牢馬車で
腹が減った。
馬車に詰められ三日ほどか、これまでは幸いにも食事も暖かい寝床もある生活をしてきた。こんなにお腹が空いたのは幼い頃に森で迷った時以来だろう。
キングは一応静かについてきている。それにほっとしていた。ベンジャミンとキングは相手兵士を殺すかもしれないと何度も冷や冷やさせられている。コユキ姫はこの一行に追従しているらしく、何度か声が聞こえていた。彼らが無実だと弁明するときに声を荒げているのを初めて聞いた。根は悪い姫君ではない。巫女誘拐は幸いと言うべきか、シィヴィラの誘拐疑惑ではなくコユキ姫の誘拐らしい。それはそうか、巫女姫がこんな場で従者もつれずにやってくれば、そんな風に疑われてもおかしくない。
「……」
空腹で眠れぬ三回目の夜に、牢馬車のドアが静かに開けられる。暗いままで何人かの息を感じる。寝ていたが体を起こし、対応を考える。腕の縄は早くに解いている。四肢の自由を確保していても丸腰で部は悪いか。
遠くの焚火の揺らめきで相手が剣を携えた兵士二人だと察する。自分を殴った若い男ではない。もしそうなら、ベンジャミンが確実に報復行為に出ていた。ベンジャミンは規則的な息を立てているだけだ。
男の一人が指で支持をして、こちらにやってくる。何が目的だ。
「ぐっ」
顎を痛いほどに掴まれ、口を塞がれた。反対の手が無遠慮に胸まで掴む。それよりも、ベンジャミンに近づいた男が剣を抜くその鉄のこすれる音に背筋が寒くなる。
暗闇は相手にも同じで、違うのは戦闘力の正しい判断の有無だ。ベンジャミンに寝ぼけて触られたのとは違う不快感だけの手と、薄い明かりでも厭らしい目をしているのがわかる。それだけで容赦しないのには十分だった。
口を塞ぐ相手の顎を握った拳で殴りあげる。顎よりも喉の付け根を叩き上げ、倒れかける相手の頭を掴み、容赦なくまた顎へ膝を入れる。体幹と違い、脳を揺さぶられると屈強な男でも気を保てない。正確な打撃は男女の差を埋めるに十分な破壊力を持つ。
「殺すなっ! ベンジャミン!」
叫び声をあげる。こんな狭い場で長剣は不利なだけだ。寝ていると見せかけていたベンジャミンが剣を弾き、寝技で相手の首をもぐ勢いで締めている。止めなければ、首の骨を折っていたかもしれない。
「……ご無事ですね」
「当たり前だ」
男と思われていると思っていたが、女に見えていたらしい。まあ、姫君を襲うほど馬鹿ではないようだが、阿呆には変わりない。
声を上げなければ逃げるチャンスだったろうが、流石に他の兵が起きてきた。松明の明かりで中が照らされる。夜の当番の機に襲うつもりだったらしい。つくづく阿呆どもだ。
「罪なき者を闇に紛れて殺すのがジェーム帝国軍の務めか?」
先の老練な男が真っ赤な顔をしていた。松明の明かりの所為だけではないだろう。
「ベンジャミン様! エラ様っ。どうされたのですか」
寝ぐせ頭の起き抜けのコユキ姫がやってくると、二人の兵を見て青い顔をしていた。
「エラ様が暴行目的で襲われました。私の方は殺そうとしていたようです。お仲間をそちらに届けてもよろしいですか?」
淡々とベンジャミンが言ってから、二人を引きずって出口の近くに運んだ。天井に刺さった剣を抜くと離れた位置から滑らして外へ出す。
「無礼な者を寄こすくらいなら、水を寄こして欲しいものだな」
二人を引っ張り出してから、またドアが絞められた。
「……大丈夫ですか」
さっきまであれほど淡々としていたと言うのに、消え入りそうな声でベンジャミンが言う。彼自身ではなくエラ・ジェゼロに何かあったらと恐怖している。自分はそれほど軟弱ではない。
「ああ、怪我はない。お前も大事ないか?」
「はい」
腹が減っているよりも、喉が渇いて仕方ない。夜だというのに馬車が動き出し、朝には別の宿場についた。そこで別の馬車が横付けされる。自分たちの乗せられた板張りの簡素なものではないが、すべての窓が外から塞げる作りだ。何よりも、新たにいる兵士の服が違う。生地の質も見た目も洗練されている。王宮仕えのような者だろうか。
「ドアを開けます。その、お二人を正式に神都にご案内いたしますから、付いてきていただけますか」
コユキ姫が申し訳なさそうに言う。
「その前に水が飲みたい」
「あ、はい。すぐにご用意します」
少しして、ドアが開くと、最初に捕まった時に殴ってきた若い兵士が入ってくる。手には瓶があった。渡されると匂いを嗅いで一口含んで味を確かめてからのどを潤す。毒はベンジャミンよりも見分けがつくし耐性も強い。問題ないと確認してから、ベンジャミンに瓶を渡す。ベンジャミンは余程喉が渇いていたのか、飲む前に喉を鳴らしてからゆっくりと口を付けた。焦らずとちゃんと半分以上残している。
「こちらへ」
緊張した面持ちで青年が言う。ベンジャミンが先に警戒しつつ出る。近くにはコユキ姫もいた。別の馬車に案内される時、キングが見えて妙に安堵した。馬に罪状はないが権利もない。売り飛ばされでもしたら、きっと買った者を蹴り殺していただろう。
新しい馬車は椅子もあるだけ上等だ。中はランタンで明かりが灯され、食べ物も置かれていた。ドアが閉まると鍵がかかる。椅子に腰かけ、昨夜の報復があるのではと心配したが、上級の軍関係者に引き継がれたようだ。
「……毒見はする。いいな」
見るからに不服そうなベンジャミンに言う。
「それとも、また私がお前の看病をさせられるのか?」
軽い冗談を返すと、困ったように目を逸らした。ベンジャミンにしては珍しい。
「お役に立てず、重荷にまでなってしまい、申し訳ありません」
今更、自分とベンジャミンにはもう以前の信頼関係がないと気付く。それを求めたのは、自分だったではないか。
「……危険を承知で私に付いてきてくれた事。言葉にはできぬほど、感謝している」
それを言うだけが精いっぱいだった。