髪色は成長と共に黒くなり今では私とそっくり同じ。ですので、こっそり出かけるような時には私の名を名乗っていたのです。
いやもう、その時の殿下の様子は見ものでした。いつもの貼り付けたような無表情は砕け散り、想う女性に振り向いてもらえない哀れな青年。
「名前がわかっただけでも大変な進歩じゃないか。お前は表立って動けないから、代わりに色々と聞いてくるよ。だから落ち着いて肝心の話を聞かせてくれ」
「うん…わかった」
私はリュシェンヌ・リード侯爵令嬢のことを調べ始めましたが、これがまた難しい仕事でした。母を通じてこっそりご婦人方の噂話など仕入れてもらったのですが、なんとリュシェンヌ嬢は社交界にはまず姿を現さないため誰も知らない。わかったことは、学園から院に進んだかなり優秀な女性だということと、一部の貴族たちの間では「勉強しか興味のない変わり者」と噂されているらしいこと。侯爵家で出会ったのは千載一遇の機会だったと言えます。何とか次の機会をと思い、父にリード侯爵のことを聞いてみました。もちろん表向きには殿下との政治的な関係について。そこからわかってきた侯爵の性格からみると、王子だからといって簡単に娘に近づかせるとは思えません。これは前途多難だなと思った時、思いがけない好機が訪れました。
第一王子殿下の立太子礼が行われ、それを機に若い令嬢たちが招待される舞踏会が開かれます。ここにリュシェンヌ嬢も出席されることがわかったのが当日。殿下はこういった場がお好きではないので、立太子礼はともかく舞踏会は欠席すると言っていました。私は急いで殿下のもとに走ります。
「カイル!吉報だ。いいかよく聞け。今夜の舞踏会には絶対出席しなければ駄目だ」
「俺はそういうのは嫌いだって知ってるだろう」
「リュシェンヌ嬢が出席するんだぞ」
「なんだって!それを早く言え!!着替えるぞ、アーチ―」
しかし殿下は王子としての正装ではなく、若い貴族と見える服装に着替えました。おそらくいきなり身分を明らかにするのではなく、一人の青年としてリュシェンヌ嬢に会い、ご自身を知ってもらいたかったのです。
それをぶち壊したのは私でした。殿下が令嬢と二人で話を始めたところへ、それと気づかずにうっかり殿下と声をかけてしまったのです。
殿下にはしばらく口をきいてもらえませんでしたが、国の情勢は一気に悪い方向へ傾き、殿下を取り巻く現状はそれどころではなくなっていました。つい先日王太子となられたばかりのマリク様が暗殺されたのです。王宮全体が悲しみと混乱に叩きこまれ、更に神官の一人が殺されるという禍々しい事態。それなのに、国王陛下は残念ながら自室に引きこもり何のご指示もありません。マリク様が亡くなり、ルース様が神官となって王家から離れた今、カイル殿下は否応なしに表舞台に立ち、危難に襲われた国と国民を背負うことになりました。
宰相たちの勧めもあり、それ以前から文官達の激務を助けるため優秀な院生に仕事を手伝わせる準備はできていました。数名の院生が選ばれて王宮に入った中にリュシェンヌ嬢が含まれていました。彼女は大変優秀なうえに実務にも優れ、宰相や文官長も期待していたようです。彼女ならば間違いないと推薦され、リュシェンヌ嬢は仕事に追われるカイル殿下の秘書として働き始めました。
私は少し心配していました。しかしこれ以降カイル殿下は見事に公と私を分け、国のためだけに全力を注ぎました。殿下以外に誰もなしえないとはいえ、自らの意思でサーヴ王の剣をとり、『魔』を封じたのですから。あの時のことは一生忘れられないでしょう。殿下を失うかと恐れ、途方もない絶望の淵を覗いた…あの気分は二度と味わいたくありません。
『魔』を封じ、西ヴストラントを追い払うと殿下は、いえ、国王陛下は国に大変革をもたらしました。それまで安定という名の滞留に淀んでいた政治の、内も外も大きく組み替えていきます。堕落して国の害にしかならない貴族たちはその程度によって粛清されるか、領地を大きく削られ力を失いました。しかしその変革が苛烈な激流となってすべてを押し流さなかったのは、偏に王妃様のおかげです。
国王となられたカイル様は、子供のころからの想いをつらぬきリュシェンヌ嬢を伴侶とされました。これはカイル様のみならず王国にとっての救いでした。国が危機を迎えていた時に果断な行動をとり、国を救ったカイル様はまさしく英雄でした。しかし平時のカイル様はあまりに鋭く、またその思想は性急に過ぎるところがありました。そのまま進めばついていけない者がいたことでしょう。数歩どころか限りなく先を見つめるカイル様を理解できる人間は少なく、いつかは反旗を翻す者も現れたかもしれません。
王妃となられたリュシェンヌ様は、カイル様と貴族達、さらには国を支える官吏や国民との間に立ち、常にその相互理解を深めるよう努めておられました。よくカイル様と激しい討論を交わしてその計画の方向性や進捗状況を変更させたり、カイル様の抜き身の剣のような振る舞いを諫めることもありました。
「カイルは言葉が足りないのよ。誰もが同じように理解できるわけではないわ。あまりに急激な変革はかえって害になることもあります」
更に言えばリュシェンヌ様はカイル様との討論を楽しんでいらっしゃるようでした。私塾でも同じようなことをしていたとおっしゃって、議論の後はすぐに仲の良いご夫婦に戻られる。得難い王妃様をよくぞ選んでくださったと感謝しかありません。
お二人は手を取り合ってその治世を駆け抜けました。晩年大公となられて若いころ楽しめなかった自由を存分に味わい、穏やかに過ごされました。私もありがたいことにお二人の住まう離宮にしばしば招かれ、リュシェンヌ様手ずからお茶をご馳走していただくことが何よりの楽しみでした。
初めてカイル様にお会いした時、これほどの人生が私に訪れるとは思ってもいませんでした。今でも思い出します。天使のような悪ガキのカイル様の姿を。
私にとってただ一人の王の姿を。
完
次は海賊男爵のお話をほんの少し載せる予定です。




