第4話 邂逅 その3
その私塾は塾頭一人だけの小さなものなので、通う生徒に入れ替わりはあるものの、10人もいれば多いほうだった。塾頭の名はバルト。年は40歳ほどかと思われるが定かではない。細身の体に銀色がかった短髪で、背はさほど高くないが若いころは武人であったかと思われる体格と鋭い目をしている。だが子供たちを見る彼の眼は常に柔らかかった。彼の授業はただ文字や算術を教えるだけではなく、話を聞いているだけで国の歴史や他国との関係、辺境に地にあるという『魔』の存在、宗教と王家の関りや役割、さらには生活の知恵というものをいつの間にか身につけていると評判であった。彼は特に名を売ろうともしないので知る人はわずかではあったが、その教えを乞いに子供たちを通わせる者は途切れない。
リュシェンヌが初めてその私塾に入ったのは10歳の時だった。国を代表する大貴族リード侯爵家の末娘で、年の離れた兄二人の後に生まれた初めての娘であったので、両親と兄たちに甘やかされてのびのびと育った。特に兄たちはそれぞれ自分の得意なことを彼女に教えたがったので、ほんの小さなころから子供用の剣を持って扱い方を覚えるかと思えば、見たことのない他国の花や風習に興味を抱くといった具合だった。リード侯爵家の長男アルフォンスは初代侯爵の血を受け継いだ武人であり、次男サハドは文官として将来の宰相が期待されている。
リュシェンヌが10歳になったころ、兄たちがそれぞれ伴侶を得て実家から離れていった。それを機に母が家庭教師を厳選して勉強させると共に、自ら率先して礼儀作法を教え始めた。リュシェンヌも恵まれた自分の立場もわきまえてはいるので母の言いつけを守ってはいたのだが…兄たちの影響で自由奔放に過ごすことが多かった彼女には多少窮屈な生活でもあった。ちょうどその頃、王宮で貴族の子弟たちを集めた茶会が開かれることになり、リュシェンヌも幼いながら有力な侯爵家の娘であることから招待されることとなった。
当日リュシェンヌの支度を手伝ってくれた侍女たちが嬉しそうに声をかけてくる。
「大変よくお似合いです、お嬢さま。きっとご令嬢方の中でもお嬢様が一番ですわ」
「私が一番年下なのですって。子供だから相手にしてもらえないかもしれないわ」
「そんなことございませんよ。王子さまにもお会いできるかもしれませんよ」
退屈を紛らわせるにはいいかもしれないが、かた苦しい作法が苦手なリュシェンヌは少し気が重いながらも母と共に初めて城に足を踏み入れたのだった。
広い城の庭にたくさんの食卓が並べられ、菓子や果物が綺麗に盛り付けられている。やはり集まった子供たちのほとんどがリュシェンヌより年上だった。特に着飾った令嬢たちは大人の仲間入りをしたい年齢で、リュシェンヌは相手にされなかった。またリュシェンヌのほうも気どった彼女らの会話には歓心をもたなかった。彼女は一人茶を飲みながら美しく整えられた庭に目を奪われていたが、その時視界の端を小さな影がすばやく横切った。
「リスだわ!」
リュシェンヌはすばやく辺りを見回すと、近くにあったクルミ入りの焼き菓子をさっと手巾に包み、するりと椅子から降りて庭の奥の方へと駆けて行った。だがリスはすばやい動きで高い木を渡っていき、あっという間に見えなくなってしまう。
(ああ、いなくなってしまった…残念ね。でもお茶席よりこちらの方が楽しいわ。少し探検していきましょう)
さらに奥へと明るい林の中の散歩道をゆっくりと歩いていると、木々の向こうに茶会の警備を担当する衛士たちの姿が見えた。見つかったら連れ戻されると思った彼女は咄嗟にしゃがんで隠れた。頭の上から彼らの声が聞こえてくる。
「先輩、のんびりしていいんですか?この後王子様方がいらっしゃると聞いたんですが」
「ああ、俺たちは関係ないぞ。殿下方の警護は近衛隊の役目だからな。第一こんな外れの方にいらっしゃるわけがないだろう」
「それに多分お出ましになるのはマリク殿下だけだ。ルース様はまた寝込んでいらっしゃるそうだし、カイル様はいつも欠席だからな」
こんな重要でもない場所に配置された彼らはあまりやる気もなさそうで、のんびり噂話などしている。
「そう言えば俺いまだにカイル様って見たことないですが」
「俺たちだってお顔も知らん。気難しいという評判だしな」
「我儘な乱暴者だという噂も聞いたぞ。子供の頃からひどかったらしい」
「おまえ、誰からそんな話を聞いたんだ?」
「へっへ…下働きの娘とちょいとね…」
「おい!!おまえら、そんな所にいないで早くこっちへ来い!」
「はっ!申し訳ありません」
突然現れた上官に叱られて、衛士たちは慌てて警備に戻っていった。
彼らが立ち去ってから少し時間をおいて、リュシェンヌもようやく立ち上がった。
(あまり気分のいい話ではなかったわね。それにしても使用人の教育はどうなっているのかしら)
リュシェンヌは少し遠回りしてから茶席に戻ったが、その頃にはマリク王子はすでに退席していたので、彼女を探していた母にはたっぷり叱られてしまった。




