第13話 時間との死闘
「や……やった!」
クレイジースミスの動きが止まるのを見て、手術台の横で『追いはぎ医者』は立ち上がり、声を上げた。
「おい、気を散らすなって言ってんだろ。観光客かなんかのつもりかよ」
キャラバの低い声に『追いはぎ医者』はハッと我に返って、気まずそうに手術台へ戻る。
「だけど……イケそうじゃないか? あいつら、あんなデカい魔物相手にも互角に立ち回って……」
「互角に見えるか、あれが?」
キャラバは顔を上げ、『追いはぎ医者』の方へ血走った眼を向けた。マスクの奥に見える肌には、汗がてらてらと浮いている。
「いいか、例えば蠅だって、顔の周りを飛びまわりゃ多少は人をうるさがらせることが出来る。あっちこっち飛び回る蠅をはたき落とすのは、人間にとっても少々手間だろうよ。
だが、結局はそれだけのことだ。うるさい蠅はいずれ叩き潰されて終わる。奴にとって俺たちの攻撃なんざ、その程度のものでしかねェ。魔物をナメるな」
早口に言葉を切り、キャラバは手術台の上に視線を戻した。既に傷口は広げられ、いよいよ問題となる動脈の損傷個所に至ろうとしている。
「用意しとけよ、兄ちゃん。腋窩動脈が露出したら矢を引き抜いて、すぐお前さんに交代する。ザインの止血も止まるから、あとはお前さんの『光のメス』の速さ次第だ。まずは傷口を塞いで、残った汚染箇所を切除し縫合。手順は分かってるだろうな?」
「そっちこそ、あんまり俺をナメんなってンだ」
『追いはぎ医者』はマスクの下で口を尖らし、自分の魔導杖を取り出した。魔導合金の金具が、先端にほの白い光を灯す。キャラバは頷き、用具置きから金鋏を取り出した。鉄の矢を挟み、引き抜くための道具だ。
と、その時だった。だらりと垂れていたクレイジースミスの腹が不意に高々と掲げられ、腹の紋様が威嚇的に波打ちはじめた。低くかがめた頭からは、苛立たしげに歯を噛み合わせる金属音が響いてくる。しばし鈍っていた脚の動きは再び速度を上げ、遺跡の石畳をでたらめに叩き割っていく。
ユノーは舌打ちをし、顔をしかめた。
「息が詰まってるのかと思ってたけど……まだ元気みたいね。じゃ、窒息するくらい濃い香りを吸わせてあげる!」
弾帯から新たな金属筒を取り出しはじめたユノーをよそに、アラムはふと不吉な予感に胸を騒がせていた。
あの緊張感、何かある。仕掛けてくるつもりだ。
「駄目だ、ユノー! 下がれ!」
アラムが叫ぶのと、ほぼ同時だった。無秩序に辺りを乱れ打っていたクレイジースミスの脚が、空中で一斉にその動きを止め、次の瞬間にそろって地面を叩いた。遺跡じゅうを揺るがすような音が響き、反動で大蜘蛛の身体が宙に浮く。
「ちょッ……マジで? あの巨体で、あの重さで、ジャンプって!!」
ユノーは思わず立ちすくんだ。クレイジースミスは転がり跳ねるようにしてユノーの張った煙の包囲網を飛び越え、そのまま体ごとユノーたちの方へ突っ込んでくる。慌てて籠手を操作しようとするユノーを押しのけるようにして、アラムが前へ進み出た。
「無理だって! ヤツの方が速い! 煙じゃ止めとけないっ……!」
叫びながらアラムは、瞬時に状況を判断する。
(あの質量が一直線に飛んでくるんじゃ、剣で受け流すワケにも行かない。流石に刀身が衝撃に耐えられない……と言って避けたら、クモ野郎は勢いのままに『手術室』まで転がってって、キャラバたちをペシャンコに潰しちまうだろう。
何とかして、正面から止める他はないか……!)
ひと呼吸のうちに考えをまとめ、眼鏡の下の瞳をきッと上げると、アラムは右腕を前へ突き出した。黒曜石色の義手が再び形を変え、平たい円盤形をとる。手盾だ。
クレイジースミスは空中で体をよじり体を半回転させて、鳥力車ほどもある巨大な腹を叩きつけてきた。アラムは手盾の縁に左手を添え、襲い来る大質量を受け止め盾の曲面で逸らそうとする――が、受け流しきれない。身体を投げ出したことで突進の勢いは弱めたものの衝撃まではかわしようがなく、黒曜石色の盾はミシミシと軋んだかと思うや、次の瞬間には乾いた音を立てて砕け散っていた。
「ぐッ……!!」
アラムは宙に跳ね飛ばされ、頭から石壁に叩きつけられた……と見えたその時、その身体は透明なゼリーの中に突っ込んだかのようにふわりと減速して、ゆっくりと着地した。
「ユノーか……!」
銀縁眼鏡を直しながら、アラムは溜息をついた。ユノーがとっさに風を操り、落下地点に風の塊を生じさせてアラムの身体を支えたのだ。駆け寄ってくるユノーに、アラムは立ち上がりながら軽く手を振った。
「受け止めてくれて、ありがと。頭がカチ割れるとこだったよ」
「……その運命、何分か先延ばししただけだったりするかも。結局のところ」
ユノーは暗い表情で前方を指さした。アラムと衝突したクレイジースミスは空中で体勢を崩し、横腹から地面に落ちてしばらくもがいていたが、今や体を起こして再び突進の体勢に入りつつあった。牙を鳴らしながら眼のない頭を向ける先には、アラムとユノー、そして今まさに手術の真っ最中であるキャラバたちがいる。
「おい……ヤバいぞ。もうクモ野郎があんなとこまで」
『光のメス』を手にして手術台に向かったまま、『追いはぎ医者』は首だけ捻ってアラムたちの戦いの様子を見守っていた。すかさずキャラバの叱り声が飛ぶ。
「脇見をするな! 患者の命が懸かってんだ!」
言いながら手元では腋窩動脈の損傷個所を露出させ、傷の両側を手術意図で結紮して止血を終えていた。あとは矢を引き抜くだけだ。キャラバは金鋏を手に取ると、鋏状になった柄を大きな手で握り、先端の部分で鋼の矢をしっかりと挟み込んだ。
「だけど、このままじゃ! 一旦逃げた方が……」
『追いはぎ医者』の上ずった声が響く。が、体じゅう汗みずくにしながらも、キャラバの目に躊躇いの色はなかった。
「バカ言え! 今患者を動かせると思うか! 問題ねえ、こっちの処置が終わるまでは何とか保つ。保たせてくれるさ、あいつらなら」
「そんなこと言ったって……」
『追いはぎ医者』の心配も無理はなかった。大蜘蛛の方は、起き上がるのに手間取っている以外はまるでダメージを受けていない様子だ。起き上がれば今度こそ、一瞬で『手術室』まで蹂躙していくだろう。
対してこちら側、特に身を挺して突進を止めたアラムの消耗は激しかった。額には脂汗が流れ、肩は荒い息遣いに激しく上下している。土で形成していた右腕は今やボロボロに崩れ、中に仕込まれていた魔導杖が露出している。
アラムの義手は、肘の部分に固定された魔導杖を「芯」として、そこから放出される魔力で土を引き寄せ固めて形作っていたものだ。それが形を保てずに崩れ落ちているというのは、アラム自身の放つ魔力が弱まっていることを示している。体力の消耗が著しいのだ。
アラムは左拳で額の汗をぬぐうと、後ろに向かって叫んだ。
「リオーッ! あとどんだけで来られる!?」
キャラバは、半ばほどまで矢を引き抜きかけた手を止めることもなく叫び返す。
「ほんの一瞬だ! もうあと、一分かそこら……」
答えながらもその表情に余裕はない。血管をかすめて突き刺さっている矢である。結紮しているとはいえ、乱暴に引き抜けば血管の損傷をさらに広げることになるし、取り巻く軟組織に裂傷が生じる恐れもある。
「まァた、ムチャ振りを……」
アラムは溜息をつき、前へ向き直った。
ほんの数歩先には、体勢を立て直し、今にもこちらへ飛びかかってきそうなクレイジースミスがいる。魔力は尽きかけ、喉からは息をするたびに血の匂いが上ってくる。それでも、何とかやらねばならない。
「ユノー、前方に空気の壁を張れる? 通路全体を塞ぐようにして」
「そりゃ、出来るけど……でも、それであいつを止めるのは無理よ? あたしの魔術じゃほんのそよ風くらいの力しか出せないんだから」
驚きながら聞き返すユノーに、アラムはただ左手を振って応えた。
「大丈夫、そこまでは言わないから……詳しく説明してるヒマはないけどね。私も正直、飛んだり跳ねたりでいい加減バテてんだ」
言葉通りにアラムは息を弾ませ、片膝を地について前のめりに構えている。ユノーは心配そうな視線を向けながらも、両腕を上げて魔力を集中させた。今回は籠手の機構を作動させていない。煙抜きで、風を薄いカーテン状に集めて空気の壁を作っていく。
「Kwwqw……」
クレイジースミスは嗤うように鳴いた。魔力を捉える盲目の蜘蛛の視界には、魔力のこもった空気の壁は薄いカーテン状に見えているだろう。が、煙の糸を警戒していた先ほどまでと違い、もはやそれに尻込みするような様子もない。蜘蛛の怒りと空腹は頂点に達していた。餌を捕らえ、肉にかぶりつくためならば、そんな障害物などものともせず引き裂いてのけるだろう。
「Kwa!!」
高々と耳障りな声を上げ、クレイジースミスは駆けだした。八本の脚を一散に動かし、馬で言えばギャロップの歩調でアラム達目掛けて飛びかかってきた。ユノーが息を呑み、アラムの方を振り返って何か言おうとする――が、その前に、アラムは左腕を突き出した。
その手に握られていたのは、腰のホルスターから抜き放った魔導信号弾拳銃だった。
「ユノー、眼を閉じてッ!」
叫ぶや否や、アラムはクレイジースミスの進路上へ狙いを定め、引き金を引く。魔導信号弾の弾頭がクレイジースミスの感覚器官めがけて飛び――その軌道の途中で、ばちり、と音を立てた。
次の瞬間、強烈な閃光がヒビのように前方の空間一帯へ広がり、炸裂音と共にあたりをしろじろと染め上げた。通常の魔導閃光弾の炸裂ではない。火花がクレイジースミスの進路を遮るように広く激しく飛び散って、まるで光の壁だ。
「KeeeeK!」
爪の先端が火花に弾かれ、大蜘蛛はおののき跳びすさった。
風の魔力によって作られた空気の壁に、魔導閃光弾に詰め込まれた炎の魔力がぶち当たってはじけ、反発作用の火花となって飛び散ったのだ。アラムは拳銃を握った左腕でかろうじて閃光を防ぎつつ、床を後ろに滑って反発力から身を守った。
(今更、光だけじゃ脅かせないだろうが……これなら多少は時間が稼げるか?)
膝を折り、屈み込んで荒い息を整えながら、アラムは腕ごしに前方を窺った。爆ぜる光は徐々に小さくなり、やがて完全に消えた。クレイジースミスは魔力の火花に怖気づき、脚を縮み上がらせて後方へ退いて――
「Kwq!」
視覚よりも先に、音がアラムを動かした。鋼の鎧が擦れあい、風を斬る音。アラムは後ろへ倒れ込むようにして身を投げ出し、転がった。その頬あたりを、クレイジースミスの鋭い爪が掠める。
大蜘蛛はたじろいで後退したのではなかった。むしろ跳躍してこちらへ跳びかかるために、邪魔な閃光が消える時を待っていたのだ。脚を縮めて力を溜めながら。
「アラム……!」
ユノーの手がアラムの肩にかかる。その手がほんの少し震えているのが分かった。そのすぐ後ろには、無風ランプにより張り巡らされた空気の壁の揺らめきがかすかに見える。とうとうどん詰まりまで追い詰められたわけだ。策もない。ついでに、眼鏡の右レンズにはどうやらヒビが入ったようだ。視界がやけに白っぽい。
「畜生め……!」
毒づきつつ、アラムは最後の抵抗をするためなけなしの魔力を右の魔導杖に込め始めた。
「一丁、上がりだァッ!!」
ちょうどその刹那、無風ランプの下の『手術室』から声が上がった。
キャラバだ。誇らしげに突き上げられたその右手には、血にまみれて光る矢をしっかりと挟み込んだ金鋏が握りしめられていた。
と思う間もなく、キャラバは矢ごと金鋏を道具台の上に放り出し、コートをひるがえして『手術室』を飛び出した。
「さァて、待たしたな! 今度はこっちの『手術』にかかろうか!」
地面に座り込んだアラムとユノーの前に立ち、クレイジースミスと相対したキャラバは、胴間声を響かせてニヤリと笑った。アラムも応えるように片側の唇を吊り上げる。
「なァにを気取っちゃって……遅いっての、大将」