蓋をしたところで、中にあるものは変わらない。
7 蓋をしたところで、中にあるものは変わらない。
エラ様との距離の取り方に少し慣れて来た。目を合わせないように注意し今までより2歩距離を開ける。無駄口は叩かず問われた問いにのみ答え質問はしない。馴れ馴れしく接することもせず、熱のこもった視線も隠し、ジェゼロにいた時よりも距離を開けるだけのことだ。自分だけがエラ様を救えるという独り善がりな考えが、馬鹿なことにも距離を近くしてしまった。兄の様に近くて、恋慕からは最も遠い存在に戻らなくてはならない。
ジェゼロにいた時、どうしてあれほどまでに素知らぬふりをできたのだろう。この感情は、自分の全てだった。それは変わらないはずなのに。環境の変化で、欲が出たのだ。分も弁えず、自分は本当の馬鹿だ。
「本当に、懐いているんだ」
気安く話しかける男が自分よりもエラ様と近い距離にいなければ、今日も徹することができていたが、セイワと名乗った帝弟はキングと久しぶりに再会してとても嬉しそうなエラ様に言う。キングはエラ様と離されてから、しばらくは大人しかったようだが、あまりにも長く会えないことで不安と苛立ちでも覚えたのか、相応に暴れていたらしい。
「頭のいい馬だ。私を助けようとでも画策していたのだろう。私は無事だから、ちゃんと食べて、誰も蹴り殺してくれるなよ」
キングに頬を寄せて、いちゃいちゃと見せつけられる。キングはエラ様に対してだけはそのいかめしい顔に似合わず甘えるが、エラ様も満更でもないと可愛がるのでつけ上がる。ただ、久しぶりにリラックスしたエラ様の姿は、やはり愛らしい。
「一緒には走れないのだ。代わりにブラシをかけてやるからな」
「そんなことは馬番に」
「いや、これは私の馬だ。これまで共に旅をしてくれたのだ。私が労うべきだ」
セイワに対してきっぱりと言う。キングから噛みつかれない位置でいつもは待機するが、それよりも離れた位置で今は待機する。
「彼女はいつもああかい?」
「あの馬は特段に大事にしていますので」
待つ間、何度か話しかけられたが適当に返しておく。
エラ様が帝王に対して伝言を頼んでも協議中であると返るだけで、やんわりと軟禁されていた。あの洞窟街から久しぶりに出られたのはセイワ殿の計らいらしいが、急に接近してきた男に、ベンジャミンは警戒しかない。キングが預けられた馬場に来るまでは窓のない馬車に乗せられ、洞窟都市からの抜け方もわからないままだ。
巨大な岩山があるだけで当りは広い平野だった。広々とした馬場に羊も点々と草を食む姿が見える。岩山には草こそ生えているが木々は一本もなく、見える限りに森はない。拘束された場所から数日運ばれたことを考えれば、かなり離れているだろう。元々あそこはジェーム帝国の最南の町だ。広い国だが、元来の土地がここなのだ。逃げるにも森がなくては隠れられない。今は逃げる必要はなくとも、常に最悪は考えておく必要はある。
いつもの何倍も長くキングを世話して、満足そうなエラ様に少し安堵する。独り占めしていたキングは言わずとも満足しきっている。
「次は乗せてくれ。お前に連れられる場所はどこでも綺麗に見える」
今では自分には向けてくださらない視線を馬にお向けになられる。キングに対して嫉妬はない。相手が馬だからではなく自分は勝負にもならないと知っているからだ。
「折角だから、街でも見に行きますか? 馬車でも二十分ほどだ」
それが狙いなのか、セイワが気安くエラ様に話しかける。彼の付き人が何か言ったがそれを制した。
「許可がもらえるなら嬉しい誘いだ。何せ私の行動は一々許可がいるらしいからな」
「その愚痴は兄様にお渡しして、何か別の服に召し代えますか?」
「このままで構わんよ」
コートを着直して言う。エラ様は用意される女物の服が気に入らないのは明らかだ。ナサナでも一度きりしかあのような格好はしていないのだ。いや、颯爽と助けに入る時もしてくださっていたか。
洞窟から乗ったのとは別の馬車で移動する。おかげで周辺景色の把握はできた。
大きな教会が町の外でも見える。それほど大きな町ではないが、巨大な岩山に町が乗っているような形だ。この町はジェームにいた時に聞いた事があったが、実際に来たのは初めてだ。
「一般人は本当の神殿にはもちろん、滞在頂いている神都すら入れないので、ここが市民にとっての大神殿の街になってるんです、シィヴィラ様ほどではないけど美人も多い。神殿以外にも巫女はここで務めを果たされているんですよ」
セイワが馬車から降りる際、手を貸そうと差し出していたがあっさりと断ってエラ様は一人で降り立つ。
軟禁場所の洞窟と同じような乳白色の石で造られた大層立派な教会の前まで馬車をつけていた。これは王族の特権だろう。辺りには一般市民も多く居たがセイワを見てそっと距離を取っている。手を振る若い婦人方に愛想よく返していた。誰もがセイワ・イーリスと認識しているようだ。
「流石に立派な教会だ。入ることは?」
「もちろん」
案内されるエラ様の後ろを他の使用人と同様について行く。他愛のない会話をしているのが聞こえていた。キングほどの羨ましさはない。帝王の弟だと言う理由でジェゼロ王としての対応をしているだけだ。無駄に近い距離も、時折一歩引いて調整されていた。
「凄いな」
エラ様が久しぶりに目を輝かせる。美しいステンドグラスに彫刻の数々。巨大なパイプオルガン。全てがジェゼロの教会とは比べられない物だ。財力の差は言われるまでもなく歴然としていた。
人が頻繁に出入りする大聖堂の中で一瞬何か違和感がした。気のせいか?
前を歩いて行くエラ様から視線を外し辺りに気を配る。王子がいれば多少なりとも視線は集まるだろうが、それほどの騒ぎにはなっていない。いつも出歩いて女漁りでもしているからか。
「エラ様、すぐに安全な場へ」
すっと近寄り後ろから小声で話す。
「……セイワ殿、少し人に酔ったようだ。外に出ても?」
何事と聞かずにエラ様が忠告に従う。従者としての信頼が残っていたことに安堵する。
「そうですか? 下に普段入れない部屋もあるのでご案内しますよ。そこなら、人もいない」
真意を理解していないが、多数の者がいる場よりはましと察してエラ様が付いて行く。教会の奥の扉を開けると廊下には確かに人はいない。少なくとも、安全だ。その先のドアの前には警備の兵が立っていた。
「ここからは、限られた者しか入れないんだ。すまないね」
こちらを見てからセイワが言う。つまり付き人風情は入れない場所だと言う事らしい。エラ様も目で待っていろと示して開けられたドアへ入ってしまった。
「……」
妙に癪に触るのは何故だろう。態度に横柄さはなく自信に溢れている。悪い人間ではないと言う自負が見えているからか。
少々格好が残念だが、元はそれ程悪くない。
大聖堂と違い、この聖堂は他に誰もいない、とても静かな空間だ。コユキの恋敵にしては少しばかり役不足にも見えるが魅力的ではないとは言えない。今までにないタイプでとても興味深い。
コユキが今日はここで務めとして聖歌を歌う。それを見たら誰だって恋をする。従者殿に、いかに勿体ない事をしているのか見せてやろうと偶然を装って今日誘った。彼女はいわばおまけであったが、愛らしい女性を放っておくのは紳士の名折れだ。
「これは凄いっ」
肩を抱き寄せようと伸ばした手が空を掻く。エラ・ジェゼロが黄金の神像ではなく側面に置かれた巨大な仕掛け時計に駆け寄っていた。
「ここまで大きな仕掛け時計は初めてだ。凄いな」
宝石で装飾されていることよりも歯車をのぞき込んで喜んでいる。
「それは、ジェーム帝国の始まりの時にはあったと言われるもので、今の様な帝国となる前の初代ジェーム王が作らせたものだと言われていますよ」
「それは凄い」
キラキラとした目で時計を見る少女はより子供っぽく見える。歳を聞けばもう結婚できる年齢だ。
「ネジまき式か……歯車は綺麗に手入れされているな」
「それよりも、国では中々大変だったみたいですね。兄が尽力すると言っているみたいだから、じきに戻れるでしょうが、それまではジェームでゆっくりしてください」
「ああ、帝王殿には感謝している」
シスターが聖堂に茶を運びこんでくるとすっと去っていく。
「こちらでの生活はなかなか慣れないでしょうが、お困りはないですか」
席を促して、茶を勧める。
「外に出るのが自由なら申し分はないのだが」
肩を竦めて椅子に腰かける。神官様はジェゼロ王とジェームとの血縁関係をお求めだ。今までに近くにいなかったタイプの女性ではあるが、なに、自分が磨いて差し上げれば、十分に淑女となれるだろう。
「ハーブか……懐かしいな」
お茶を手に取りエラは小さく呟いた。
「ジェゼロなら多くの草花があるのでは?」
「城の中庭は前王が集めた各国の薬草が育てられていた。それが今も無事ならいいのだが」
物寂しそうに、カップを見つめていう。
「教会は昔から医術の場でもありますから、折角だ、ここの中庭を拝見されますか?」
少しばかりぬるいが、まあまあの味の茶をぐいと飲み干す。後味に独特な苦みが口に広がり眉を顰めた。客人が来たときは薬膳茶でなく美味しい物を出す様に言い含めておこう。
「……」
エラ殿も少し眉を顰めて味を確かめている。
「もう少し飲みやすいものを頼んできましょうか……」
立ち上がってガクッと膝をついた。それで初めて、指先の痺れを自覚した。
サウラ・ジェゼロの一番の趣味は毒草集めだった。体に害がない程度で味を覚えさせられた。これだけは、直接教えて頂けたから、美味しくなくても小言も言わずに頑張った。サウラ・ジェゼロはいつもそわそわしていて、授業が終わると甘い菓子も食べずにそそくさとどこかへ行かれてしまった。それが、寂しかったのを覚えている。
ジェーム帝国で採れる神経を一過的に阻害させる薬草。乾燥したものしかジェゼロでは手に入らないが、これは生の物を使ったのだろう風味が違うが後味は近かった。
倒れているセイワ殿を見ると、彼も知らずに飲んだなら巻き添えを食らっただけか。
「……大丈夫だ」
飲んだ量が少ないのと元々薬に対して耐性のある家系だ。少し動きが鈍くなる程度で済んでいる。セイワ殿を確認すると視線は動いていた。脈もあり呼吸もある。味からして煎じた量は多くなかったようだし、血管投与か大量摂取をしない限り命には係らないはずだ。とにかく、ここから離れなくてはならない。貧血を起こしたような感覚が襲う。視覚情報が少し少なくなるような脱力感。他のハーブも混ぜてより強力な薬効が与えられている。自分でこれでは普通の者ならば一溜まりもないだろう。
部屋の外にはベンジャミンが待機している。ドアへ行きつく前に先ほど茶を運んできたシスターが向かうのとは別の、先ほどと同じ奥のドアから部屋に入ってくる。手にはナイフが見えた。
「シィヴィラ様の敵っ」
明らかに刺客としては不適格な普通のシスターだ。手が震えている。何の考えもなく一直線にやってくる。息をゆっくりついて、ナイフを持つ手を止めて払い、倒す。大きな音を立てて、背中から叩き落す。ナイフを奪って遠くへ投げるころにはベンジャミンが異常に気付いて止められるのを無視してドアを開けてくれていた。確かにベンジャミンの判断は正しかった。ベンジャミンを置いて、ここに入った自分の判断は間違っていたが。
「エラ様っ」
「毒を盛られた……」
セイワの付き人が倒れている彼を見て慌てて近づく。
「恐らくシィヴィラの関係だ。他にもまだいるだろう……」
ベンジャミンが手を貸そうとするのを無意識に手で断っていた。こんな状況だというのに、つくづく自分は馬鹿だと思う。
「シィヴィラ様を返してっ」
捕らえたシスターが涙ながらに訴える。確かに彼はこの国において重要な人物なのだろう。
「一先ず外へ」
案内に従い馬車があるのとは逆の裏口を使って外へ出る。そこで自分が中々厳しい状況にいると理解した。街の人間の目が敵を見ているそれなのだ。それも、ここから出るとわかっていたように集まっている。ここは、ジェーム帝国の神聖な場所だ。その中でも神聖なシィヴィラがジェゼロにいるとなぜ知っているのか。自分がそこから来たとどうして知っているのか。いや、単に誰かがシィヴィラを浚ったのが我々だと流布したのか。
「シィヴィラ様を返せっ!」
最初に動いたのはまだ小さな子供だったことに驚いた。子供達が次々に石を投げつける。暴動のように大人たちも声を上げる。流石にこの人数ではどうしようもない。戻ろうとしたが後ろには震える手でナイフを持ったシスターたちが待っていた。まだこちらの方が突破はしやすいだろうが、その前に町の者に捕まるか。
ベンジャミンが咄嗟に抱き寄せコートの中に匿われる。投石から身をもって庇ってくれているのはわかる。それでも体に石が当たる。そりゃあ、外に出るのを制限するわけだと妙な納得がいっていた。薬の所為かどこか他人事のように困ったと考えていた。
悪魔だと罵られているのが聞こえる。直接手を出してこないのは、触れるだけに呪われるとでも思っているからか。シスターが短剣を手に戦うのは、悪魔に打ち勝てる聖職者だからか。悪魔とは酷い言い分だが、町の大人に直接嬲られるよりはましだろうか。
ベンジャミンが強い意志を持って、自分を抱き寄せている。このまま死ぬかもしれないとぼんやり考えながら、この腕の中なら安らかだった。
「やめなさいっ」
甲高い声がすぐ後ろで聞こえた。はっとしてベンジャミンの腕の間から見ると、コユキ姫がナイフを持つシスターを掻き分けて出てきていた。
民衆のざわつきが明らかに変わる。次第に頭に響くような罵声は止んだ。口々にコユキ様や巫女様という言葉が聞こえる。彼女が本当にジェームでは姫で、それより地位ある巫女という役職でもあると初めて実感した。国では確かに凄い女性だったらしい。
「この方たちは、私をここまで連れ帰ってくださった方々! そのような方たちに、あなた方は……私の大切な客人に、何をなさっているのですか!?」
泣き声をはらんだような声だが、彼女からそれほど大きな声が出たことに驚いていた。
「この方たちは、シィヴィラ様を浚ってなどいません。私が証人です。私の言葉以上に信じられる者から直接話を聞いたというのならば、ここに出てきて経緯をお話しくださいっ。こんな……このような恥を、神聖なる大聖堂の前でっ、このような恥ずかしい行為を行うなど……私は…………」
巫女としての地位を重んじられる理由が少しわかる。今にも嬲り殺しかねなかった民衆が静まり返り、石を持っていた子供は青ざめている。助かったのかともう一度コユキ姫の方を見る。教会の裏口から、シスターが一人ゆっくりと歩き出ていた。それが自分たちではなくコユキ姫に近寄っている。服の裾からナイフの切っ先が見えた。言葉よりも先にベンジャミンの手を振りほどいてコユキ姫に飛び掛かっていた。
女のナイフが脇を掠め、肉を切る感触があった。女を止めるほど、今は上手く動けないと身を挺して庇った。痛みは覚悟していたより随分マシだ。きっと薬の副作用だろう。
「エラ様っ!?」
「私は、平気だ」
傷口を抑えて立ち上がる。シスターは直ぐにとらえられていたが狂ったように笑っていた。コユキ姫は自分までが襲われたことに心底驚いていた。
「……私は、シィヴィラ殿を浚ってなどいない。事実でないことで、恨みを買い殺されるなどごめんだ。誰に唆されたのかは知らないが、噂に惑わされ、人を殺すことがこの国の正義だというのか」
肋骨は折れていないだろうが、喋ると傷口が傷んだ。それでも、声が出ていた。恐怖はあるが、それよりも怒りがあった。
「まして……子供に石を持たせるなど、そんな業を子供に背負わせるな!」
誰も子供の行為を止めないことが一番恐ろしい。罪人ならば石を投げていいなど教えてはいけない。そんな事を許してはならない。
ベンジャミンの頭から血が流れているのが見えて、ぐっと嗚咽を堪えた。彼の両手は私の頭を守るのに使っていたから、当たり前だ。
今、一番怒りを向けたい相手は自分自身だった。もう、頭は呆けていない。