世界一美しかった花が散った場所。
5 世界一美しかった花が散った場所。
馬車で揺られるのは着た時と同じはずなのに、人生が一転した後では小言の一つも出てはこなかった。
コユキ・イーリスはどこへ連れていかれているのかわからなかった。窓には布が張られ時間もわからなくなっていた。ドアが開くのは休憩と食事時だけだ。
キリュウ隊長は自分の為に処刑された。彼一人ならば逃げる事はできたはずだ。彼が身代わりにならなければ、自分が大衆の前で殺されていた。
王が変わってから、街どころか城の中の様子もほとんど知れなかった。部屋に軟禁され窓から見える景色だけしか得られるものはない。それでも、噂に聞いたのはエラ様が責務を果たさずに逃亡した事。その身勝手な逃走にベンジャミン様を巻き込んだこと。彼には何の罪もなかったと言うのに逃亡に加担したことで、捕まれば死刑になるかもしれない。
ガタガタと馬車が何度か揺れた。少ししてドアが開く。6日しかまだ走っていない。ジェーム帝国ではない事だけは確かだった。
「……どうぞ姫様」
ジェゼロの兵は命令に従っているがとても親切だった。開いたドアから手を差し出される。眩しい太陽の許に出て目を細める。光にはそれほど強い体質ではないのだ。
次第に目が慣れて見えたのは城だった。乳白色の見たことのない大きなお城。
一心不乱に剣を振る。新しく与えられたジェゼロの剣は中々にいい代物だ。
寝込んでから三週間、エラ様に無礼を働き、それに対する答えを聞いて14日が経っていた。エラ様はキングの世話以外はあまり部屋から出られない。顔を合わせないように努めている。常にあの双子のどれかがそばにいて二人きりではあれ以来お会いしていない。
「ふっ」
振り切った刃先を止める。男がこっちを見ていた。フィカス・ベンジャミナ。ナサナの国の国王であり、自分を親戚だと宣う変人だ。
「明日にでもいなくなりそうな勢いだな」
「……フィカス様。この度は数々のご配慮に感謝します」
何を考えているのか、理解には苦しむ。ただ、エラ様に対する対応には感謝している。
「ちょっと付き合え」
「わかりました」
剣を鞘に収める。フィカス王の後ろについていた警護がそれを受け取った。安全上は当たり前だ。
ついて行くと、鍵のかかったドアに入る。そこからは付き人が全員立ち止まり二人きりになる。中は螺旋階段が続いていた。ここがどこかの棟に続くものだとは察する。
「……どちらへ?」
「今更捕まえようなんざ思っていない。もうすぐ着く」
階段を登り切ると、錆びた錠を開けた。鉄のドアを、ナサナ王自ら体重を使ってこじ開けると埃っぽい空気が舞う。
足を踏み入れたのは、展望室だった部屋なのか、大きな窓がいくつもある。だが部屋にはベッドとソファがあった。他にも、人が暮らせるような設備までが整っている。
「何年も誰も入ってなかったからな」
窓を開けるとごうっと風が吹き込んだ。埃が余計に舞う。
「ここは?」
人ひとりが生活するには狭くはないが、明らかに幽閉用の部屋だ。そこにはくたびれたぬいぐるみが数体残っていた。
「腹違いの姉ベラータ・ベンジャミナが19から死ぬ24まで静養の名目で暮らしていた場所だ」
その人物の名は話には聞いた事がある。ナサナの酒場でよくある政治ネタだ。今の王よりも相応しい姉がいながら、神は何とも残酷だと。若くして難病を患い、病死したと話には聞いていたが、随分と若くして亡くなったらしい。それに、難病の姫をこんな場所に置くのは可笑しな話だ。
「……このような場へ連れてきていただいても、私にはナサナ国の闇しか感じられません。ここに何かあるので?」
手近な埃をかぶったぬいぐるみを拾い上げて問う。それに、何も感じていないふりをした。
「まあ聞け、俺が十一の時だ、八つ歳上の姉にいきなり会えなくなってただ怒りを抱いた。亡くなられたのは俺がまだ十六の時、十分に分別がわかる歳だ。姉が静養ではなくあの頭の固い父に閉じ込められ自由を奪われていたのは明らかだった。それだというのに、俺は姉が亡くなられた後ですら、何もできず、初めて己の無力さを恥じた」
フィカス様でも恥じる事があるのですねと、言わないことにした。ベラータ・ベンジャミナが死んだことで国王になれたというのに、それほど姉に対して愛情があったことも意外だ。
「国民にも人気があったが、俺に負けぬほど父も姉を溺愛していた。兄弟である自分まで姉を汚すと考えていたほどだ。十歳の子供が姉を襲うとでも思ったのか、二年近く郊外の寄宿学校に入れられ王選外とまで揶揄されたが、姉が病に倒れたとされてからは自分が次期王と呼ばれていた」
フィカス様はあたりを見渡すと、ため息をついた。高圧的で自信のある男と思っていたが、違ったようだ。
「調べさせれば、姉が子を成していた事は確かだと分かった。ふっ、父は聖女が穢されたことが許せなかったらしい。生きていれば子は姉様が亡くなったのとじきに同じ歳になる。見つける事ができるとは、俺はやはり、王になるべくして産まれたようだ」
「……」
続きは聞かない方がいい。それだけはわかっていた。
「酔いどれのお前に神酒を飲ませた。事実かまやかしか、王族だけが生きられる神聖なものだ。それを口にして生を奪われないと言うことは、神が選んだ神聖な者だと言う事だ。その上、姉様が大事にしていた指輪を持っていた。こうも揃えば、お前がベラータ・ベンジャミナを死に追いやった子だと疑いもないだろう」
はっきりと目を見て宣告される。それが死刑宣告ではないと祈る。フィカス様の甥となれば、王位継承権すら有する位置になる。それで喜びを覚えるよりも背筋が寒くなる思いだった。目の前の男に邪魔だと消される危険がある。それよりも、自分が本当にそんな立場であれば、エラ様の付き人であることが許されない。自分の卑しい感情が達成できない事よりも、エラ様をお一人にすることに恐怖した。
「私は、ジェゼロのベンジャミン・ハウスです。どんな理由があろうとも森に……大型の肉食獣が巣くう森に捨てられていた孤児です」
「それを決めるのは私だ。姉が誰の子を産んだところでその価値は不変であるべきだ。子にも責任はない。子の父親には死が妥当だろうがな。安心しろ、姉様の子を殺すなどと言う不敬は働かん。俺は、ベラータ姉様がなるべきだった王になった。それに対する負い目がある。ベンジャミン・ベンジャミナとして生きるならば、俺はお前を甥として王位に最も近い男として認めてやろう」
傲慢だが、これがナサナの王の誠意なのだ。だがお門違いだ。
「今、貴方に死なれて一番困るのは俺でしょう。私が求めるのは地位でも金でもない。エラ・ジェゼロ様の幸せだけだ。フィカス様が王であることを誇りと思うなら、私にとってエラ様に仕えることが誇りだ。手を貸すというのならばありがたく受け入れる。だが私は、他国のお家事情など興味もない。自分に親はいない。もしも、あなたが姉君の代わりにと言うならば、ジェゼロのベンジャミン・ハウスという地位のない男に手を貸していただきたい」
もう一度、はっきりと言う。エラ様は今ではまともに目も合わせて下さらなくなった。それがとてつもなく寂しい。だがその原因を作ったのは全て自分だ。付けあがり優しさに甘え、エラ様を穢した。事故のようなものとはいえ、あの唇に触れてしまった。許されざることだ。エラ様が良識ある判断をされたからと言って、自分の気持ちは変わらない。自分はあの方が幸福であればいい。それ以上は求めてはいけない。
「ジェーム帝国に行ってなんになる?」
「……」
直ぐに答えを返せなかった。どう知ったのかはわからないが、ナサナ国にとってエラ様がジェーム帝国に協力を仰ぐのは良い事ではない。
「あそこに行ったことはあるか?」
「サウラ様の計らいで、留学の形で行ったことが」
「ならば、ここよりもよほど面倒なことくらいわかるだろう? どうせ女の浅知恵で行先を決めたんだろう?」
「その浅知恵で、私は助かりました」
エラ様が助けに来なければ、自分はどうなっていたか。禄に答えない事に腹を立てたフィカス様に神酒とやらを無理やり飲まされ生死を彷徨っただろうか。その前に、殺されていたかもしれない。こんな自分など、エラ様の身を危険にさらしてまで助ける価値はないと言うのに。
「こうも頑なでは仕方ない。……出発にいるものがあるなら準備してやろう。ジェームへ行くと言うなら正式な援助はまだ表明しない。ただ、実際に王へ返り咲いたときに、いくらかの譲歩を頼むがな」
「感謝します」
寛大な対応に深く頭を下げた。何を考えているか、単純そうだが読みにくい相手だ。それでも、ベラータ・ベンジャミナ姫に対する誠意だけは本物の様だった。
風が吹き込み、その先を見る。窓から、森が見えた。その景色は、昔……確かに見たことがある。そんな気がした。
「ジェゼロは、あちらですか」
「ああ、神聖とされる湖のある国だ」
捨てられる前の事はほとんど覚えていない。だが、幼い頃に何度も思っていたことがある。帰りたいと、漠然と思っていた。そんな寂しさから解放してくださったのは、エラ様だった。自分にとって、帰る場所はあの方になった。
「下りましょう……」
もう、昔とは違う。それでも、無性にエラ様の許へ帰りたかった。自分が戻るべき場所はもうここではないのだとはっきりわかる。
「その前に、これは返しておく」
指輪を差し出され黙って受け取る。まるで牢屋のような扉を閉め、階段を降りる頃にはいつものフィカス様に戻っていた。あの場にいたナサナ国王は、まるで善良な王の様だった。
「それにしても、酔ったついでにおっぱじめるかと思ったんだがな。つまらん奴だ。本当に玉が付いているのか?」
「盗み聞いておられたのですね」
あえて軽い調子で言われるが、あの部屋には盗み聞ける場が作られているらしいと察する。ジェーム帝国行きもそれで知られたか。
「まあ、お嬢ちゃんの方もいい雰囲気だったのに寝落ちしたからな。その後も何もなしとは」
「……」
「キスの一つもできなかったとは、確かにベンジャミナの血には似合わないな」
「そこまでしか、できなかったんですよ」
階段を下りながらうんざりと返す。むしろそれは良かったことだ。あれ以上進めていれば、取り返しがつかなかった。高が従者が、尊きエラ様を穢すなどあってはならない。
「本当、か?」
「あなたの部下だけは天才ですよ。あそこまで美しく磨かれては、困ります」
どのエラ様も美しい。それでも新しい角度から見せられたエラ様は危険なほど美しかった。
「いや……本当に口づけを交わしたのか?」
あまりにもしつこい。
その時の感触ははっきりと覚えていないが、水や食事を頂いた時に触れた柔らかな感触は覚えている。身体の動きに制限がなければ押し倒していたかもしれない。
ああ、それだけでも一生分に足りるネタだ。