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第35話 禁域 その4

 もちろんリュシェンヌはこれらのことを詳細に兄から聞いたわけではなかった。兄は大筋の説明をすると、現在最も重要なことを伝えたのだ。

「最近のアガーラの様子を見たバルト先生は、やはり亡くなった将軍に起こったことを調べなおす必要があると思われたそうです。当時将軍は年下の妻と遅い結婚をしたばかりでした。もしや何者かに妻に対する疑いを植え付けられたのではないかと。そして心の闇に囚われてしまった…。昔の後悔を繰り返さないためにも先生は私塾を閉じ、父と兄に申し出て『目』として潜伏したそうです」


 カイルとアーチボルトは無言だった。「目」は直属の者以外には正体を絶対に現さない。しかしリュシェンヌはこの緊急事態にバルトと会って直接情報を受け取るようにと兄から申し渡されたのだ。

「兄からこれを預かりました。先生が国内で身を寄せる者の住まいです。これは覚えてから焼き捨てろと命ぜられています」

カイルとアーチボルトはそれをしっかり覚えると手燭の火で燃やしてしまった。

「今のうちにお前たちも休むように」


 リュシェンヌは自分に与えられた小部屋に入るが、今になって船の揺れが気になり気分が悪くなってきた。とりあえず新鮮な空気を吸おうと甲板に上がると、そこに数名の船乗りたちに囲まれた男爵の姿があった。

「これは、リュシェンヌ様。足元が危ないですよ。こちらにお座りください」

船乗りたちが我先に飲み物やひざ掛けを持ってきてリュシェンヌに勧めてくる。

「どうした?船酔いか?」

意地悪そうな顔で男爵が問いかけてくる。隣に腰かけてなんだか楽しんでいるようだ。

「…ちょっとだけです。外にいれば治りますからご心配なく」

「ふふん…その負けず嫌いもなかなか…これほどの女性がいるとはね。世界は広い」

「男爵…伺いたいと思っていたことがあるのですが」

「なんなりと」

「男爵はなぜカイル様に協力していらっしゃるのですか?男爵の普段の振る舞いを拝見するに、失礼ながら王家にそれほどの思い入れがあるとは考えられないのですが」

「ははっ!本当に失礼な物言いだな!」

男爵が質の悪い冗談を聞いたように笑い出すのを、リュシェンヌはじっと見つめる。


 男爵はふと真面目な顔になって話し出した。

「そうだな…王家に思い入れはない。それは確かだな。俺は海に生きるものだよ。体も心も自由な海に。俺が忠誠を誓うのはこの大海原、ここが俺の一部であり、俺が海の一部でもある」

リュシェンヌにまるで誇るかのように、大きく腕を伸ばして海と空を指し示す。


「海があれば生まれ故郷などどうなっても構わんと思っていたのだが…あちらこちら回るうちに嫌な話も耳にするようになる。そうして嫌な予感というやつだ。救国の王などという世迷言は信じていなかったが…あんたの父上に強引に誘われた。殿下に会えと。会った結果…この始末だ。あれを気に入った。だからこうして船を出している、それだけだ」

「そうですか…」

リュシェンヌは思わずため息をついてしまった。

「何か言いたいことがありそうだな」

「はい、あの父に追い付くのにどれほどの年月と努力が必要かと…ちょっときついなと思いまして」

男爵が大笑いして言う。

「無理、無理!あの妖物に追い付けるものか!」

「ひどいですね、曲がりなりにも私の父親ですのに。妖物の娘は何になるのでしょう」

男爵は楽しそうにリュシェンヌの顔を見つめ、何も言わなかった。




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