第47話 栄光 その1
最後と決めた日の朝、リュシェンヌは一人でカイルの部屋に向かっていた。扉の前に立ち、一度大きく息をついてから扉を叩く。
「入れ」
その声を聞いて扉を開けた。リュシェンヌが入室するのをカイルは無表情に見てくる。彼女は彼の執務机の前に進む。
「殿下、今回の事後処理も終わりつつありますので、私は本日をもって秘書としての仕事を辞めたいと考えております。文官長にはそのようにお伝えいたしました」
「秘書を辞めてどうする」
「院に戻り、文官登用の諮問を受けるための準備に取り掛かります」
「君なら諮問など受けずとも任命されるだろう?アーチ―も男爵も喜んで推薦状を出すと思うが」
なぜそこで二人の名前が出てくるのだろう?
「そんな…お二人にご迷惑をおかけすることはできません。宰相閣下から来月諮問を行ってくださるというお話を伺っております。それまで時間もありませんし、すぐにでも院に戻りたいと考えております」
「そうか、わかった」
カイルは立ち上がると机を回って来てリュシェンヌの前に立った。右手をこちらに差し出しながら言う。
「リュシェンヌ・リード、長い間ご苦労だった。本日をもって秘書の任を解く」
「ありがとうございます」
リュシェンヌもカイルと目を合わせてしっかりと手を握り返した。笑うことができて良かったと思う。手を放そうとしたがカイルが力を入れたままだ。思わず首を傾けると、カイルがぐっとくだけた調子で話しかける。
「これで君は秘書ではなくなったから、公の話はこれまでだ」
「そう…ですね」
「これから先は全くの俺の私用だが…リュシェンヌ、結婚しよう」
頭の中が真っ白になる。言われたことが理解できない。
「なっ、何をいきなり!」
「いきなりじゃない。ずっと考えていたことだ。返事は?」
口をパクパクするだけで声を出せないでいると、カイルは彼女を抱きしめてきた。
「ちょっと!やめてよ!」
思わず素に戻って叫んでしまうが、カイルは離そうとはしない。
「返事をするまで離さない。早く聞かせろ」
「今まで何も言わなかったじゃない。知らん顔して!」
「君が秘書でいる間に何を言っても公私混同になるし、命令にしか聞こえないだろう。これでも我慢していたんだ」
「―っ!もし私を危険な目に合わせたと責任を感じているなら…」
「責任だと?俺がそんなことで求婚していると思っているのか?」
カイルの口調が怒りを含んだものになった。いったん体を離すと、リュシェンヌの両肩を掴んでその顔をのぞきこんでくる。
「リュシェンヌ、君が好きだ。私塾で一緒に学んだ時から好きだった。君は自由で、強くて憧れだったんだ。あのころからずっと独り占めしたかった。子供だからわからなかっただけだ。会えなくなってどれほど後悔したと思う。君の家で再会した時信じられない思いだったのに、君ときたら全く気づきもしない」
カイルが早口で訴えるのをただ聞いているしかない。
「愛している…君は…違うのか」
最後の言葉は怯えるようにかすれていて胸をつかれた。リュシェンヌは目をつぶって、もう一度自分の心の中を確かめる。もう迷いはなかった。両手を伸ばしてカイルの頬にそっと触れた。
「私も…あなたを愛してるわ」
カイルが顔を寄せてくる。あの時と同じ口づけにリュシェンヌは身を任せた。
ところがしばらくすると、背中に回されていたカイルの手が怪しげな動きをみせて、ゆっくりと背中をなで、徐々に下がってきた。彼女は思わずカイルの胸をこぶしで叩く。それでも止めずに、カイルの片足がリュシェンヌの足の間に差し込まれてきた時、さすがに強く体を引き離し、抗議した。
「やめてちょうだい、こんな所で!」
「好きな女性を欲しいと思うのは男の本音だと思うが」
カイルはすっかりいつもの態度に戻って、しれっと言う。
「だから!いつ誰が入ってくるかわからないじゃない」
カイルが仮眠をとる簡易な寝台が部屋の奥にあるのは知っているが、冗談ではない。
「ここじゃなければいいのか?」
「そうじゃなくて、私にだって一応理想というものはあるの。誰にも邪魔されなくて…情緒的と言うか…素敵なところで…」
一所懸命に言い募るが、最後は恥ずかしくなって小さくしどろもどろになってしまう。カイルは何か納得したようにうなずくと、やっと体を離した。
「よし、覚えておこう。とりあえずこれから出かけるぞ」
「ど、どこへ?」
「決まっているだろう、リード侯爵邸に行く。父親に結婚の許可を得る必要があるからな」
「はい?」
カイルはリュシェンヌの手を握り、あっという間に廊下に出る。そこに書類を持ったアーチボルトが歩いてきた。
「殿下、ちょうど良かった。こちらの書類にご署名を…」
「アーチ―、今日の午後の予定はすべて取りやめだ。今すぐ出かけるから馬車の用意をしてくれ」
「は?無茶なことおっしゃらないでください。どこへ行かれるのですか?」
「リード侯爵邸だ」
そこで初めてアーチボルトはリュシェンヌが一緒にいることに気づいたようだった。
「リュシェンヌ嬢とご一緒に?何か問題でもありましたか」
「わからない奴だな。リュシェンヌとの結婚の申し込みに行く」
アーチボルトは一瞬何を言われたのか理解できなかったらしく、数回瞬きをしてから叫んだ。
「ふぇ…?はいぃぃぃ~?!」
声がひっくり返っている。
(そうよね…)
リュシェンヌはアーチボルトのこんな突拍子もない叫び声は初めて聞いたと思ったが、恥ずかしくて赤くなった顔を上げることもできず、言い訳もできないでいた。その間にもカイルはリュシェンヌの手をひいてどんどん歩いていくので、リュシェンヌはついて行くのがやっとだ。
「カイル、手が痛いってば」
ようやく気を取り直したアーチボルトが慌てて追いかけながら叫んだ。
「でっ…殿下!お待ちください!本当ですか?本当にリュシェンヌ嬢と結婚なさるんですかっ?!」
その叫び声があまりに大きかったので、あちこちの部屋の中から仕事中の文官たちや召使たちが次々飛び出してきた。
「今何て言った?何か結婚…とか聞こえたんだけど」
「あ、ああ…そう聞こえたな」
皆目を丸くして立ち尽くしているのがわかり、リュシェンヌはますます何も言えなくなる。
「何回も言わせるな。お前はそれほど理解が遅かったか?」
「いやいや、あなたのほうがとんでもないんです!こっ…こんな突然すぎてついて行けるわけないでしょう!」
普段アーチボルトは人前では形式ばって話しているのだが、さすがにそれも忘れているようだ。
「それにいきなり侯爵家へ行かれるのは無茶です!」
「では、お前が馬で先に言って知らせればいい」
アーチボルトはあまりのことに口を開けたまま動けずにいたが、突然天井を見上げて
「ああ、もう!」
と一声叫ぶと、持っていた書類を近くにいた文官に無理やり押し付け、周りにいた部下と召使たちに大声で命令する。
「馬車と馬の用意を急げ!午後の予定はすべて空白にして再調整するように!それから…教会と枢密院の大臣たちにも一報を。詳しくは後から知らせるとだけ言え」
同じく固まっていた全員が慌てて一斉に動き出す。速足で出口へと向かいながら、アーチボルトが尋ねてきた。
「侯爵にはどのようにお話したらよろしいですか?」
カイルがいたずらを企んでいるような顔で答える。
「大事な話があるから、二人がすぐ来るとだけ言えばいい」
彼は盛大にため息をついて走り出した。




