第13話 邂逅 その12
最後の日、リュシェンヌが私塾へ向かう足取りは重かった。アンナもその叔母も彼女の気持ちを考えたのか、ただ気をつけてと言いながら送り出してくれた。
小さな私塾全体が見える所まで来ると、リュシェンヌは立ち止まってその光景を目に焼き付けようとした。それからゆっくりと扉を開けるとフェリクス以外の皆が揃っていたが、どういうわけかいつもの賑やかな話し声はなかった。
「おはよう…?」
リュシェンヌは戸惑いながらも小さな声で挨拶したが、皆は頷くだけで一様に押し黙り、拳を握りしめて何かに耐えるような様子だった。不思議に思いつつ先生が現れるのを待っていると、フェリクスが遅れてやってきて、やはり教室の雰囲気に不思議そうな顔をしている。ようやくバルトが奥から出てきた。
「みんな、そろったな。一部の者には先日伝えたが、実はこの私塾を閉めようと思っている。今日は最後の授業になるだろう」
「えっ!!それはどうしてでしょうか」
リュシェンヌは思わず叫んでしまった。フェリクスも知らなかったのか、軽く口を開けている。バルトは一人ひとりに声をかけ始めた。
「君たちはもう充分学んだ。そろそろ自分の人生に乗り出していく時期だ。そういう年齢でもある。ハンス」
「はい」
「君はその体格をいかして兵士になりたいと言っていたな。その意思に変わりはないか」
「ありません。国のため、そして俺や妹たちを育ててくれた母のためにも国軍に入って守るべきものを守りたいのです」
「よし、トマス」
「…はい」
トマスはもう泣き声だ。
「君は腕のいい木工職人の叔父さんの所へ弟子入りすると言っていた」
「はい、叔父には子供がいないので僕が小さいころから可愛がってくれたのです。うちにはまだ小さい弟たちもいるし、これ以上塾に通う余裕はありません。働いて両親を少しでも楽にさせてあげたいです」
その言葉にバルトは頷いてから体の向きを変える。
「マリ、君は大変優秀だ。勉強を続けたければ知り合いの学校に推薦してあげよう」
「ありがとうございます。両親に相談しました。父はしぶっていましたが、女の子にも教育をという先生のお言葉のおかげで学校にも行っていいと許しを得ました。もちろん奨学金をとって、できればもっと上に進みたいと思っています」
「そうだな。ローザ、君は家のパン屋を手伝うと言っていたね」
「はい先生、弟のジーンの具合があまり良くないのです。母も看病と店の両方で疲れているので私が手伝うつもりです」
リュシェンヌはそれを聞いて最近ジーンに会いに行けなかったことを思い出した。リュシェンヌに心配をかけないようローザとマリが黙っていたのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると最後にバルトがリュシェンヌとフェリクスに向かい合う。
「アンナ、フェリクス」
「はい」「…はい」
「君たちは…君たちの場所に戻りなさい。そこでしか学べないことをしっかりと身につけて自分の出来ること、やるべきことを見つけなさい。君たちならそれができる。楽しみにしているよ」
リュシェンヌは混乱していた。いきなり塾が閉鎖されるということも驚きだったし、自分とフェリクスにかけられた言葉が同じであることにも衝撃を受けていた。自分は抜けるが、塾はずっと続いて、いつか帰ってきたらみんながそこに変わらずにいるような気がしていたのだ。
どういうこと?なぜ塾がなくなるの?フェリクスも私と同じような立場だということ?どこかの貴族の子息なのだろうか…頭の中でたくさんの疑問が浮かんでは消える。みんなが泣いている。こらえきれない泣き声と鼻をすする音だけが教室に満ちていく。
「2年前、アンナが入って来て生徒が7人になった時、私はこの子たちを私の最後の生徒にしようと思ったのだ。残念ながらルキはいなくなってしまったが、君たちは実にすばらしい生徒だった。この2年間は私にとって教師生活の集大成であり、宝でもあった。感謝している。私はこれから旅に出てしばらく帰れないだろう。君たちがそうであるように、私にも果たさなければならないことがある。さあ、顔をあげて。今日は最後の授業なのだから」
その日の授業は本当に今までの集大成ともいうべきものだった。歴史、地理、宗教、心理、他国との関係から薬草、生活術といった分野まで、みんなの中にどれほどの知恵と知識がしみこんでいるか確かめるような授業が昼まで行われた。
バルトが教科書を閉じてゆっくりと話し出す。
「さあ、これで君たちに教えるべきことは全て教えた。君たちはこれからそれぞれの道を歩む。自分に恥じない人生をおくってくれ。君たちは私の誇りだよ。ありがとう」
みんな泣いていて言葉が出ない。それでもやっと立ち上がるとひとりひとりバルトの前に歩み寄って挨拶をしようとした。バルトは優しく微笑んで、初めてみんなをぎゅっと抱きしめてくれた。
「さあ、行きなさい」
「先生…」
のろのろとみんなが外に出る。前庭に植えられた小さな草花は全てここで習った薬草だ。みんなすぐには立ち去りがたく、ぼんやりと前庭と塾の扉を眺めていた。
その時、フェリクスが動いてハンスに握手を求めた。ハンスも力強く手を握り返し、フェリクスを抱きしめてその背をやさしく叩く。
「体術ではお前に一度もかなわなかったな。お前はきっとすばらしい騎士になれるよ。元気でな」
ハンスは涙でつっかえながら、なんとか別れの言葉を言った。トマスも続いてハンス、フェリクスと抱き合う。
「ありがとう、忘れない」
フェリクスは小さな声で言っていた。
リュシェンヌもマリとローザとしっかりと抱き合った。もう3人とも声が出ない。ひたすら抱きしめあうだけだった。3人はそれぞれ男の子たちとも握手をして別れを告げる。リュシェンヌもみんなに心からのお礼を伝えた。
「フェリクス…最後に練習に付き合ってくれて本当にありがとう」
「いや…」
フェリクスは最後まで言葉少なだった。
名残惜しくて仕方ないが、それでも何度か振り返りみんなに手を振りながら、リュシェンヌは歩き出した。いつかまた、みんなに会えることを願っている。フェリクスも同じ方向に帰るはずだったが、今日はなぜか途中ですぐに道を曲がって行ってしまう。リュシェンヌは一人ぼっちで取り残されたようにその方角を眺めていた。
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