騎士の失態
ようやく理解してくれたらしい。新しい部屋はごく普通の客室だ。
昼とも夜ともわからなくなる街が窓から広がっているままだが、部屋が変わって、より川の流れが響いていた。
「ベンジャミン様」
ノックして入ってきたのは例によってコユキ様だ。ある意味で牢の方がマシだった。姫君の私室で二日監禁されたわけだが、苦痛でしかなかった。情報収集としてはいくらかできたが……苦痛だった。そもそも、エラ様以外と長時間二人きりというのは得意ではない。性格の悪さと曲がり方を隠さず嫌われた方が早かったのだが、場所が場所だけに避けたかった。
「コユキ姫、何か」
「……どうか、ご慈悲を」
また誰かが彼女に面倒なことを吹き込んだのか。
「……コユキ姫」
呆れに近い言葉が漏れた。
ワンピースがはらりと落ちると、一糸纏わぬ白い姿があらわになる。直ぐに目を逸らした。エラ様よりも胸が大きくとも、ただそれだけだ。
「一度だけで、一度でいいんです」
既成事実を作ればいいとでも言われたのか。可愛らしい顔だが、彼女の頭はそれほどいい出来ではない。
「姫様、ご自分を大事にしてくださ……」
裸のまま抱き着かれた事よりも、その最悪のタイミングで心配で夢にまで現れていたエラ様がドアを開けられていたことに、言葉を失った。
「邪魔をしたな」
今まで見たこともないほど冷たい視線を受ける。ドアが閉まる前に反射的に追いかけていた。
「陛下、誤解ですっ」
既に廊下の先に進んでいるのを見て追いかけるが止まる気配がない。ずっと囚われていたのか、疲れた姿をされている。自分よりも長く牢にいたのは明らかだ。
「まだ夫婦になっていないならはやく結婚しろ。流石に婚姻前の姫には手を出すな」
腕を掴むと乱暴に振りほどいてまたあの冷たい目で睨み上げて言う。
「誤解です。何もありません。ましてエラ様のご無事もわからぬ状態で」
「私は無事だ。お前もそろそろ身を固める時期だったのだし、相手も身に余るほどだろう」
「どう話を聞いているかは知りませんが、誤解です。それに、エラ様は今までどこに」
エラ様が呆れたようなため息を一つ落とす。
「ベンジャミン。お前が元気そうで安心したよ。休む前に顔を見に来ただけだ、問題がないなら休ませてもらう」
感情のないような淡々とした言葉を告げると背を向けて歩いていく。女官がそれに追従していた。
コユキ殿の背中の文字は大分と薄れていた。シィヴィラの署名に至っては見えなかった。
久しぶりに湯船に入り一息ついた。今なら左右の二人に好き勝手させていただろうという程に、疲れが押し寄せていた。
真っ白い繊細な背中。華奢で折れてしまいそうな女性。胸も自分のような残念なものではなくたわわだった。流石に、あれは男ならば耐え難いシチュエーションだろう。悪いタイミングで入ったと謝るべきだ。そもそも、リンドウと名乗った少々歳を召した姫君が部屋に案内する前にお付きの者に会うかと聞いたから行ったのだ。邪魔をさせるためか見せつけるためか。
「はぁ……情けないな」
ベンジャミンが姫を娶るとなるか婿に行くかだが、正直彼女をジェゼロに連れてこられてもあまり役に立ちそうにないし、ここより余程暑いジェゼロでは辛かろう。そうなると、ベンジャミンはジェーム帝国のこの神殿のある首都で暮らすことになる。そっちの方が話は安いだろう。
自分の算段がぴったりと進んだ。むしろ良すぎるくらいだ。なのに、なんで涙が出そうになっている。
別に、誰でもいいじゃないか。女しか子供が産めないのは動物である以上仕方ない。別に、誰の子供でも構わないのだ。それこそ、帝王の子を産んでやれば、ジェゼロは安泰ではないか。
「……」
ベンジャミンが悪い。酔った勢いで真意かもわからないような事を言うから。ありもしないことで心を乱された。ベンジャミンが隣にいないのが嫌だったのに、それすら手放して何の意味があるというのか。自分の考えがばらばらでわからなくなる。王を追われた後の行動はとてもシンプルに考えられた。殺されない、捕まらない、王座を取り戻すために努め、その手段として他国の力を借りる。実際にここまでたどり着いた。
なのに、どうして自分はこんな簡単な事で悩んでいるのか。ベンジャミンをジェーム帝国の中枢に入れられれば、情報をより正確に得られるだろう。帝国の王族の子を自分が産めば、男でも王に、ジェーム帝国での帝王になる可能性すらある。女児は今まで通りにジェゼロの王に、それも帝国の後ろ盾を持った王になる。
干渉される可能性は残るが、向こうが侵略する気ならば勝ち負けに関係なくジェゼロは大きな傷を負う。
「最良じゃないか」
ただ一人を諦めて、王の務めを全うすればいい。
可愛らしい女にはなれない。王は女を捨てるから男の格好なんてものを始めたのかもしれない。
湯の中で自分の体を抱き寄せる。今の自分は、この身一つしか持っていない。ジェゼロを出た時からわかっていたのに、今更身に染みる。
ベンジャミンなど、好きにならなければよかった。
できる事ならば息すらしたくない心情の中、ジェーム帝国帝王からの呼び出しを受けた。心的疲労のために行けないと、高が従者が言う訳にもいかない。
案内され、ベンジャミンが部屋に入ると、執務室のような場所に男が既に待っていた。若く見えるが、不思議と威厳がある。いうなれば近寄りがたい。
「君がベンジャミンだね。そこに座るといい。今回の騒動を君からも聞いておきたくてね。あの可愛らしいお嬢さんにも助けは保証すると言ったけれど、何せジェゼロは閉鎖的で詳細を知り見て来た者の意見を聞いておきたいんだ」
こちらが挨拶をするよりも前に立ち上がり直ぐに近くへ寄ってくる。
「この度は、エラ様へのご協力に感謝します」
出された手を握り返す。気安く反対の手で背中を叩かれると、座るように手でも指示を受ける。当人も向かいのソファに腰かけ、女中がテーブルに飲み物を置くと立ち去って二人きりになる。これはあまりに不用心だ。暗殺の危険など露程も考えていないのか。
「ジェゼロとは本来兄弟国だからね。困っていると言うならば助けるのは当たり前だ。それに、ジェーム帝国としても長い間空いてしまった時間と距離を取り戻したいと思っていたからね。我々ができることは惜しむつもりはないよ。ただ、それには知っておかなくてはならないこともある。エラ殿を偽王と言ってのけた者、ミサ・ハウスと言ったかな。その者は……本当にジェゼロ王家の者ではないと言い切れるかい」
無条件で手助けをするとは思っていない。エラ様に対しての要求もあるだろう。その内容を知らないが、自分の発言で足手まといになるような事だけは避けたい。
フィカス王は上からの威圧を趣味としていたが、目の前の帝王は一瞬同じ目線にいるように見せかける。その癖フィカス様よりも余程近くに感じない。
「私の知る限りでは、王族の血は引いていないはずです。母方の祖母はジェゼロの生まれではなかったはずですから」
女系である以上母親が問題になる。例え男系で王族の血があったとしても、ジェゼロの神は受け入れないと聞く。前王の子だけは男でも受け入れる事があるらしいが、サウラ様の兄弟はオオガミだけだ。
「そうか……儀式について、いくらか聞いてもいいかな」
調査すればわかる事だろうと、儀式の内容と、エラ様が儀式を失敗したのではなく乗っ取られたことを話す。既にエラ様が男王でない事は先の口振りからも知っているだろう。
「……ジェゼロには不思議な明かりが常に点ると聞いたことがあるが、それは……このジェーム帝国の神都と同じかな?」
「………はい」
ジェゼロが他国からすら神聖とされるのは何も燃やさずに灯りを得ているからだ。空のないこのジェーム帝国の街にもジェゼロで見るのと同じガラスに閉じ込められた明かりがある。それはジェゼロとジェームが兄弟国であったと言う証明と言っていい。
「ならば……シィヴィラが神を謀る方法を教えた結果かも知れないね。エラ殿には一度話して置こう」
その後もいくらかのジェゼロ国の情報を聞かれ議会院の制度や街並みについて当り障りなく説いた。ナサナ国での一件は特に注意して話して置く。
帝王と呼ばれる最高権力者は、世間話の様に茶を嗜みながら聞いていた。この近い距離は、普通では有り得ないことだろう。できるだけ警戒を忘れないよう心掛ける。
「先ほど……ミサ・ハウスはジェゼロの王ではないと言い切っていたが……その者の母は、もしやサラ・ハウスと言うのでは? それに、君もベンジャミン・ハウスと同じ姓だ。親戚だったのかな」
何気ない風に問われる。だがそれは、ベンジャミンが明確な答えを持っていない質問だった。
「いえ……ミサ・ハウスはティティニア・ローゲンの娘。施設に預けられた者や親から施設に預けられたものは成人するまで基本ハウスの名を名乗ります。私も施設で育ったためハウスと名乗っているだけのことです」
「それは、確かかい? 別の娘の子を養女に貰ったとかでは?」
「いえ、そもそもサラ・ハウスと言う人物に心当たりはありません。婚姻や成人で別に姓を貰うか親の物に戻すことはできますが、そう言った名を聞いた記憶がないのです。私自身ハウスの出身ですから、間違いはないかと」
何も好き好んであのミサと同じ名を名乗ってはいない。ただ、ミサはローゲンと名乗らずハウスの姓を選んだ。ハウスの姓を大人になっても名乗る者も少なくはないが結婚すれば男女問わず相手の姓にしなくてはならない。規約が色々とある。ベンジャミンがハウスと名乗り続けるのは、ある意味で戒めだった。ジェゼロへの感謝とエラ様のお傍に仕えることへの決意だ。王だなどとのたまうまでは、ミサのそれも同じ意味だと思っていた。
ううむと、少し年より臭い仕草を垣間見る。
「秋晴・サキと言う医師はご存知か?」
「……既に降ろされているでしょうが、議会院長をされていた者が、シューセイ・ハザキと近い名を持っていましたが」
「その彼は昔に医学を学びにジェームへは来なかったかい? サラ・ハウスはその時に一緒に学びに来ていたんだ……」
「………」
二十年以上前に、ハザキは確かに医術を学びに国を出ていたと聞く。自分は他国の情勢を学ぶために短期で留学をしていたが、それらの手配も手伝ってくれた。それで、ぞっとする事が頭をよぎる。
「………サラ・ハウス。いえ、サウラ・ジェゼロと言う名ではありませんでしたか?」
「………ジェゼロとはつまり、そちらの王族の名だが」
帝王はハザキよりも余程話しやすい丁寧な男だった。それが少し間の抜けた顔をしている。整った顔だけに妙におかしいが、事態を考えると笑えない。黙る事を最初に考えた。それは安易で一時の不利益にはならない。だが、後で知られた時、ジェゼロへの信頼を大きく損ねる恐れがある。
「サウラ様は少々奔放な方で、若い頃には放浪癖がおありになられたと聞き及んでいます。どこにどう行ったかは存じませんが、あの方ならば、ハザキ氏の留学に乗じて行きかねません。彼はサウラ様に気に入られていた一人でもありますので」
「その、外見を教えてもらえるかな」
「……波打つ黒髪と、緑の目をした長身の方です」
もし、万に一つそのサラ・ハウスがサウラ・ジェゼロこと13代目ジェゼロ王ならば、エラ様の支援は白紙になるかもしれない。何十年も前に会った相手だ。それでも覚えているほど恨みを買っている恐れもある。そういう方だ。
「今、サウラ殿は?」
「一年ほど前にお隠れになりました」
「亡くなられたのか……」
「はい。サウラ様とは親しくされていたのですか?」
肩を落としているので問う。帝王相手でもサウラ様なら煮え湯を飲ませていても可笑しくない。エラ様がその子であるとできれば言いたくない。
「いや……秋晴殿には色々と世話になったが。そうか、亡くなられたのか」
否定したが、気落ちは明らかだ。
「彼女は秋晴殿と結婚を?」
「いえ、ハザキは別の女性と結婚をしています。サウラ様は……結婚をされずに」
それまでで明らかに質問が多い。やはり、サウラ様が余程の失礼を噛ましたのか。どうやって帝王にそんなことをできるかは別として、ジェゼロ王になってからも色々と伝説を作っていた方だ。心根の悪い方ではない。ただ、王らしからぬ方だった。
「では……子供はいないのか」
「………」
嘘をつくのと言わないのでは違うが、この質問への沈黙は嘘になる。死を喜ばないのが復讐の機会を失った気落ちでない事を祈る。
「エラ・ジェゼロ様が……十三代目国王サウラ・ジェゼロ様の子供になります」
「……彼女は、十五くらいか」
「十八です。この冬には十九になられます」
「そうか……随分幼く見えるね。君の主人は」
冗談めかして笑うと座りなおした。それが何かを隠しているように感じた。
「ナサナ国の城に一度行っていると言っていたね。敵対までしないもののあまり好意的関係ではなかったと記憶しているが、差し支えなければ、ここに来るまでの話も詳しく伺いたい」
あまりにもあっさりと話を変えられたのには拍子抜けではある。話を振りながら事実を聞いて避けたともいえる。
自分がエラ様に絶望的に軽蔑され嫌われたとしたならば、目の前の帝王にはエラ様を助けていただかなくてはならない。どこまで信頼できるかはわからないが、他に手を貸せる相手は確かに思いつかない。自分の発言が不利になっていないことを願うしかなかった。