第40話 禁域 その9
カイルは森の奥、『魔』の封じられた禁域へ一人向かう。そこに彼がいると確信していた。腰に差した剣の柄に目をやると、はめ込まれた緑色の石が輝く。バルトからもらった地図に導かれて森を抜けたカイルの眼に荒涼とした風景が映った。草木はない。まして生き物の気配も。ここは無の世界だ。足元に敷き詰められた石も、その奥の岩でできた巨大な壁も全てが無彩色で生命のかけらも音すらも存在しない。自分が踏む石がたてる音も何かに吸い込まれるように消える。むき身の自分自身を突きつけられるような恐怖もあり、それを望むような妙な喜びもある。そしてそこに、ルキが剣を抜いて待っていた。彼はもう顔を覆っていない。あの頃と変わらず優しく気弱そうなその顔の、二つの目だけが暗く鋭い。カイルも無言で剣を抜きその鞘を投げ捨てた。
二人の剣は前にも増して鋭く交わる。力は互角かと思われ、誰も見る者のいない闘いは永遠に続くかのようだった。カイルがルキの剣を己の剣で受け止めたとき、ルキがその柄にある緑の石に気づき、その瞳が一瞬揺らぐのをカイルは見逃さなかった。ルキの剣を薙ぎ払い、その勢いのまま思い切り振り下ろしたカイルの剣はルキの体を切り裂いていた。
ルキが剣を落としその場に倒れた。カイルはしばらく肩で息をしてからゆっくりと近づいて行った。ルキのそばで立ち止まるが彼にはもう時間が残っていないようだった。なぜかルキは安堵したような顔をしていた。苦しく喘ぎながらルキが話し出す。
「フェリクス…君だろう?ああ…君でよかった…会えて」
「ルキ…お前はバドの一族だったのか?」
ルキは泣きそうな顔で続ける。
「フェリクス…君に頼める立場ではないことはわかっている…でも母と妹たちに罪はない…頼む…」
ルキは震える手を差し伸べてきた。カイルがその手を握った時、ルキの唇がかすかに動いて彼女の名を呼ぶ。
「アンナ…」
それが最後の言葉だった。カイルはその手を握ったまましばらく動けずにいた。どれほど時間が過ぎたか、彼はルキの体を森の端まで運び、窪みに横たえるとその上に彼の剣を置いた。
振り向いて岩壁を睨む。あの向こうに『魔』がある。バドの長がその力を利用しようとしたために今あそこからあふれ出んばかりに大きくなっている。しっかりと剣を持ちなおし、カイルは岩壁に向かって歩き出した。
高くそびえる岩壁に沿って進むと岩の割れ目があり、その奥に細く先の見えない入り口があった。剣を持つ手に更に力を込めて足を踏み入れる。その足が重い。両側は灰色の高い岩壁が続く。道の先はゆったりと曲がっていてまだ奥は見えない。恐怖、悲嘆、強欲、悪意、嫉妬、傲慢…そして絶望、ありとあらゆる闇がカイルの体を包むようだった。自分の持つ剣に意識を集中して進む。突然前方が開け、現れたのはまるで岩で造られた巨大な器、そしてその中に黒く『魔』が燃えさかっていた。
そのあまりの大きさにカイルは圧倒される。黒い巨大な炎としか言いようがない。炎が燃えるようにその形は変わり続ける。動けるのを喜んでいるかのようにうねって変化し続ける。そして器からあふれ出ようとしている。その炎に引き寄せられ、囚われたくなる。甘美なその闇に吸い込まれそうになる。一人背負ってきたその重荷を捨てて、何もかも忘れていいのだと『魔』が呼び掛けてくるようだった。カイルが一歩『魔』に近づこうとしたその時、彼の握っていた剣の柄が熱をもっているように感じられた。カイルはようやく剣を持ちあげた。緑色の石が彼の眼を射抜くように光る。その光はカイルに思い出させた。何より大切なもの、かけがえのないものを。
カイルは目を閉じて深く息を吸って吐く。昔幼いころバルトに教えられた剣を思い出し、心に光を取り戻す。己を信じて『魔』を正面に見据えた。炎がおびえたように揺らぐ。一歩踏み込んで…サーヴ王の剣で、その光で『魔』を切り裂いた。雷に打たれたような閃光が走る。その瞬間黒い炎は二つに割れたかと思うと音もなくスーッと小さくなった。小さく、小さく…消えることはない…しかし岩の器の底にほんの掌に乗るほどの小さな黒い火として残り、そこから動くことはなかった。
リュシェンヌ達が待つ時間は耐えられないほど長く続くように思われた。そこから見える風景に何も変わりはない。皆がただ森を見つめ続けていた。
どれくらい時間が経ったか、森の向こうに突然ひと筋の閃光が空に向かって走った。その光が森全体を一瞬明るく照らしすぐに消え去った。その後の景色に変わりはないが、リュシェンヌ達はかすかな希望を抱いて待ち続ける。
太陽が傾き始めたころ、ようやく木々の間に動くものが見えてリュシェンヌは立ち上がった。アーチボルトと兵士たちが走り出す。先頭を行くアーチボルトは泣いているようだ。そのままカイルに抱きつき動かない。兵士たちもその場に泣き伏してしまう。カイルは抱きつかれたまま困ったような表情を浮かべていたが、すぐにその体を押しやると静かに言った。
「『魔』は封じなおした。消えることはないが、もう人を操ることもない」
アーチボルトは声もなくただうなずくだけだった。兵士たちも安堵のあまり立ち上がることも忘れているようだった。カイルがこちらに目を向ける。リュシェンヌもただ黙って彼の眼を見つめる。彼はこれほど近くにいる。しかし同時にこれほど遠く感じたこともない。
『魔』に対峙し、それでもなお己を失わず『魔』を封じる、その強さ。そしてそのとてつもない孤独。私は彼に何を望んでいたのだろうとリュシェンヌは思う。国を救ってほしかったのか、その強さで。強くあることを期待していたのか、そうあるべきだと勝手にすがって頼っていただけだったのか。なんて自分勝手でひどいことをしていたのだろう。彼はたった一人で戦っていたのに。思わず自分を恥じて目をそらそうとしたとき、カイルの服の袖口に乾いた血の跡を見てしまった。まさかあれは…しかしカイルは何も言おうとしない。今ルキの名を聞いたら叫びだしそうに感じるが、カイルに確かめることなどできない。体が震えだすのが自分でもわかる。こんなことではいけないとリュシェンヌはぐっと両手を強く握って目をつぶった。
カイルは震えるリュシェンヌの姿に打ちのめされた。彼女は何かを悟って自分を恐ろしいと思っているのだろうか。彼女を抱きしめて話をしたかったが、指一本でも触れたら拒絶されるのではないかと不安でいっぱいになる。そばにいて拒まれるより、離れていても彼女に怖い思いをさせないほうがましだと思い、彼は何かを振り切るように声を上げた。
「時間がない。このまま国境へ向かい国軍と合流する」
皆それに従って急ぎ禁域を後にした。
彼らは知る由もなかった。アガーラの国内で事が起きていたことを。カイルが『魔』を封じた瞬間、アガーラの王弟のもとにいたバドの長はそれを悟った。『魔』が封じられた以上、彼が操っていた心の闇も力を失う。いや彼自身が封じ込められた『魔』に一緒に飲み込まれる。それが『魔』を自在に操ることと引き換えに求められることだった。他人の心を操りながらも自身の心を自制できずに彼は一気に恐慌状態に陥る。
「あいつに!あいつにだけは屈辱を与えなければ!」
そう叫んだ長はかつて愛した娘の仇、ガイヤード王のいる王宮へ向かおうと走り出す。
「呪術師殿!どちらへ?」
頼りきっていた呪術師がその場から走り去ろうとしたことに慌てた王弟がその腕を必死に掴む。その瞬間、長の眼には映ったのは王弟ではなく憎いガイヤード王の姿だった。
「ああ、ここにいたのか!」
ぞっとするような笑い声をあげて彼は目の前にいた王弟にいきなり切りかかり、その命を奪った剣で自らの胸をついた。『魔』を操ったとされる古のバド一族でさえ、逆に心の闇を操られ互いに傷つけあい自滅していったのだ。そのごく一部の力しか持たない彼がそのように自分の身を滅ぼすのは当たり前のことだったが、アガーラの王宮はかつて経験したことのない混乱の中に放り込まれた。




