第30話 予兆 その10
翌日国境付近の国軍からまた別の知らせが届いた。
「殿下、どうやら西ヴストラントが我が国との国境付近に軍を展開しています。先日我が国軍が国境近くで活動することに対して説明をした際には理解を示していたようだったのですが…もう一度使者を送りますか?」
「いや、相手はわかってやっているのだろう。こちら側には侵攻する意図はないとわかっていても、何か我が国の力が少しでも削がれるようなことがあれば、すぐに国境を越えてくる用意があるということだ。我が国を支配することは無謀だが、少しでも領土を拡大するのにやぶさかではないということだ。特に西は海に接していない。混乱に乗じて少し南下して港が手に入ればと思っているのだろう」
「国軍に対しては絶対に事を起こさないよう徹底いたします」
「そうしてくれ」
その時、サハドが面会を求めてきた。人払いをして急いで招き入れる。
「殿下、遅くなり申し訳ございませんでした。何度も探しましたが、サーヴ王の時代の王史はやはり王宮の書庫にはございません。その代わり書庫の最奥に他の時代のものに紛れ込んでいたのが…先々代の王の日記とも手紙とも言えない書付でございます。主に書かれていたのは日々の記録でありましたが、その中にこれが」
カイルたちがその一枚の古びて何かから引きちぎったような紙に向かい合う。そこにかかれていたのは先々代の王の悲痛な叫びとも言える内容だった。乱れた文字でほんの数行。
『余はサーヴ王にはなれぬ!救国の王でない王位に何の意味があるのだ。ああ、このような考えこそ余をかの王から遠ざけるものなのに…見たくない!見たくない!』
あまりに赤裸々な言葉に皆声を失う。カイルが身じろぎしたのをきっかけにサハドが話始める。
「先々代の王の時代に農産物の病害虫が大量に発生し、特に国の北方で大規模な飢饉が起こったことがございました。他国も程度に差はあれ同じように不作が続き、なかなか食料の確保ができず15年ほど苦しい時が続いたと王史にございます。各地で反乱も起きましたので、これが書かれたのはその頃のことかと思われます。最後に『見たくない』とありますので、もしやサーヴ王の頃の王史が書庫にないことに関係があるやもしれません」
国の災厄の時に必ず現れるという偉大な王…先々代の王は相次ぐ飢饉や反乱に苦しめられた。しかし彼はサーヴ王のような圧倒的な力を持たなかった。ひたすら目の前のことに対処していくしかできなかった。平凡な力不足の王として貴族や兵士たちに侮られることもあっただろう。反乱の鎮圧に時間がかかったのもそれが原因のひとつかもしれなかった。
閉じられていた扉を叩き、護衛の兵士が声をかけてくる。
「教会から知らせが参りました。カイル殿下に至急お越しいただきたいとのことです」
カイルはさっと顔を上げ、そこにいた者たちと一緒に大急ぎで部屋を出て行く。リュシェンヌは無言でそれにつづいた。
カイルたちは神官長の私室に案内された。机に古い文書が散らかっており、奥の椅子にはルースが腰かけて下男から差し出される飲み物を口にしている。彼の衰弱しきった様子にカイルが走り寄った。
「兄上、これほどお体を酷使して…無理をお願いして申し訳ございません」
「私にできることはこれだけなのだから、心配はいらないよ」
ルースは下男を下がらせて扉がしっかりと閉ざされたのを確認してから口を開いた。
「サハド、君もご苦労だった。何かわかったか」
サハドは先ほどカイルたちに話したことを要約して説明する。
「やはりそうか。カイル、サーヴ王の時代の王史を禁書の最奥で見つけた。他の時代の教典に紛らせてあったのでバラバラになっているが、ほとんど揃っていると思う。おそらく先々代の王の意向を組んだ当時の神官長あたりがこちらに引き取ったのだろう。もしかしたら捨てろと言われたのかもしれないが、さすがにそれは憚られたと思われる。私がこの短い時間で読んだことの要旨はこうだ」
ルースが熱に浮かれたように言い募るので、リュシェンヌは自分のような者がそのような話を聞いてもいいのかと思ったが、誰もが黙っている。緊張した空気に部屋から出ることもできなかった。
「サーヴ王が各地で起こった反乱に苦闘したことは知っているだろう。中でも特に苦慮したのは今よりずっと力を持っていたアガーラとの関係だ。アガーラは今ガイヤード領地となっている『魔』の領域を占領していた。そして『魔』の力を利用できるバド一族を使ってガイヤード国内の内乱を引き起こし、その隙にこちらを攻めようとしていたのだ。しかしバド一族が『魔』の力を使えるとはいえ、おそらくほんの一部の力を借りるだけだ。『魔』そのものを呼び出しでもしたらその者は瞬時に飲み込まれてしまうから。お前は王宮の奥殿にある剣のことは知っているな」
いきなり話が変わる。カイルが答えた。
「はい、子供の頃王子としての教育を受けた際に、アーチ―の父から聞かされました」
サーヴ王の剣…それは子供向けのおとぎ話にもなっているほど、この国の者ならば当たり前のように耳にしているあまりにも有名な話である。しかしおとぎ話であるからこそ、真実の話と思われず英雄伝説の夢物語のような存在でもあった。
「有名な話だから誰もが聞いたことがあるだろう。王宮にいる者以外は伝説と思っているかもしれないが、サーヴ王の剣は実在する。王宮の誰も近づけない奥殿にしっかりと封印されているのだ。それを手にすることのできるのは…サーヴ王の再来とも救国の王とも言われ…他の王がたとえその剣をふるっても何も切ることはできないのだ」
皆は息をのむ。それでは先々代の王はその剣を持ったのだろうか。そして何もできなかった…絶望してあの言葉を残したのだとわかった。
「あれは我々王家の始祖、初代国王のために鍛えられた剣だ。それとともに、国第一の宗教アーメド教も生まれた。アーメド教は『魔』と対峙し、人々の心の中の小さな闇をなんとか抑えるために発展した宗教だ。わかるだろう、人は皆心の奥底に闇を持つ。何も持っていないのは生まれたばかりの赤子だけだ。闇はしかし、人々の闘争心や向上心を養うのに役立つ。嫉妬も執着もないところにそれらは生まれない。心の闇とうまく付き合ってそれを克服していくのが人というものだ」
一気に言ったルースの体がぐらりと傾く。カイルが慌ててそれを支えた。
「兄上!」
「大丈夫だ…いいか、カイル。おそらくまたバドの末裔が『魔』の力をもって一族の復活を狙っている。『魔』が闇ならばサーヴ王の剣は『光』だ。あの剣をとれ。おまえしかいない」
「しかし兄上、私は王ではない!」
「お前しかいないのだ。サーヴ王の剣は『魔』を抑えた。そしてアガーラを追い払い、『魔』の領域の周りをガイヤードの領地として取り囲み、禁域として誰も近づけないようにしたのだ。サーヴ王でさえ『魔』を消し去ることはできなかったが、それは「闇」が常に人の心の中にあるからだ。「闇」が『魔』を支え、『魔』が「闇」に影響を及ぼす。これは永遠に変わることはない」
「兄上…私には…」
声を震わせるカイルの腕を痛いほどに掴んでルースは続けた。
「すまない、カイル。私がこんな体だから、お前にこのようなことまで背負わせて…しかし兄上が亡くなり、父上があのような状態の今、私にはわかる。おまえならできる。頼む…」
そこまで言うとルースは気を失って倒れてしまった。慌てて下男たちを呼び、ルースを私室に運び医者をすぐ呼ぶように命ずる。
カイルは今までに見たこともないほど苦悩に満ちた顔でいきなり王宮に戻っていった。リュシェンヌは急いで彼に従う。他の者はサーヴ王の王史を抱えて後を追った。リュシェンヌはカイルを必死に追う。しかしかける言葉が見つからないうちに、彼は一度も振り返らず私室に駆け込み扉に鍵をかけた。
「カイル、お願い、ここを開けて」
「黙れ!あっちへ行け!誰も俺に話しかけるな」
「カイル…」
リュシェンヌに何ができるだろう。年若く王でもない彼がこれほどの重責を背負わされ、苦しんでいる。他の誰が彼の苦しみを理解できるというのか。背負わされた重圧と自分にできるのかというとてつもない不安に押しつぶされそうな苦しみを、誰も代わってやることができない。あまりのことにリュシェンヌは扉を背にいつまでも立っているしかなかった。




