【10】
夜風が頬をなぜる。高地にあるクラウスヴェイク公都ニーメイエルの夜は涼しい。冬場になれば、当然雪が積もる。
だが、幸いと言うか、今は夏だ。夏の夜は過ごしやすい。高所にあるので星空も美しい。なのに、その満点の空を見上げ、エルシェはため息をついた。
言ってしまった……。ヴィルヘルムスが何も知らないと知っていたのに。ただ、励ましてくれているだけだとわかっていたのに。もう一度ため息をつく。つまりは自己嫌悪だ。
本当に自分が嫌だ。話を聞きに行くと言ってヴィルヘルムスを振り回した挙句、わけのわからないことを言って困らせた。これでは呆れられても不思議ではない。嫌われるかもしれない。……それは嫌だ。
好きな相手に嫌われるのは堪える。未練たっぷりだ。バルコニーの柵に寄りかかり、うなだれた。
……エルシェはヴィルヘルムスが好きだ。たぶん、彼もエルシェが好きなのだと思う。四年前から、二人とも気持ちは変わっていないと言うことだ。
だが、これ以降も気持ちが変わらないとは言い切れない。それに、こんな、全てを捨てて逃げ出した女。思いを告げる資格すらないと思った。
すべてを捨てたと言うことは当時は確かに恋人であったはずのヴィルヘルムスも捨てたと言うことだ。彼がそのことに気付いていなかったとしても、それはエルシェにとっては真実なのだ。
一度捨てたのに、再び取り戻そうなど虫の良い話だ。エルシェはもう一度ため息をついた。
「……未練がましいのよね。ほんとに」
「……エルシェ様?」
つぶやいた途端、背後から名を呼ばれてエルシェは身構えて振り返った。そして、すぐに肩の力を抜く。
「あら、アニカ。眠れないの?」
何事もなかったかのようにそう尋ねる。いつの間にか背後に立っていたのは、連れてこられた三人の娘のうち一人、アニカだった。どこか気弱気な表情のアニカは、心配そうにエルシェを見つめていた。しかし、バルコニーに出てくることはなく、窓の内側からエルシェをじっと見つめていた。エルシェはふっと息をついた。
「変なところを見られたわね。よかったらこちらにいらっしゃい」
エルシェはちょいちょいとアニカを手招きする。彼女は戸惑った様子を見せたが、恐る恐る近寄ってくる。エルシェの隣に並ぶと、空を見上げた。
「……きれいな星……」
「クラウスヴェイクは高地だものね」
エルシェも同じように空を見上げた。星が瞬いている。
「あの、やっぱりあたし、お邪魔じゃ……」
不安げにアニカがエルシェを見上げてきた。エルシェもさほど長身ではないが、アニカはさらに小柄だった。
「ううん、むしろ、ちょっと聞いてくれない?」
「ええっと。あたしで良ければ……」
アニカはこんなところにいた理由を問われると思ったのだ、と後に語った。しかし、エルシェが尋ねたのは全く別のことだった。
「あなたは、六年前のことを覚えている?」
「六年前……ヘンドリック様が公都を制圧したときのことですか?」
「ええ。当時のわたくしは、今のあなたと同じくらいだった……」
エルシェは十四歳だった。父が突然亡くなり、その隙を狙って叔父が公都を制圧した。エルシェと異母兄アンドリースは、次兄ウィレムを犠牲にして落ち延びたのだ。
ヴィルヘルムスとウィレムは同い年だった。同じ意味を持つ名前の同い年の二人。友人同士だった。兄ウィレムにエルシェを託されたヴィルヘルムスは、どんな気持ちで友人を見捨てたのだろう。
「あたし……その時は小さかったのでよく覚えていないんです。父さんと母さん……育ててくれた雑貨屋のご主人夫婦は、あたしに困ったところとか、そう言うところを見せなかったので」
「愛されていたのね」
「そう、だと思います」
アニカが頬を染めて言った。
「ちょ、ちょっとアニカ! 何してるの!?」
振り返ると、今度はミナがそこにいた。この二人は夜中に密会でもしていたのだろうか。エルシェは特に追求せず、これ幸いとばかりに現れたミナも招きよせた。
「い、いや、その、あたしは!」
「……ミナ」
さすがに動揺するミナを、アニカはじっと見つめて名を呼んだ。そのうるんだ瞳にミナが折れた。
「……失礼します」
ミナがぺこりと一礼してバルコニーに出てきた。エルシェは小首を傾げてミナに尋ねる。
「初めて会った時から思っていたのだけど、ミナは礼儀作法がしっかりしているわね」
「……シスターが、そう言うのはしっかりしていた方が世に出た時にいいって言っていたので」
「そうなの」
エルシェは目を細めて微笑み、うなずいた。
「さっきアニカも聞いたけど、ミナは六年前のこと、覚えてる?」
「……かすかに、ですけど。一番覚えているのはひもじかったことと、年上の何人かが、無理やり連れて行かれたことでしょうか」
十代前半くらいの少年たちだろう。おそらく、少年兵に仕立て上げられたのだ。自分が切り捨てた中にもそう言った少年兵はいたのだろうと思う。
「こんなこと、あなたたちに言っていいことじゃないんだけど」
そう前置きしながらも、エルシェは言った。
「時々、自分がしたことが本当に正しかったのかって、思うことがあるの。わたくしが決起したのはあなたたちと同じ年の時。正しい判断をしたかなんてわからない。確かに叔父の政策は悪辣で公都に暮らす人たちは苦しんでいたけど、わたくしが兵を起こしたせいで、多くの血が流れたわ。公都解放は、そうした多くの血が流れた末の出来事なの」
公都では戦が起きなかった。そもそも公都は攻めにくいのである。クラウスヴェイク公都ニーメイエルは天然の要害だ。どう考えても攻める側に不利なのである。
しかし、弱点もある。そうしてヘンドリックが公都を乗っ取ったように、一度内側に入ってしまえば、そのまま城にたどり着ける。エルシェたちも検問を突破し、公都内に入った。そして、少数精鋭で城を奪還したのである。
「だから思うのよ。私が兵を起こさなければ、死なずに済んだ人もいるんじゃないかって」
これを言えば、シルフィアは『それが戦いよ』と言うだろうし、ファビアンは『必要なことだった』と言うだろう。ヴィルヘルムスは『あなたのせいではない』と慰めるだろうか。
では、この少女たちはなんというのだろう。当時の自分ともいえる、この二人は。
「……もちろん、ただの結果論にすぎないわ。公都を解放したことは後悔していないもの」
変な話を聞かせてしまってごめんなさいね、とエルシェは苦笑を浮かべた。自嘲の笑みだった。それを見た途端、ミナは口を開いた。
「言わせていただけば」
「うん?」
「姫様は無責任です!」
「ちょ、ちょっと、ミナ」
アニカが止めようとミナのガウンの袖を引っ張る。しかし、エルシェは手を伸ばしてアニカを止めた。
「いいわ。続けて」
「その。確かに姫様のおかげて、あたしたちの苦しい生活は終わりました。でも、その後、姫様は大公にならずに、違うところにやられた。戻ってきたと思ったら、まだ大公にならない。あたし、姫様が戻ってきたとき、姫様が大公になるものだと思ってました。ねえ」
「あ、えっと、はい」
ミナに促されてアニカもうなずく。アニカは怪しいが、ミナは本当にエルシェが大公になると思っていたのだろう。
「姫様はユドークス大公陛下の御子で、公都を解放した方です。今、あたしたちの中の誰かがアンドリース大公の子供だって言われてますけど、そんなことはどうでもいいんです。あたしは、姫様が大公になるべきだと思います。だって姫様は、一度は公国を背負って戦ったんですから」
少し間を置いてから、ミナは言ってのけた。
「最後まで背負う、責任があると思います」
「……」
エルシェはミナを見つめた。彼女の言うとおりだ。一度、エルシェは確かに公国を背負った。ならば、途中で投げ出すべきではなかったのだ。
「……あなたの言うとおりね。ありがとう」
「い、いえ。御無礼を申し上げてすみません」
ミナががばっと頭を下げる。つられるようにアニカも頭を下げた。エルシェは二人の頭を上からぽんぽんとたたく。
「いいのよ。言えと言ったのはわたくしだもの。無礼なんかじゃないわ」
むしろ、当然のことを言っただけだ。
「二人とも、中に入りましょうか。さすがに冷えるわ。それと、仲がいいのはいいことだけど、夜中に出歩いては怪しまれるわ。今後は控えなさいね」
「……はい」
しゅんとして二人はうなずいた。同じ公都で暮らしていた、同い年の少女だ。面識があっても不思議ではない。
エルシェは二人の背中を押して中に入ると、バルコニーへの窓をゆっくりと閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
だいたいあと三話くらいです。