第39話 禁域 その8
山を下るとそこは草木のほとんどない岩場と砂地が続いていた。この先の河を超えた所から深い森が広がり、そのさらに奥が禁域となる。しかし禁域のみならず、誰もここから先には行こうとしない。サーヴ王が禁域を定めるずっと以前から、この辺りには人は少なかった。住んでいたのはわずかにバド一族のみで、一族の力が衰えてからここに住もうとする者はいなかった。
『魔』はおそらくこの大地ができたころ…もしくは世界が混沌としていたころから存在したのだろう。それはただそこに在るだけで、変化することも消えることもない。存在し続けるだけだ。しかし人々はその影響を知っていた。『魔』と名をつけ、恐れ、遠ざけ、反対に利用する。兵士たちの顔が青ざめ、かなり緊張している。リュシェンヌも重苦しい雰囲気に飲まれないよう苦労していた。カイルが先頭に立ち、普段と変わらない表情で進むのを見て、皆が気を引き締めることができた。
「河を渡る時には注意しろ。バドの残党がいるはずだ」
浅瀬を探して兵士たちが先に河を渡り切ったその時、森の中から黒装束の男たちが3人いきなり切りかかって来た。兵士たちが男らに立ち向かうが、足場が悪いうえに相手の動きが早く苦戦している。その間にカイル、アーチボルトとリュシェンヌは河岸に到達した。
「殿下!ここは食い止めますから早く!」
兵士の一人が叫び、3人が森と向かった時、また別の黒装束が現れた。アーチボルトが男の攻撃を剣で防ぎ叫ぶ。
「ここは大丈夫です!早く行ってください!」
カイルは唇を噛みしめ森へと走った。剣を合わせる音に追われるようにリュシェンヌもすぐ彼の後に続いた。彼らの無事を祈ることしかできなかった。
森は高い木々が鬱蒼と生い茂り、獣道のようなものしかないが、カイルには進むべき道がわかっているようだ。リュシェンヌも黙ってついて行く。しかし進むうちに空が暗くなり、遠くで雷が鳴り始める。雷鳴が徐々に大きくなり、閃光と音が同時に響くとついに雨が降り始めた。そして木々が途切れぽっかりと開いた空間に一人の男が立っていた。
男は他の者と同じように黒装束で顔も隠している。細身で若い男としかわからない。しかしカイルにはわかった。こいつは他の奴らとは違う。この男こそが兄王太子の一行を襲い、誰よりも強いと言われた男だ。
「リュシェンヌ…下がっていろ」
カイルは低い声で言うと剣を抜く。言われた通り下がりながら、リュシェンヌにもこの男がバドの残党の中でも手練れと言われた男だとわかっていた。体を低くし、静かに短剣を握りしめる。
男が無言でカイルに襲い掛かる。カイルがそれを剣で防ぎ、位置を入れ替わって男を狙う。凄まじい剣だった。どちらも崩れず、一歩も引かない。二人の剣が鋭く交わりその音だけが響く。雨に打たれながらリュシェンヌは呼吸も忘れるほど目を凝らしていたが、その緊張の中突然既視感に襲われた。なぜだろう、なぜこの二人の戦う姿を見たことがあると思うのだろう。そんなはずはない。黒装束の男を見たのは初めてのはずなのに。降りしきる雨の中、リュシェンヌは恐怖と混乱に訳もわからなくなってしまった。
カイルが雨に濡れた石に足をとられたのを見逃さず、男が剣を振り下ろす。その瞬間、リュシェンヌは思わず二人に走り寄った。間に合わない。そう思ったリュシェンヌは短剣を放った。男はカイルにのみ気をとられていた。男の右腕に短剣が突き刺さり、その剣がカイルの服をかすめる。男は一瞬取り落としそうになった剣を左手で持ち直し、こちらに大きく踏み込んでくると剣を横に薙ぎ払った。逃れようとしたリュシェンヌだったが、左の掌を切り裂かれた。
「うっ…」
「リュシェンヌ!」
カイルが叫び、男の首をめがけて剣をするどく突き出した。男がかろうじて首を振って避けたが、顔を覆っていた布が切り裂かれる。雷の鋭く青白い光が男の顔を浮かび上がらせた。
そこにカイルとリュシェンヌは信じられない顔を見たのだった。
「お前…まさか…」
男も同じくこちらを見定めて驚愕に囚われたようだった。男の顔がくしゃりと歪み、剣を掴みなおして慌てて逃げ去って行く。まるで恐怖から逃れるようだった。取り残された二人は立ち尽くすが、カイルが先に声をあげた。
「リュシェンヌ、大丈夫か!」
「ええ…傷は浅いわ。しばらく押さえていれば大丈夫」
「この場を離れよう。少し戻って手当を」
カイルはリュシェンヌの肩を抱きかかえ、急いで男とは逆の方向へ歩き出した。リュシェンヌはたった今見たものが信じられず、嘘だ、嘘だとそればかりが頭の中で繰り返される。男からだいぶ離れたと思われたところに、雨を避けられる大きな岩の窪みをみつけてそこで立ち止まった。リュシェンヌが布を出して傷を抑えようとすると、カイルが小さな包みを出した。
「あの集落でもらった傷薬だ。まさかお前に使うとは思わなかったが…助かったな」
彼は薬をリュシェンヌの傷に塗ると上から布でしっかりと押さえて縛ってくれた。その間二人は無言だったが、しばらくしてリュシェンヌが耐えきれずに言葉に出した。
「カイル…あれは…ルキだった」
既視感の正体がわかってしまった。子供の頃バルトの私塾で体術や剣を習っていた時、何度も目にした光景だった。カイルとルキの練習だったのだ。涙があふれて止まらない。
「どうして?どうしてルキがあんなことを?あれほどやさしい子だったのに。何があったの。ねえ、どうして!」
答えが出ないとわかっていても叫ばずにはいられない。リュシェンヌは顔を覆って座り込んでしまった。カイルは暗い瞳でじっと遠くを見つめて何も言わない。そんなカイルに、いや世の中のすべての事に理不尽だとわかっていてもリュシェンヌの怒りが向かう。なぜ、どうしてと繰り返す。
カイルがリュシェンヌを立ち上がらせようと腕を掴んで引き上げるが、リュシェンヌはかぶりを振るばかりで足に力が入らなかった。よろけた所をカイルの腕に抱え込まれた。思わず硬くなったリュシェンヌの体をあっという間にカイルが力強く抱きしめる。リュシェンヌは混乱して声も出なかった。あれほどルキのことを考えていた頭の中も真っ白になり、ただ抱きしめられたまま立ち尽くすしかない。そして…カイルが顔を寄せてきた。唇が重ね合わされ、その熱さにリュシェンヌは目をつぶり体の力が抜けてしまう。しかし次の瞬間カイルは彼女から自分の体を引き剝がすように離れ、手も離してしまった。リュシェンヌはまた別の困惑の中に置き去りにされる。カイルはこちらを見ることもなく、何も話さずに暗い目を森の奥に向けていた。リュシェンヌは彼の気持ちがわからない。抱きしめられ、口づけもされたのに、一人置き去りにされているような不安に襲われる。
二人が森に入って来た方角からアーチボルトと兵士たちの声が聞こえてきた。こちらを探しているようだった。彼らがかなり近づいてきた時、カイルが声を上げた。
「アーチ―、ここだ」
「殿下!ご無事で…良かった」
彼らは急いで駆け寄って来ると、二人が無事なのを確認して心底ほっとしたようだ。
「賊はなんとか倒しました。生け捕りにしたかったのですが、手傷をおった彼らは毒をあおったらしく…残念です。リュシェンヌ嬢!まさか…怪我を?」
「大して痛くもありません。薬がありましたから大丈夫です」
リュシェンヌは心配してくるアーチボルトにかろうじて返事をした。
「ともかくお二人に追い付くことができて安心しました。参りましょう」
先に進もうとした彼らをカイルが止める。
「お前たちは先ほどの河まで戻って待っているように。ここから先は俺一人で進む」
「殿下!そんな無茶はさせられません!何があるかもわからないのに!」
青ざめて叫ぶアーチボルトに向かいカイルが静かに言う。
「『魔』に対峙するのは俺一人だ。お前たちが来てもできることはない」
そのあまりに低く冷たい声に全員の体が硬直する。リュシェンヌもいきなり変わってしまったカイルに近寄りがたいものを感じた。
ここから先はカイルの世界、彼のものだ。誰も踏み入ることはできないと思い知らされる。カイルは黙ってリュシェンヌの瞳をじっと見つめてきた。感情の読めない青灰色の瞳。カイルはリュシェンヌの肩を静かに押してアーチボルトに行けと命じ、さっと身をひるがえして森の奥に向かって行った。すぐに姿が見えなくなる。リュシェンヌはその場にいたかった。たとえカイルが拒絶してもせめて少しでも近くに。だが、カイルのことを理解するならば言われた通り離れているべきなのだ。あまりにも厳しい理解だった。
同じく立ち尽くしていたアーチボルトがようやく声を振り絞る。
「行こう…戻って殿下をお待ちしよう」
彼の声は暗く涙が混じっているようだ。兵士たちものろのろと道を戻っていった。リュシェンヌは黙って彼らの後ろをゆっくりと進んでいく。河原まで戻るとリュシェンヌは力尽きて座り込んでしまった。アーチボルトと兵士たちは倒した賊の体を調べていたが、すぐに手を止め森の奥をただ見つめていた。




