第34話 禁域 その3
20年ほど前…バルトは将軍と共に反乱の芽があるという情報を得て、アガーラとの国境に近いバエド山脈の麓にいた。何日か探索したがこれと言って手がかりもみつからず、兵士たちは達成感も得られない捜索に疲れが出てきたころだった。
「バルト、どうやら情報は当てにならんらしいな」
将軍がこぼす。珍しく彼は少し酒を飲んでいるようだった。
「そうですね、最初は確かなもののように聞こえたのですが…明日体制を立て直してもう一度確認しましょうか」
「そうだな、反乱がないのはいいことだが、それならなぜ確度の高い情報として扱われたのか気になるところだ。見方を変えてみるか」
「明日も早いですから、ゆっくりお休みください」
「ああ、…バルト」
天幕を出ようとしたバルトは振り返った。
「すまんな…年のせいか、この件はちょっと嫌な感じがする。暗い霧の中を手探りで行くような感じだ。俺は軍人だから腕には自信がある。しかしこいつは…嫌な感じとしか言えんが、今までにない気味の悪さを感じるんだ」
「気味の悪さ…ですか」
将軍はふっと笑うと、
「いや、つまらんことを言ってしまったな。もういい、お前も早く休め」
「はっ、将軍、失礼いたします」
バルトはまだ若く、将軍の言った嫌な感じとか気味の悪さという意味もわからなかった。普段明るく豪放磊落な将軍が言うこととも思えない。そこで将軍にはっきりと確かめなかったことをバルトは後悔することになる。
将軍はそれから日毎にふさぎ込むことが多く、口数も少なくなっていった。バルトが尋ねてもろくな返事が返って来ない。バルトは准将として軍をまとめる責任に追われるようになった。
ある朝、起きてきた将軍の顔色を見て、バルトは違和感を覚えた。将軍は酒臭かった。それまでそんなことは一度たりともなかったのだが、イライラと従卒や兵士たちに怒鳴りつけ落ち着かない様子だった。兵士たちがバルトに尋ねる。
「申し訳ありません、准将、今朝の将軍閣下のご様子は…」
「うむ、私もお尋ねしてはいるのだが、話してくださらないのだ。何事もなければ早めにハマーショルドに戻った方がいいかもしれない」
その日は少し南下して野営をすることになった。反乱の気配も見つからないので、バルトはこのままハマーショルドに帰還する計画を立てるつもりだった。将軍の様子は明らかに変化している。それも悪い方に。以前は勇猛で部下想いの将軍で誰もが尊敬する人だったのに、ここ数日は誰も近づけないほどだ。最初は疲れが出たのかとも思ったが、この様子では何か病気なのかもしれない。一応中央に報告しなければと考えていた時だった。将軍の天幕のある方向から妙な声が聞こえた。すぐに剣を持ち自分の天幕を出たとき、そこに立っていたのは剣を手にした将軍だった。仄暗い灯りのもとでも将軍の姿は見間違いようがない。
「将軍!どうされました。今の声は?」
バルトが声を上げてそちらに駆け寄った時、立ち尽くす将軍の足元に倒れ伏す兵士たちの姿が見えたのだ。
「これは!敵襲か!」
そうバルトが叫び兵士たちを呼ぼうとした、まさにその時、将軍が無言でバルトに切りかかって来た。バルトは混乱しながらもその剣を必死で受け止める。
「まさか…兵士たちを切ったのは」
バルトは言い知れない恐怖に襲われた。もしや将軍が狂気に陥ったのか。音を聞いて数人の兵士が駆け寄って来たが、目の前の光景に驚いて手が出せない。バルトは振り下ろされる剣を受け止めつつ叫んだ。
「将軍!どうかお止めください!お願いです、正気に戻ってください!」
将軍はあくまで無言だった。その異様さに兵士たちも気づく。バルトの剣が将軍の腕をかすめ、痛みが将軍の気をそらしたようだった。一瞬将軍の眼がバルトを捉える。
「バルト?…俺は…何を…」
将軍が周りを見回して兵士たちの死体に気づいた。その眼が正気に戻ったと同時に恐慌に陥ったような色を帯びた。顔がくしゃりとゆがむ。
「この兵士たちは俺が?そんな…うわああ!」
将軍はいきなり剣を自分の首筋に押し当てて一気に切り裂いた。
「将軍!!」
バルトと兵士たちが駆け寄り将軍を抱き起すが、すでに将軍はこと切れていた。
バルトは愕然としたが、国軍としてとにかく混乱を避けなければならない。兵士たちに口止めすると将軍の体を天幕に運び込み、倒れていた兵士たちを助け起こす。中に一人だけなんとか助かった者がいた。彼によるとやはり将軍がいきなり切りかかってきたというのだ。彼は泣きながらこう証言した。
「閣下は…妙なことをおっしゃいました。妻に何をした…と。我々が返事もできずにいるといきなり…准将…信じられません。あの将軍閣下が我々に剣を向けるなど…」
バルトは中央の司令に急ぎ伝令を送った。将軍の死を伏せ、急病であるとして部隊をひと足先に首都に戻らせる。将軍と兵士たちの遺体の他に残ったのはバルト以下、あの晩の目撃者数名と重症の兵士のみだった。目立たない馬車を用意し、ひっそりと首都に戻ったのだ。
首都に着くとバルトが将軍を殺害したのではと疑われ詰問が待っていた。しかし複数の目撃者があることと、将軍に襲われた生存者がいたことからバルトへの疑いはすぐに晴れる。だが、バルトの心は逆に疑問の渦の中に放り込まれたようだった。将軍に何が起きたのか、「妻に何をした」という将軍の言葉はいったい何だったのか、誰かがそのような噂でも将軍の耳に入れたというのだろうか。はっきりしたことは何もわからず、軍の不祥事として将軍の死も病死と偽られた。そしてバルトは何も手につかなくなり、軍を辞めたのだった。数年は何もやる気が起きなかったが、将来を担う子供たちを育てることにかすかな希望を見出した。私塾を開いて子供たちを教育することは彼にとって救いであり、新たな道を歩むきっかけともなった。




