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第28話 予兆 この7

「アンナ」

そう呼びかけられた声に今まで以上に驚かされて声が出ない。王子の顔を思わずまじまじと見つめる。こちらをいたずらっぽく見ている青灰色の瞳…あっという間に10歳のリュシェンヌに戻っていた。

「まさか!フェリクス?!フェリクスなの?え?どういうこと?」

カイルとアーチボルトは慌てふためくリュシェンヌに椅子をすすめ、自分たちも腰を下ろした。


「カイル殿下はあなたと同じ私塾で学んだのですよ。これは一部の者だけが知っているので驚くのも無理はない」

「あの頃俺はちょっと荒れていたからな。守役のアーチ―の両親が心配して乳母のつてであの私塾に入った。少し世間を見て来いという訳だ。もちろんバルト先生は知っていたが、誰にも漏らさなかった。お前のことも俺に言わなかった。まあ、お前と同じような立場だったのは確かだ」


 リュシェンヌは兄から聞いた王家の事情を思い出し、カイルが多少荒れても無理はないと考えた。そしてあの頃のフェリクスの他の少年たちとは違う印象も、王子ならば当然だとも。

「わからなかったわ…あの頃とは髪の色が違うから…」

「成長するにつれて黒く変わっていったんだ。アーチ―の髪色に似てきたから、俺だと知られたくない時にはこいつの名前を使っている。いろいろと便利だからな」

「おかげで私は神出鬼没らしいですよ。同時に2か所にいたことになっていたりして」

さすがに混乱してまっとうな返事ができないでいると、カイルが嬉しそうに言った。

「俺の勝ちだな」

「は?何が?」

思わず素になって答えてしまう。

「だからお前はたった今まで気づかなかっただろう。俺はすぐわかったのに。だからこの勝負は俺の勝ち」

リュシェンヌはいつの間に勝負になったのだと思いつつも悔しい。

「改めて秘書としてお前を採用する。女だからと一切手加減はしないからそう思え」

「かしこまりました…いえ、わかったわ」

カイルに睨まれて言い直した。


「それでは早速仕事だ。ここにある報告書をすべて読んで要約しろ。それぞれに対して二つ以上の提案と必要な返答をつけて午後一番で提出するように」

カイルに示された書類の山を見て、さすがに青ざめた。


 文官の下働きをしたころよりさらに困難で忙しい日々が始まった。リュシェンヌは間近に見るカイルの忙しさに信じられない思いだった。王太子の暗殺以後、王は全く表舞台に現れず、カイルはこの若さで実質王家の全てのことを受け持っている。ましてこの危難の時、カイルの判断を仰ぐことは非常に多かった。リュシェンヌはいきなり放り込まれた国家的事案の只中で、なんとか彼の助けになればと必死に働いた。


 アーチボルトが沈痛な面持ちでカイルの部屋を訪れたとき、リュシェンヌは驚きの知らせを聞くことになる。

「カイル…殺害されたミルヴァート神官の部屋にあったいくつかの書簡を解読した。彼は他の者にわからないように独自の暗号を用いて手紙や日記を書いていたようだ。少し時間がかかったのはそのためなのだが…」

「他の者にわからないようにするという時点で十分疑えるな」

「ああ、やはり王太子様の旅程を漏らしたのはミルヴァート神官だった。暖炉の中に手紙の書き損じがあって、そこにあの道筋のことが一部分書かれていたのだ。焼き消そうとしたのが燃え切らなかったらしい」


 リュシェンヌは思わずつぶやいた。

「なんてこと…ミルヴァート神官はどうしてそんなことを!」

「神官たちの口は重いが断片的な情報を繋ぎ合わせると、どうやら5人の神官長補佐の中ではミルヴァート神官の評価は低かったようだ。焦っていたところに何かエサをぶらさげられたのかもしれない。例えばこっそり王太子を喜ばせる贈物か何かを提供するという魅力的な提案とか。ルース殿下のお話では、最後に目にした彼の姿はたいそう怯えていた様子だったと」

「話が違うと彼が相手をなじったか、もう用は済んだから始末されたか…神官長には知らせねばならない。しかし他言無用とさせろ。兄上以外の神官たちにこんなことが耐えられるとは思わないからな。教会まで動揺が広がってはこちらも面倒だ」

「もちろんだ、それからもうひとつ。こちらの方が重要だが」

「わかっている。兄上の旅程をミルヴァート神官に教えたのは誰か…ということだろう」


 ミルヴァートは確かに神官長補佐として教会では重要な地位にあったが、王太子の動向を常に知る立場にはいなかった。それを把握していたのは王宮側であり、知っているものは限られるはずである。アーチボルトがちらとリュシェンヌのほうを眺めてからカイルのほうに身をかがめて声を落とした。


「それについて、宰相から話があるそうだ。例の集まりの時にブフナー子爵から聞いた話が関わってくる」

「…スレイヤ公爵が…か?」

カイルの声は更に低く聞き取れないほどだった。


 リュシェンヌは二人から離れて静かに部屋を出て行きながら、頭の中で貴族たちの派閥や関係性を思い出していた。

(エーベルスレイヤ公爵は我が国に4家しかない公爵家のひとつ。王家との繋がりも深く、今の公爵は国王陛下の叔父上。先代国王の年の離れた…腹違いの弟君だわ。公爵家に婿入りしてエーベルスレイヤ公爵となられた。でも公爵は以前から軍の装備を巡ってきな臭い噂があって、お父様とはそりが合わない方よね。そしてブフナー子爵は我が家での夜会にいらしていた。やはりあの夜会は…)


 国境付近に派遣された国軍から報告が頻繁に送られてくる。その中に黒覆面の賊に似た姿の男たちが西ヴストラントとの国境に近い小さな村で目撃されたという知らせがあった。一行の中にけが人がいたらしく、薬を求めてきたということだった。

「兄上の護衛たちも命を奪うまではいかなかったが、何名かには傷を負わせたらしいからな。その一行と見ていいだろう。そのあと、どちらに向かったか必ず探し出せ。それから東西ヴストラントに使者を送り、国境付近で我が国軍が活動することへの許可を求めるように。今は我が国も不安定になっている。隣国ともめ事を起こす気はない」


 アーチボルトがその指示を聞いて下がっていくと、カイルはどさっと長椅子に腰を下ろした。リュシェンヌはためらいながら尋ねる。

「あの…差し出がましいとは思うけれど、国王陛下は今どうしていらっしゃるのでしょう」

「…父上…陛下は…兄上の死がよほどこたえたらしい。ふさぎこんでほとんど部屋から出て来ないのだ。側仕えの者によると、誰とも口をきかないとか。まして俺など部屋に入ることもできない」

「そうだったの。可能なら陛下のお言葉があればと思ったのだけれど。みんなが漠然とした不安を感じている今だからこそ、上に立つ方のお言葉があればみんな安心して自分のするべきことができるようになると…」

「そうだな…」


 その夜あの小部屋に数名の影があった。宰相が報告を続けている。

「…教会に公爵が礼拝する際、接待を行っていたのはミルヴァート神官だと、これは神官長からの証言です。加えて公爵家に出入りの商人から言質をとりました。公爵は西の大貴族レントジュラス家を通じ、西からの武器の購入に便宜を図っております。以前から問題視されていたことではありますが、この数年国軍の予算については公爵の意を汲んだと思われる水増しや架空請求が顕著でした。これに加担した文官数名を抑え証言を取っているところです。書類も精査して証拠は押さえてあります。殿下、文官たちの不祥事については私の責任でもあります。大変申し訳なく…」

文官長と共に頭を下げようとした宰相をカイルは止めた。


「もとはと言えば俺たちの大叔父である公爵がやったことだ。昔から口出しの多い奴だったが、父上の王位継承についても不満があったようだからな。金だけの問題なら爵位返上と領地没収で済まそうかと思っていたが、兄上の命まで奪うとは、王家の親戚といえども許すわけにはいかない。兄上を害し、ついでに俺も消せば王位継承に食い込めるとでも思ったのだろう。見張りはつけてあるだろうな」


 それに答えたのは後ろの方に控えていたブフナー子爵であった。

「はい、私の手の者が公爵とその嫡子である子爵家双方に。どちらも変わりはございませんので、まさかとは思いますが自分たちの行いが露顕しているとは気づいていない可能性も…」

 別の年配の貴族が苦々しい声で続ける。

「確かに、ここ数年の公爵は箍がはずれたようであったな。以前はもっと狡猾で、リード侯爵が目くらましに引退を装ったほどだったが。公爵の子息はうちの息子と同い年で儂も会ったことがある。彼は父親のやっていることの全てはわかっていないのかもしれぬ。公爵家の取り巻きについては儂が預かるとしよう。長生きしていると奴らの弱みもわかっているしな。処分はこの騒ぎが片付いてからでいいだろう」


 カイルが立ち上がり、皆の顔を見渡して落ち着いた声を発する。

「臣下とは言え王家に大変近しい者たちが犯した罪のため、皆には多大な迷惑をかけた。それでも王家を見捨てず支えてくれる諸侯らに感謝する」

カイルとその横に立つアーチボルトが頭を下げたのを見て、全員が驚いて立ち上がった。アーチボルトを伴い退出するカイルを深く礼をして見送る。ここに集まるのは年若い王子に国の将来を託した者だけだった。





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