第38話 禁域 その7
次の日の朝、男爵は船を北に向けさせた。北の小さな港の沖合で潮流の弱い時間を見計らい、小さな舟を降ろす。小舟に乗ったのはカイルとアーチボルト、ほんの数名の兵士たちとリュシェンヌだった。カイルたちはもちろんリュシェンヌを連れていく気はなかったが、彼女は絶対に残されるつもりはなかった。最後までお互い相手を説き伏せようとしていたカイルとリュシェンヌであったが、男爵が自ら手をとってリュシェンヌをさっさと小舟に乗せてしまった。
「ほら、時間がもったいない。潮の流れが変わってしまうぞ」
そう言われてカイルはしぶしぶといったふうに舟に乗り込んだ。
船員の一人が操る小舟は強い波にもまれながらもようやく港に入った。カイルたちが陸に上がると小舟はすぐ戻っていった。潮流が変わると舟が操れなくなるからだ。
もともと禁域に近いこの小さな海沿いの村は細々と漁で生活している。普段はそれでも街道を通る荷があるので、少しは収入があるのだ。しかし今は国境付近の争いのため、荷を運ぶ商人たちは来ない。ほとんどの村人は伝手を頼って南に避難し、残った者もひっそりと息をこらして閉じこもっているようだ。一行は目立たないようにさらに北へ向かう。アーチボルトがこれからの道程を説明した。
「ここから先の禁域に向かう道は街道から外れて山の中を通る。山の中腹に最後の集落があるはずだから、まずはそこを目指そう。急いでもおそらくそのあたりで日が暮れる。そこに泊まって明日早朝に禁域に向かう」
いよいよ禁域が間近に迫って来て皆緊張を隠せない。街道をしばらく行くと西北へ分かれていく細い道があったので、そちらへ足を踏み入れる。道は少し先で徐々に険しい山道となっていったが、一応通る人間はいるようで木々の枝は取り払われ道もはっきりと踏み固められていた。しばらくは歩きやすかったが、ある程度登ったところで彼らの進む先はいきなり深い霧に覆われてしまった。先頭を進む兵士が道を探すこともできないくらい深い霧で、このままでは遭難すると判断したカイルが様子を見ようと声を上げたとき、現れた時と同じく唐突に霧が晴れた。まるで誰かが山に入る者を選んでいるかのようだ。明るい日差しの中を一行はまた登り始めた。彼らが歩くと鳥や小さな獣たちが驚いて逃げ去るのがわかる。息を切らして登り続け、日が傾いたころようやく前方に集落の灯りが見えてきた。
山の中腹に階段状に切り開かれた畑が並び、その間に何軒かの家が立ち並んでいる。このような山の中にしてはそれぞれの家は比較的大きく、生活に困窮しているような様子はなかった。
「アーチ―、集落の長を探して協力を依頼しろ。ただし我々はただの兵隊だ。西ヴストラントの斥候が潜んでいないか念のために街道から外れて調査していることにしろ。明朝本隊に合流するために北へ向かうと言え」
アーチボルトが集落の中でも一番高いころにある大きな家に入って行った。しばらくすると白髪の老人を伴って出てくる。彼は痩せているが品のある人物で、突然の訪問者に驚きながらも一行を家に招き入れた。家人に顔や手足を洗うための水を用意させ、広い居間に通すと、老人はこの集落の長でホルムと名乗った。
「この集落に薬師や隊商以外の方がいらしたのは何十年ぶりでしょう。まして兵士の方々が調べに来るとは」
その言葉は許された者以外この山に入ることはできないと暗に示していた。『魔』に近いがその影響を全く受けない清浄な場所はやはりそこに入る者を選ぶようだった。
ホルムが続けて尋ねてくる。
「それほど国境での戦闘は厳しい状態なのですか」
「失礼だが…このような山の中にしてはいろいろとご存じのようだ」
アーチボルトが尋ねる。カイルは彼に任せて黙って聞いているようだった。
ホルムが穏やかに微笑んで話し始めた。
「我々はもう何世代もここに住んでおりまして、ここでしか育たない貴重な薬草を栽培することで生活の糧を得ております。この山の土と空気と水が薬草栽培に一番適しているのですよ。今は技術が進んで作れる薬の量も多く、質も良くなりましたが、昔は大変な貴重品だったので私の数代前までは薬師たちのみがここを訪れることができました。薬師たちは代わりに様々な情報をもたらすことで、この集落のことを守ってくれました。ですからその名残でこの集落には名前がないのですよ。うっかり他でしゃべらないようにね。我々も世情に通じていないとたちまち生活に困ります。なにせこんな山の中では逃げ場もありませんので」
ホルムは誰にこの集落のことを聞いてきたとは尋ねなかった。それなりに思い当たるところはあるということだろう。
「急なことで何もありませんが、夕食をご一緒に。集落の者も手伝ってくれていますので、すぐにお持ちします」
その言葉通りに女たちの手によって暖かい食事が運ばれてきた。こちらに警戒心を抱いていないと示すためか、長老夫婦と息子夫婦そして幼い子供たちまでもが一緒に卓を囲む。食事は質素ではあるが十分な品数と量があり、疲れていた一行には大変ありがたいものだった。特に最後に出された茶の香りが大変すばらしいものだったので、リュシェンヌは給仕してくれた女性にこっそり名前を尋ねてみた。
「この集落で栽培するごく普通の茶葉でございますよ。ただ発酵させる手順にこつがあるのです。もう少し量が採れればこれも商売になるのでしょうが、畑が狭いので自家用で精いっぱいで…」
「そうですか、でも本当においしいです。疲れがとれるようです」
それを聞いて女性も嬉しそうだった。ホルムもにこにこと聞いていたが、明日早いでしょうからと片付けて寝る場所を用意してくれる。リュシェンヌは別に小さな部屋を用意された。そこは普段長老の妻が使っている部屋を開けてくれたようで、片隅にはきれいな刺繍を施された布地が置かれていた。リュシェンヌはこのような山の中でも精神的に豊かな生活をしている人々に驚かされるとともに、この生活が乱されることのないようにと改めて決意するのだった。
翌朝、見送る長老に礼を言い北へ向かう。長老は小さな包みを取り出すと、こう言った。
「ここの薬草で作った傷薬です。お役に…いや、使うことのないように願っておりますよ」
彼はカイルに向かってその包みを差し出す。目立たないようにほとんど話さなかったのに、彼にはこの一行の中で誰が主たる者なのかわかっていたようだった。カイルも小さくうなずいて礼を言う。
「大変世話になった。感謝する」
「どうぞお気をつけて」
長老が深々と礼をする。軍に合流するには東寄りの道を行かなければならない。しかし、一行は西の峠を越え禁域に向かった。




