第22話 予兆 その1
多少差別的な表現がありますが、小説の筋立て上必要なこととご了承ください。
ガイヤード王国の王宮で華やかな舞踏会が開かれていたその夜。
王国の北西辺境にある、誰もあえて近づこうとはしない『魔』の領域に闇に紛れて近づく人影があった。荒涼とした景色の中を、おぼろげな月明りを頼りに彼はゆっくりと進む。何かを小さく唱え続けるその顔には深く皺が刻まれ、実際の年よりもずっと老人じみて見えた。
彼の一族は今は散り散りになり、かつて持っていたわずかばかりの力も途絶えて久しかった。その一族は虐げられ差別された民であった。古くから決まった土地に縛られることもなく、村や町を移動しながら曲芸や軽業を見せて生活の糧を得る旅芸人として暮らしていた。彼らの生活は厳しく貧しいものだった。彼らは決してそのような生活を好んでいたわけではないが、それ以外に生きる術を持たなかった。身体的能力が優れていながら、どこかの権力者の庇護下に入るわけでもなく、定住を嫌って自由に雲のように流れていく性質が他の民から疎まれることが多かったのだ。
差別により堅気の職に就くことも難しいため、彼らの中には掏摸や盗みなどの犯罪に手を染める者も多く、また食べるためだけに娼婦や男娼となる者もいる。それが更なる差別と偏見を生んだ。
それはちょうど大陸の情勢が定まり始めたころ。力を蓄えた豪族や領主たちがさらに税の徴収を図るために土地の所有ということに目を向け始めた。土地の境界線が決められ、農作物を得るために民をその土地に定住させる必要性が出てきた。領主たちはそれぞれ原野や森を開拓し、その土地を豊かにするために農民の保護と束縛を進めた。そのころの農民たちはそのほとんどが小作として領主の所有物であり、その労働は大変過酷なものであった。しかし耐えきれずに逃亡してもすぐにつかまり、更に厳しい扱いが待っている。
そんな鬱屈した日々を過ごす農民たちには、古くから土地を持たず、諸国を放浪して暮らす一族は、丹精して実らせた農作物を盗む者として忌み嫌われていた。盗みだけではなく、土地に縛られる農民たちの目には、自由に動く彼らのほうが気楽でいいと映ったのかもしれない。その一族を排除することで農民たちの不平や不満をごまかせると考えた領主もいたので、彼らは次第に追いやられていった。土地を持たない彼らは結局誰も住もうとしない『魔』に近い荒地に暮らし始めた。
大陸の西端にある『魔』の存在は古くから人々に知られており、人々が『魔』を恐れるのは生まれながらに染みついた本能のようなものだ。不用意に近づけば精神的、肉体的に多大な影響を受け、よほど強固な精神力を保たなければ暗い深淵に引きずり込まれるとされている。
人々はその逃れられない恐れから救ってくれる存在を必要とした。そうして国の第一の宗教であるアーメド教は人々の心を救い、彼らが暗闇に囚われないよう導くために発展してきたのだ。
虐げられ追いやられた一族は『魔』の近くに住むよりほかに生き残る道はなかった。実りの少ない荒地で最低限の作物を育て、そこに流れる川の水を飲み続けた。彼らを追いやった奴らへの恨みも糧となったのかもしれない。そうして何代にもわたってそこに暮らすうちに、彼らは徐々に独自の力を得る。長い年月をかけて『魔』の力を利用して人の心の闇を操る術を会得し、その力を一族のためにふるった。政治の中枢にいる者や有力な豪族たちには、他者を陥れたり呪いを植え付けることによって己の勢力を拡大しようとする者が一定数存在したので、心の闇を操れる一族には利用価値があった。後ろ暗い所のある連中は密かに一族を利用しながらも、決して公の記録などには残さず、全て裏で取引されていた。
一族も利用されるだけではなく、その力を見せつけることにより有力者に抑圧されたり支配されたりすることを防いでいた。
しかしその力は諸刃の剣でもあった。『魔』の力を利用するためには自らの精神を代償として差し出す必要がある。それは精神的な人間らしさを捨てることでもあった。自分たち自身もまた心の闇が大きくなることにより、近い身内すら信じられなくなった彼らは、一族の中で互いに疑い、争うことが続くと急速に力を失い、その数を減らしていった。最後の足掻きとして英雄と呼ばれる王に一矢報いようとしたが、それが一族の息の根を止めることになる。いつしか忌み嫌われた一族の存在もまた世間から忘れられていき、生き残った数少ない同胞は散り散りになり、社会の片隅に紛れて目立たずに暮らすようになる。
ここに来るのは何度目だろう。彼は『魔』の力の影響で崩れ落ちそうになる自分の決意を奮い立たせ、一歩ずつ踏みしめるように歩む。最初は…そうだ、あの娘が嬲り者にされた時だった。
彼は若いころ旅芸人の一座にいた。幼馴染の可愛い娘も一緒に一座は村から村へ、祭りのあるところへと踊りや曲芸を披露しながら回っていた。娘はその可憐な歌声と踊りで人気者となり、ある日評判を聞きつけた貴族がその屋敷に招いてくれた。貧しい旅芸人の一座にとって貴族に贔屓にされることは願ってもないことだったので、皆喜んで精一杯の芸を披露した。そこに奴はいたのだ。
彼は幼馴染の娘と結婚の約束をしていたが、彼女は貴族の屋敷で会った奴にすっかり夢中になってしまった。奴は彼がどうあがいても届かないほど身分も金も、全てを持っていた。今まで会ったこともない洗練された物腰と言葉に惹かれた娘は、一座に戻らず奴が用意した館に囲われるようになる。彼は嫉妬に身を焦がしつつも、いつかは娘の目が覚めて戻って来てくれるかと願っていた。
娘は確かに戻って来た。わずかばかりの金を投げ与えられて捨てられたのだ。あれほど明るかった娘はすっかり抜け殻のようになり、彼がどれほど傍で世話をやき、つくしても二度と笑顔を見せず、食べようとせず、ついに力尽きた。最後まで奴のことを想って、彼には何も与えてはくれなかった。
それなのに、と彼は思う。奴は娘のことなど覚えていないだろう。奴は何も失っていない。あの時、彼は境界線を越えた。古の彼の一族が持っていた力、彼の家に細々と口伝えに受け継がれていた力をよみがえらせ、奴を追い詰めて苦しめる。そう思うとどす黒い喜びが彼の心に湧いてきた。
最初に選んだのは当時若い妻を娶ったばかりの男だったなと、ぼんやりと彼は思い出す。初めてだったから未熟な術しかかけられなかったので、すぐに消えてしまったが手ごたえはあった。そして今、彼は古の一族の力を復活させようとしている。




