【4】
エルシェは遠慮なく執務室に入ると、「久しぶり」と自分も腕を広げてシルフィアを抱きしめた。
エルシェとシルフィアの付き合いは長い。シルフィアは今から十年前、十六歳の時に当時十歳のエルシェの教育係として城に上がった。以来、二人は仲の良い姉妹のような関係である。
シルフィアは栗毛に澄み渡る空色の瞳をした少々きつい印象の美女だ。身長はエルシェよりもやや高い。当代のレイヴェン侯爵であり、エルシェの決起に付き従った際にはすでに侯爵位を所持していた。先代の侯爵、つまり彼女の父はエルシェの叔父に殺されたためである。一人娘だった彼女は、自らが爵位を継いだのだ。
公都奪還の指導者はエルシェであるが、実際の作戦を立てたのはシルフィアであった。シルフィアはエルシェの軍師に近い存在だ。
そのシルフィアは、公都奪還の一年後、ファビアンと結婚した。男爵家の出身であるファビアンとは身分差があったが、もともとが小さい国だ。身分がどうのと言っていると、誰とも結婚できない。まあ、めでたく二人は結婚したわけだ。
二人が結婚してから三年が経っている。まあ、夫婦であれば当たり前のことであるが――――。
「何故わたくしを呼び戻そうとしたのか、よぉくわかったわ。どうしてあなたがお兄様のふざけた遺言を実行しようと思ったのかも」
エルシェが視線をおろし、シルフィアの腹のあたりを見た。彼女の腹部は、ドレスの上からでもわかるほど膨らんでいた。
「腹立たしい気もするけれど、おめでとう。あなたとファビアンの子なら、きっと可愛いわね」
「ありがとう。うれしいわ、戻ってきてくれて」
そう言ってにっこり笑うシルフィアは妊婦なのだった。
「いつ生まれるの? だいぶ大きいけど」
「うん。来月の予定。だから早くあなたに戻ってきてもらいたくて、ヴィルには気絶させてでも連れて来いって言ってあったのよ」
シルフィアがあっけらかんとして言った。エルシェが背後にいるヴィルヘルムスを見た。彼はびくりとして視線をそらす。
「……まあ、過ぎたことだし、どうでもいいわ。ねえシルフィア。触ってもいい?」
「いいわよ」
にこりと笑ってシルフィアが許可する。エルシェは手を伸ばしてシルフィアの膨らんだ腹を撫でた。
「元気に生まれてくるのよ~」
「あなたにそう言ってもらえたら、きっと大丈夫ね」
シルフィアはそう言って笑った。エルシェも微笑む。
シルフィアは妊婦だ。いつまでも政治に関わっている場合ではない。しかし、自分が抜ければ公国の行政運営も危うい。ならば、代わりの人を出せばいい。つまり、シルフィアが思いついたのがエルシェを呼び戻すことだった。方法としては間違っていない。エルシェなら、問題なくシルフィアの代理を務めることができるからだ。
いや、考え方によってはシルフィアがエルシェの代理なのか? よくわからなくなってきた。
「一応宰相にも挨拶をしてこようかしら。ドリューネン侯爵は……元気でしょうね」
「ええ。とても元気よ」
ドリューネン侯爵の娘は、アンドリース大公の妻である。二人目の妻だ。公都奪還後に娶った妻であり、子供はいない。
ドリューネン侯爵は、おそらく選帝侯であるクラウスヴェイク大公位を操る力が欲しいのだ。だからアンドリース大公の妻に自分の娘を押したし、今、アンドリース大公の遺言に従い、集められた三人の娘たちの中に、彼が連れてきた娘も一人いる。
策略家であるドリューネン侯爵は、同じく策略家であるシルフィアとエルシェが邪魔だろう。特にエルシェは、現状、最も大公位に近い。彼の娘には子供がおらず、おそらく、エルシェなら正しいアンドリース大公の娘を見つけることができる。
アンドリース大公は、遺言として自分の娘を見つけてほしいと告げたが、その子に大公位を継がせるように言わなかった。そのため、この大公位の行方は今のところ不明となる。
クラウスヴェイクの法律上では、大公の兄弟より、大公の子の方が継承順位が高い。それは当然だ。
だが現状、アンドリース大公の子だと思われる娘は三人いる。エルシェやシルフィアなら、確実にアンドリース大公の実子を発見できると、ヴィルヘルムスやファビアンはわかっているが、それでも納得しない人が多いだろう。その三人の娘のうち一人が、大公になると言ったら。
一国の君主だ。重大な責任だ。さらに、クラウスヴェイク大公は帝国の選帝侯でもある。帝国内にも、七人しかいない選帝侯。皇帝が無くなった場合、次の皇帝を選ぶ役割を担うのだ。そんな重大な役目を、今まで公都で平穏に暮らしていた娘たちに勤められるとは思えない。
だから、この状況としては、エルシェが大公となるのが望ましいのだろうと、ヴィルヘルムスも思う。しかし、彼女にはその気がないのだろう。おそらく、アンドリース大公の子に役目を譲る気だ。押し付けるともいう。
ヴィルヘルムスは、エルシェに連れられてドリューネン侯爵にも会いに行った。ドリューネン侯爵はクラウスヴェイクの宰相であり、公国がヘンドリックに乗っ取られた時も城に残っていた。かといって、完全にヘンドリック側にいたわけではなく、彼は公国を維持するために城に残ったのだ。ヘンドリックの暴政が行われたあとも、公国が国としてある程度維持できていたのはドリューネン侯爵のおかげだ。
「ごきげんよう、ドリューネン侯爵。お久しぶりね」
ちょうど廊下で行き会ったドリューネン侯爵に、エルシェは小首を傾げて微笑みかける。ドリューネン侯爵は、公都の関所の騒ぎを知っていたのだろう。エルシェを見てもさほど驚かずに微笑んだ。
「エルシェ様。お戻りとお聞きし、うれしく思います」
「ええ。歓迎ありがと」
今まで、大公不在のクラウスヴェイクの最高権力者は宰相であるドリューネン侯爵だったが、エルシェが戻ってきた以上、大公女であるエルシェが最高権力者となる。
「お兄様の娘を探しているそうね。少し話をお聞きしてもいいかしら」
邪気なさそうに微笑んで見せ、エルシェが言った。ドリューネン侯爵がうなずいたので、彼について宰相室に入ろうとするエルシェに、ヴィルヘルムスは尋ねた。
「私も行くんですか?」
「当然でしょ」
やばい。エルシェの人使いが荒い。いや、元からか。
彼女の教育係であったシルフィアの教えは、『適材適所、使えるものは何でも使え、人事を尽くして天命を待つこと』である。いろいろ混ざっている気がするが、だいたいこんな感じ。
そう言うわけで、エルシェの中でヴィルヘルムスは暫定護衛に選ばれているようだ。正直、大人になったかつての恋人とともにいるのがつらい……というよりもやもやするのだが、それはエルシェにとって関係のないことなのだろう……。そう思うと少しさみしいヴィルヘルムスである。
「こっちに来る途中で、ヴィルにおおざっぱな話は聞いたけど、その三人の娘さんはどういう基準で選んだの?」
そう言えば、候補者を三人に絞った理由は話していなかった。もっとも、ヴィルヘルムスもシルフィアたちからそこまで詳しい話を聞いているわけではない。
「そうですね。お話ししておいた方が良いでしょう。レイヴェン侯爵……シルフィアと話し合って決めたのですが」
まず、親の顔を知らず、一歳前後のころに捨てられていたこと。
二に、年齢が十五歳くらいであること。捨てられていたと言うことであれば、正確な年齢がわからなくても仕方がないので、おおよそである。
三に、明るい青灰色の瞳をしていること。これは、実際にアンドリース大公の子を見た女官が言っていたことだ。アンドリース大公の子は、明るい青灰色の瞳をしていたらしい。
四に、髪の色は淡い色であること。髪の色は、年齢と共に変化しやすいので、今はもっと違う色になっている可能性があった。エルシェによると、彼女もかつてはもっと淡い色のブロンドだったらしいし。
五に、右手首のほくろだ。手首の内側に、ほくろがあること。これについては事前に刺青を行うことで作り出すこともできるが、明らかに刺青とわかるものは事前にシルフィアとドリューネン侯爵が排除している。
最後に、銀の鷹の意匠の指輪だ。三人とも紐を通して首飾りにしているが、エフェリーンもミナもアニカも、同じ意匠の指輪を持っていた。アンドリース大公が、自分の娘を生んだ女性に渡したものだそうだ。
「なるほどねぇ」
大体を聞いたエルシェは確認するように尋ねた。
「当時、わたくしも小さかったからよく覚えていないんだけど、眼の色とか髪の色とか、お兄様……アンドリース大公に聞いたものなの?」
「ええ。副宰相のレイヴェン侯爵と確かに聞きました」
「そう」
エルシェが眼を閉じ、それから開いた。にっこりとドリューネン侯爵に笑いかける。
「わかったわ。どうもありがとう、侯爵」
「いえ。私としても、姫様がお戻りくださり、一安心です」
エルシェは肩をすくめて、「そうだといいんだけど」と苦笑を浮かべた。
「何か分かりましたか、エルシェ様」
「うん。何もわからなかった。さすがはドリューネン侯爵ねー。手持ちの札を巧妙に隠しているわ」
あまり危機感のない声でエルシェはさらりと言った。彼女は廊下を歩く途中でくるりとヴィルヘルムスを振りかえった。彼は驚いて立ち止る。
「ねえ、ヴィルは将軍だからそれなりに忙しいわよね」
「……まあ、四年前に比べれば格段に忙しくはありますが」
「なら、いつまでも護衛を頼むのは悪いわね。あなたか、ファビアンの隊から一人貸してくれない? できれば、四年前、わたくしたちと一緒に戦った人がいいわ。性別も年齢も問わないから」
「……わかりました。ファビアンと相談してみます」
「よろしくね」
ニコリと微笑んで身をひるがえし、歩き出したエルシェにヴィルヘルムスは尋ねた。
「結局、何するんですか?」
エルシェは顔だけヴィルヘルムスの方に向けて言った。
「聞き込み調査!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回の黒幕、シルフィアとドリューネン侯爵(笑)