【1】
新連載です。タイトル詐欺で、ゆるーくいこうと思います。
広大な草原が広がっている。いや、正確には草原ではなく、麦畑だ。これほど広大な耕作地にするまでに、三年の月日を費やした。
「領主様!」
馬の上から麦畑を見回っていた彼女は呼びかけられてそちらを見た。騎馬が二騎近づいてくる。彼女は再び視線を麦畑の方に向けた。
「領主様。公都からハーレン将軍がいらっしゃいました」
領主と呼ばれた彼女は小さく笑うと馬ごとその身をやってきた二人に向けた。
「あなたも将軍と呼ばれるようになったのね。なんだかおかしいわ」
そう言って本当に笑うと、彼女は目を細めて微笑んだ。
「久しぶりね、ヴィル」
愛称を呼ばれたハーレン将軍は、馬上で静かに一礼した。
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クラウスヴェイク公国は、帝国を構成する領邦国家の一つである。北部を山脈、南を平原で構成する、比較的温かい気候の国である。標高は高めで、夏でも涼しい。冬は雪が降るが、さほど積もらず、暮らすに良い国である。
クラウスヴェイク公国は、公国と言うだけあって大公が治める国である。この大公は帝国の皇帝を選出する選帝侯の役割も担っており、それなりに重要な地位なのである。
そもそも、クラウスヴェイク公国は、帝国に含まれない諸外国との国境に接した国なのである。重要と言わざるを得ないだろう。
さて。現在の大公であるが、実は公国を評しながらクラウスヴェイクは前代未聞の大公不在状態が三か月ほど続いている。先の大公、アンドリース・ファン・デル・クラウスヴェイクには後継ぎがいなかったのだ。
アンドリース大公の前の大公は、アンドリース大公の父、ユドークス・ファン・デル・クラウスヴェイクである。彼には三人の子供がいて、アンドリース大公が長男、次男ウィレムはすでに死去、長女で末っ子エルシェは国境に接したファルケンフット地方で領主をしていた。
アンドリースの後継ぎがいないのであれば、その地位は妹のエルシェに回ってくる。エルシェは現在二十歳。年若い女大公となるが、国民は彼女が大公になることを願っているだろう。
ファルケンフットの領主館は簡素な作りの館だった。簡素と言っても、装飾がほとんどないだけで広さはそれなりにある。領主館に招かれたヴィルヘルムス・ファン・ハーレンは前大公の妹にして前々大公の公女が住む館とは思えぬ簡素さに思わず目を細めた。
「何してるの? 入っていいわよ」
入り口で立ち止まったヴィルヘルムスを呼んだのはこの館の主であり、ファルケンフット地方の領主、そして、今回ヴィルヘルムスが尋ねてきた相手、エルシェ・ファン・デル・ファルケンフットである。本名はエルシェ・ファン・デル・クラウスヴェイクなのだが、現在の彼女はファルケンフットで通していた。
エルシェはヴィルヘルムスの記憶に違わぬ屈託のない笑みを浮かべて「着替えてくるからちょっと待ってね」と言って館の奥に入って行った。ヴィルヘルムスは先ほど彼女の元まで案内してくれた従僕に案内され、客間に通された。
「すぐに領主様がいらっしゃいますので、しばらくお待ちください」
従僕はそう言ってさがり、代わりにメイドがお茶を出しに来た。それを飲みながらしばらく待っていると、確かにすぐに来た。女性の身支度は時間がかかるものと思っていたが、エルシェはそうでもないらしい。
「待たせてごめんなさいね、ハーレン将軍」
「それほど待っていません。それに、昔のようにヴィルと呼んでいただいて呼んでくだされば幸いです、姫」
「ではお言葉に甘えて。ではわたくしのことも姫ではなく、領主、もしくはエルシェと呼んでちょうだい」
昔と変わらぬ笑みで穏やかに言われ、ヴィルヘルムスは戸惑った。いや、実際は同じではない。四年前、わかれた時より大人びて、美しくなったその顔。ダークブロンドの髪は簡単にハーフアップにされているだけだが、それでも彼女の美しさを損なわない。ヘイゼルの瞳も穏やかに知性を醸し出していて、見る角度によっては緑にも見えた。
そして、わかれたときはまだ残っていた幼さが完全に消えており、どこからどう見ても大人の女性だ。しかも、絶世級の。それらもあり、ヴィルヘルムスは戸惑ったのだ。
「……では、エルシェ様と」
「ええ」
エルシェが嬉しそうに微笑んでうなずいた。彼女もソファに腰かけ、目の前に出された茶を一口飲んだ。
「さて。用件をうかがおうかしら。まあ、何となく察しはつくけれど」
ニコリと笑うエルシェ。何となく緊張を覚えながら、ヴィルヘルムスは言った。
「エルシェ様。公都に戻ってはいただけませんか」
「嫌よ」
即答だった。しかし、ヴィルヘルムスを送り出した人物は、それも想定済みであった。
「エルシェ様も、クラウスヴェイク公国の現状はご存知ですよね。この三か月間、大公位は空位です」
「わかってるわ。だから、わたくしに大公になれって? わたくしは四年前、このファルケンフットに追放されたのよ」
そして、いつでも戻ってこられたはずなのに、そうしなかった。彼女ははじめから戻ってくるつもりがなかったと言うことである。それもわかっている。
「ですが、今の公国にはエルシェ様のお力が必要です」
「ありきたりな言葉ね。なんと言われようと、わたくしは大公になんてなりたくないから」
「いえ、そうではありません」
ヴィルヘルムスの言葉に、エルシェは「どういうこと?」と首をかしげた。さすがの彼女も、ここ最近の公都の出来事には疎いようだ。
「エルシェ様は、先の大公閣下……アンドリース大公のご遺言をご存知ですか?」
「遺言? ああ……あれね。市井にいる自分の娘を宮殿にあげ、公女として遇せよってやつね」
さすがにそれは知っていたようだ。ヴィルヘルムスは「そうです」とうなずいた。
これには問題があった。まあ、市井と言う時点で正妻の子ではなく、アンドリース大公がまだ若いころ、市井の女と関係を持って生まれた子のことである。
アンドリース大公には正式な妻が二人いた。一人目の妻は彼が十六歳のころに娶った年上の女で、クラウスヴェイクと同じく帝国を形成する諸国の一つである国の貴族の娘だった。若いアンドリースはこの妻が恐ろしかったらしい。
この一人目の妻は、自分が子に恵まれないのに他の女がアンドリースの子を身ごもったことに嫉妬し、宮殿に上がっていたその女と、生まれたばかりの娘を追い出してしまったのだ。
一人目の妻の怒りに恐れをなしたアンドリースは自分の子とこの母親の行方を探すこともできなかった。ただ、母親の方が亡くなり、子供の方は孤児院に入れられたとだいぶたってから聞かされたらしい。
このアンドリースの一人目の妻は亡くなり、アンドリースが大公となった後に娶った妻は、今も健在である。ちなみに。
それで、話を戻す。このアンドリースが大公になる前に設けた娘はどこかで生きているはずだ、ということである。とりあえず、わかっている条件にあてはまる娘を集めてはみたのだが……。
「どうも決定打に欠けるようなのです」
と、ヴィルヘルムス。エルシェは目をしばたたかせた。
「むしろわたくしは、そんなバカげた遺言を実行したことの方が驚きだわ」
さすがにエルシェは舌鋒が鋭い。彼女を説得するのは至難の技だろう。しかし、この人は公国の未来にどうしても必要な人なのだ。どうあっても連れ帰らなければ。
「シルフィアが、アンドリース大公が亡くなった以上、後継ぎは必要だと」
「……らしくないことをするわね、シルフィアも」
エルシェが顔をしかめたが、その『らしくない』ことも、大公の後継ぎがいない、ということがうまく目くらましになったようだ。この辺りも、ヴィルヘルムスを送り出した人物の思惑通りである。遠く離れているのに、あの人の掌の上かと思うとちょっと怖い気もする。
「一応三人まではしぼりこめているのです。あとはエルシェ様の知恵も拝借したいと、シルフィアが」
「彼女があなたを差し向けたのね? わかってはいたけど……彼女がいれば、大公がいなくてもこの国は回るでしょうに」
と、ヴィルヘルムスを差し向けた人物……つまり、シルフィアを信頼しているのか単に面倒くさいだけなのか判断に困るセリフを吐くエルシェである。ヴィルヘルムスは苦笑を浮かべ、相変わらずな彼女に言った。
「エルシェ様は、相変わらず無欲でいらっしゃる。ですが、いつまでも大公不在というわけにはいかないでしょう」
「まあ……そうね」
エルシェは肩をすくめて同意を示した。ゆっくりとティーカップを傾ける彼女を眺めながら、ヴィルヘルムスも考えた。
クラウスヴェイク公国は、帝国を形成する国家の一つ。そして、クラウスヴェイク大公は帝国皇帝を選ぶ資格を持つ、選帝侯の役割を担っている。帝国広と言えど七人しかいない選帝侯だ。一人でも欠かすわけにはいかない。今、書けているが……。
というわけで、選帝侯でもあるクラウスヴェイク大公はどうしても必要なのだ。そして、ヴィルヘルムスや彼を派遣したシルフィアはエルシェならば十分勤まると考えている。しかし、当の彼女は簡単にはうなずかないだろう。
「つまり、アンドリース兄上の子に、大公位を継がせようと言うこと? そのために、三人の中から一人の大公の娘を探そうと言うわけなのね」
エルシェは呆れたような口調で言った。呆れるのなら、自分が大公になればいいのに、と思わないでもないヴィルヘルムスである。
「でもそれって、わたくしが公都にまで行く必要はないわよね? その三人の娘をファルケンフットに連れてくればいいんだもの」
確かに。しかし、その返答もシルフィアは想定済みであった。ヴィルヘルムスは微笑んだままうなずいた。
「確かにそうです。ですが、そうなるとシルフィアも公都を空けることになります。公都を空にするわけにはいかないでしょう?」
「それはそうだけど。ファルケンフットも隣国との国境よ? 空にはできないでしょ」
ファルケンフットはエルシェが農地改革を来ない、富んだ耕作地へと変貌している。食料を欲した他国が攻め込んでこないとも限らない。
「ですが、むやみに戦争など起こせば、皇帝が黙っていないでしょう」
他国が攻め込んでくるかもしれない。しかし、その可能性はかなり低い。ファルケンフットが接する国はクラウスヴェイクよりも広く、わざわざ他国に攻め込む必要性がないからだ。シルフィアはそこまでわかっていて、エルシェに公都に来い、と言っているのである。
「……やっぱりシルフィアの方が上手ね。だから嫌なのよ」
とエルシェはため息をついた。ヴィルヘルムスが身を乗り出す。
「それは、公都に来ていただけると言うことでよろしいですか?」
「仕方がないわ。ここらでいっておかないと、シルフィアはどこまででも追いかけてくるでしょ」
色よい返事に、ヴィルヘルムスはガッツポーズをしかけたが、さすがに耐えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヴィルはエルシェのお迎えです。