第1話 追いはぎ医者
畜生め、しくじった――男は暗がりの中で唇を噛み、ひび割れた呻き声を漏らした。
痛みに耐えながら上体を持ち上げ、周囲を見回す。人ひとり横たわるのがやっとの、狭い穴倉だ。四方を囲む壁の一角だけが切り立った斜面になっており、少し上の開口部からはほんのりと明かりがこぼれてきている。男は今しがた、その明かりの方から転げ落ちてきたのだった。
こんなことになろうとは思わなかった……危険の少ないはずの遺跡外縁部を回り、少しばかりの収穫を抱えてぼちぼち帰ろうとしていた所だった。ブーツの底にカチリと当たる感覚があったかと思うと、突然足元の床が開いて、あッと思う間もなく穴倉に転げ落ちていた。
くだらない罠に引っかかったものだ。いや、もしかしたら、罠ですらなかったのかもしれない。単なる太古のダストシュートか何かなのかも――まあ何にせよ、自力で這い上がるのは困難だ。大した深さではないが、斜面はなめらかでとっかかりがなく、手をかけて這い登るという訳にもいかない。
それに――男は恐るおそる、落ちた時から極力見ないようにしてきた右足を見やった。落ちた時、石の床と体の間に挟まって下敷きになった右足は、暗がりで見てもわかるほどにねじれて曲がっていた。心臓の脈動に合わせて、痺れるような痛みが頭を貫く。だいぶ出血もしているらしい。足の先が痺れの中で冷えていくのがわかる。
このまま動けなかったら……男の脳裏に“死”という言葉がよぎった。
その時だった。
「あァ、こりゃあ死ぬな!」
男の心中を見透かしたかのような声が、不意に上から降ってきた。男はぎくりとし、一瞬痛みも忘れて上を見上げた。天井に切り抜かれた四角い窓のような穴から、何か小さなものが落ちてくる……ロープだ。小石を重しにしたロープが斜面を降りてきて、男のすぐ脇に転がった。と見るや、そのロープを伝って黒い人影が勢いよく降りてきた。
「よッ……と。悪いね、くつろいでるとこ。邪魔するぜ」
穴の底に降り立った人影は、倒れている男を見下ろして軽い調子で言った。男は助けてくれ、と言いかけ、言葉を飲み込んだ。暗がりの下でも、相手の格好があまりに異様だったからだ。臙脂色をしただぶだぶのマントで全身を覆い、体の輪郭さえはっきりしない。マントの襞は頭から口元までかぶさり、顔をほとんど隠していた。
「あ、あんた、一体……」
震え声でやっとそれだけ言った男に、マントの人物は『黙ってろ』とでもいうような身振りをし、懐から筒状のものを取り出して男に向けた。白く強い光がほとばしり、横たわった男の身体を照らし出す。携帯型の魔導投光器だ。
「あー……やっぱり、右脚イッちまってるな。ちょっと触るぜ」
言うなりマントの人物は、男が悲鳴を上げるのも構わず右脚を持ち上げ、背負っていた背嚢を降ろすと、台代わりに男の脚の下に入れて高さを整えた。
続けて、マントの人物は革のベルトを取り出し、男の右腿を巻いて締めつけた。ドクドクと疼いていた痛みが遠のいてゆく。傷口につながる血管が圧迫され、出血が抑えられたのだ。
そうしておいてから、マントの人物は改めて男の傍らに屈み込み、魔導投光器で傷口を照らした。指で脚をなぞりながら、しきりとブツブツ呟いている。
「ひどく腫れてるな……この感触、折れた骨が中で血管を破ったうえ、先端は皮膚まで突き破ってやがる。
血が止まらなきゃあ半日しねえうちにお陀仏、止まったとしても遅かれ早かれ傷口が腐って、まァ生きちゃいられねえだろうよ」
「あ、あんた……医者なのか?」
すがるような声で聞くと、マントの人物は身体を屈め、ぐっと顔を近づけてきた。魔導灯の逆光の中で、2つの瞳がぎらぎらと妖しく浮き上がって見えた。
「だったら、どうする? どうして欲しい?」
「た……助けてくれェ!」
男は反射的に叫んでいた。声が穴倉に反響し、折れた骨に響いて疼くような痛みを呼ぶ。マントの男は、顔まで覆う布地の奥でかすかに笑みを作った。
「こっちもヒマじゃねえ。何のためにこんな穴の底まで下りてきたと思ってる……望み通り、助けてやろうじゃねえかよ。
最初はちょいと浸みるが、我慢しな」
言いながらマントの「医者」は、マントの奥からくちばし状の口のついた革袋を取り出し、その中身を男の傷口へ吹きつけた。水圧と刺すような刺激に、男の口から弱々しい悲鳴が漏れた。マントの人物は少し肩を揺すり、苦笑しているらしかった。
「辛抱しろよ、男だろうが……傷を洗い流してやらにゃならないんだ。それに、この薬酒には麻酔の効果もある。感覚がなくなってきたろ?」
そう言われ、男は目をしばたいた。確かに、先ほどまでの痛みは消え、ただドクドクと血の流れる音が頭に響くだけとなっている。魔導灯の光がやけに白く大きく見えだし、頭がぐらぐらしてきた。
「おっと、効きすぎか? 出血のショックもあるかもな……ま、眠たきゃ眠ってもいいぜ。その方がこっちもラクだ」
マントの「医者」は男の折れた脚を覗き込み、懐から何やら細いものを取り出した。魔導杖らしいが、どうも妙な形をしている。握りの部分に引き金のような金具がつき、先端部分にも尖った金属部品が接続されている。
朦朧とする意識の中男が見守っていると、「医者」はその杖に魔力を込めはじめ――やがて杖の先端の金具から、まばゆい光がほとばしりだした。魔導灯など比ではない。痺れた体にすら熱と圧力を感じるほどの、小さいが強烈な光だ。「医者」はその光を、あろうことか、男の傷口に近づけようとした。
「あ……あんた、何する気だ……!」
叫んで跳ね起きようとしたが、男の身体はくたくたと力なく床の上にくずおれた。麻酔とやらが効いているのだろう。「医者」はマントの内側で含み笑いを漏らした。
「だから、寝とけって……ちょっとばかし痛むかもしれねえが、まあさっきよりゃマシさ。どのみち、悲鳴も上げられねえわけだしな」
言うなり、「医者」は魔導杖を傷口へまともに突き立てた。杖から出た光が傷口を打ち、肉を焼く音が響く。叫ぼうとしたものの、麻酔の効き目と体力の喪失が勝った。男の意識は泥のような暗闇へと引きずり込まれていった――
* * *
――どれほどの時間が経ったのだろうか。
男は、金属片が石の上を転がるような音で目を覚ました。起き上がろうとしかけ、右脚に妙な圧迫感を感じて身じろぎする。薄闇を透かして見ると、ひん曲がっていた脚は添え木で真っ直ぐに固定され、しっかりと包帯でくるんであった。血も止まっているらしい。
すると、あの自称「医者」は、ちゃんと治療をしてくれたわけか――ほっと一息ついたところで、また例の金属音が聞こえてきた。音の方へ顔を傾けると――
「なァんだ、起きちまったか。寝てりゃよかったのに」
「医者」の小馬鹿にしたような声が降ってきた。見ると、魔導灯を肩からつるし、床の上で何かキラキラ光るものを吟味しているらしい。目を凝らした男は、慌ててがばりと跳ね起きた。
「あんた、それは、俺の……」
思わず声が裏返る。「医者」が弄んでいるのは、男が遺跡の奥で拾い集めた古代「うちびと」時代の硬貨だ。魔導合金の類ではなく、骨董としての価値も大したことはないが、それでも市場へ持ち込めばなにがしかの金になる。この探索での貴重な収穫だというのに……まだハッキリとしない意識を必死に奮い起こしつつ、男は「医者」の方へ這いずっていった。
「おいおい、無茶するなよな。まだ麻酔は残ってんだぜ。気絶してるうちに、少しばかり「追加」を嗅がせといたからな」
「医者」は這いつくばった男を靴の先で軽く押しこくった。男は手もなくごろりとその場に突き転がされてしまった。体が仰向けになったのをいいことに、「医者」は男の懐にまで手を伸ばしはじめた。
「さて……と。なんだ、獣の皮が3枚……こりゃ確か、ツメナガイタチってやつの毛皮かい? ギルドで害獣に指定してるっていう。殺して届け出たら報奨金が出るんだよな、確か」
冒険者ギルドでは、遺跡の踏査を困難にする魔物や猛獣の類を「害獣」として指定し、駆除に貢献したものには報奨金を与えるというシステムを導入している。その報奨金目当てで、男も道々仕留めた害獣の毛皮を剥いで持っていたのだった。
ツメナガイタチは遺跡の崩壊個所などに穴を掘って棲む体の細長いイタチで、その名の通り長い爪には毒を持っている。縄張りに侵入する者に対しては非常に好戦的で、しばしば不用意に踏み入る冒険者たちを負傷させていた。
「お前……最初からこれを狙って……」
転がされたまま弱々しく呟くことしかできない男に、「医者」はあっけらかんとした調子で答えた。
「どのみち、あのままだったらお前は死んでた。それは本当さ。だからこれは感謝のしるし、治療費ってことになる。正当な報酬だ」
「勝手なことを……!」
起き上がれないままに、男は「医者」に向かって手を伸ばした。が、その指先は「医者」のマントの端をわずかにかすめるだけだった。「医者」は略奪した品をまとめてマントの下にしまい込み、軽い身のこなしで跳びあがってロープを掴むと、スルスルと上に向かって登りはじめた。
「じゃあな、養生しろよ……ロープは残していくからな。吸わせた麻酔はじきに切れるし、折れた脚はがっちり固定してあるから、まあこのくらいの穴を登るくらいできるはずだ。
落ちてまた脚を傷めないように気ィつけろよ!」
声はどんどん遠くなっていき、やがて穴の彼方へ消えた。しばらくは足音だけが壁を伝って響いていたが、それもすぐに聞こえなくなった。男は静寂の中、いまだ感覚の戻らない体だけを抱えて取り残された。
男は仰向けに体を横たえたまま、諦めたように息をつくと、再び目を閉じた。とにかく、ロープを伝って登れるくらいに体の調子が戻らなければどうしようもない。今は命を拾えただけで、よしとしなければいけないのだろうが――
「……あいつめ、一体何者なんだ……」
悔し紛れにぽつりとつぶやいた言葉は、誰に聞かれることもなく穴倉の暗闇へと溶けていった。