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第三章 夏泉の作戦(2)

カニ鍋の一件から数日後、課題を無事提出し終えた龍時の所へ夏泉は当たり前のように現れた。ただ、龍時はそれをいつも通りだと感じながら、暇になった時間を使って小説の続きを書くことを考えていた。


しかし、その日の夏泉はいつもの夏泉とは少し違っていた。それは夏泉の服装や表情から、龍時でも簡単に読み取ることが出来るほどだった。


「どうした?何かあったのか?」


龍時は夏泉の見た目に少し驚きながら質問する。夏泉の雰囲気がいつもと違うということに気付くことが出来ても、その理由まで龍時は理解することが出来なかったのだ。


「今日、時間ある?」


「……あるけど、一体どうしたんだ?怖い顔になってる」


普通ならば温厚で優しく、何よりも可愛い顔つきの夏泉の顔であるが、今日は鋭く龍時のことを見据えている。龍時はまた自分が何かをしてしまったのかと心配になり始めた。


しかし、龍時の心配は全く無用なものだった。


「一緒に出かけて欲しい場所があるの」


「……またモールか?それとも映画館?あいにく金がなくて……」


「来てくれる?それともダメ?」


龍時が形式的に返答すると、意外なことに夏泉はしっかりとした答えを望んできた。龍時がそんなことを言うと、いつもなら頬を膨らませていじけだす夏泉だったが、今日の夏泉はそんなことをせずに龍時の知らない夏泉を見せる。龍時はそんな目の前の光景に硬直した。


「もう一回聞くね。嫌だったらいいの。今日、私と一緒に出かけてくれない?」


「……いいよ」


結局、龍時は了承の言葉を口にするしかなかった。夏泉の様子がおかしい理由が自分にあった場合、この場で拒否してしまうと眞銀にまた何かを言われる可能性があったのだ。


「……じゃあ支度して?」


「分かった。すぐにする」


龍時はそう答えると、今までの自分では考えられないくらいテキパキと準備を行った。何故かその時は、夏泉を待たせてはいけないと龍時は感じたのだ。


夏泉が主導権を握って龍時に指示することなど、龍時が覚えている限りなかったことである。イレギュラーな状況に龍時は完全に流されていた。


龍時が準備を終えると、二人はそのまま龍時の部屋を出る。そして夏泉が先導する形で駅まで向かった。


「……ところでどこへ?」


龍時は駅の券売機の前で、素朴な疑問を夏泉に投げかける。万が一莫大な費用がかかる場所であれば、龍時は食事さえ出来ない生活を送ることになる可能性もあったのだ。


「大丈夫。お金はかからないわ。交通費くらいかな」


夏泉は龍時の心配事を察してそう答えると、一人切符を購入する。券売機の前まで来ても夏泉は目的地さえ教えてくれない。龍時は恐怖心を少し抱きつつ、夏泉が購入したものと同じ金額の切符を購入して夏泉についていった。


電車には特急列車で数十分、そこから乗り換えて普通電車で二駅乗ることになった。目的地は龍時らが住む街の二つ隣の市。ただ、龍時はこの場所に来たことはおろか名前を聞いたことさえない。


龍時は大学に入ってからこの土地に移り住んできた人間である。そのため、到着したその場所も龍時は知らなかった。


「……田舎」


龍時は駅を出て一言感想を述べる。龍時の目の前には綺麗な田園風景が広がっていた。


「ここから少し歩くの。ついてきて」


夏泉は周囲の風景に目もくれず、一人足早に歩いていく。龍時は恐怖により、ついには笑みを漏らすことになった。


身近な人間がここまで変貌して何を考えているのか分からなくなると、堪え難いほどの恐怖心が襲ってくる。龍時はそれを身に染みて感じることになったのだ。


「……ここを行くわ。もうすぐだから」


夏泉は一つの山道に躊躇うことなく入っていくと、そのまま山を登り始める。龍時にはもうそれについていく以外に道はなかった。


山はそこまで標高のあるものではなく、最近雪が降っていなかったこともあって禿山となっていた。ただ、そんな景色が龍時に圧力をかけていたことは言うまでもない。


山道に入ってから十数分。龍時らは少し開けた場所に出た。そして龍時は同時に、ある一箇所に視線が釘付けとなった。


「ここを渡りたいの。でも一人じゃ怖いから」


夏泉はそう言って目の前の吊り橋を指差してみる。ただ、龍時にとって夏泉の言葉など耳に入ってこなかった。


目の前の吊り橋は長さはそんなにはなく、また高さもそこまで高いわけではない。しかし、風に振られて軋む音を出しながら揺れているその吊り橋は、まるでどこかのアトラクションのようだった。


「……これを渡るのか?」


「そう。一緒に渡って欲しいの」


「いやいやいや、見てみろすごい揺れてるぞ。今日は風が強い」


龍時はそう言って考え直すことを提案する。しかし、夏泉はそんな龍時の言葉に耳を貸すことはなかった。


「……怖いの?」


「怖いというか危ない。何かあった時笑い話にならないだろう」


龍時はそう指摘して、もう一度吊り橋を観察する。吊り橋は鉄線や鉄板で作られていて、朽ちている様子はない。普通であれば通行することに問題はないようだった。


しかし、誰が見ても通ることは望ましくないと分かるほど、今の吊り橋は暴れていた。


「ここを通りたいの」


「……そう言ってもな。向こう側に行きたい場所があるのか?」


夏泉が谷を挟んで向こう側に行きたいのであれば、龍時は遠回りをしてでも違う道を勧めようとしていた。しかし、夏泉は龍時の問いかけに首を横に振った。そして、龍時の指摘を受け付けないうちに、夏泉は龍時の手を引いて吊り橋へと歩き始めた。


龍時はそんな今の夏泉の様子に何も考えられなくなる。ただ間違いなく言えることは、龍時には何も心当たりがないことだった。夏泉の行動は、龍時では全く理解出来ない不思議なものだったのだ。


龍時が思考を取り戻した時、二人は吊り橋に足を踏み入れようとしていた。目の前で見ると、吊り橋は余計に揺れているように見える。ただ、龍時も覚悟することにした。


「胆力をつけるためにこんなことをするのか知らないが、立ち止まらずに渡りきる。これを徹底しよう」


龍時は夏泉にそう言って、自らの心の準備を済ませる。この吊り橋をどこが管理しているのか分からなかったものの、立ち入り禁止の標識がないということは安全面に問題がないということを意味しているはずである。龍時は勝手にそう解釈して足を動かした。


今や龍時は夏泉の願い入れだから話を聞いているのではなく、自分の今抱く恐怖心を克服するために吊り橋に向かっていた。


夏泉が龍時の手首を掴んでいることだけが、二人を同じ方向に進ませている。ふと龍時が夏泉の顔を見やると、その顔は小さく笑っているように見えた。


「……こういうのはダラダラと行くのはダメだ。普段の歩行スピードを保つ」


吊り橋を渡り始めた瞬間、龍時は自分にそう言い聞かせ、夏泉が手首を握っていることも忘れて一人足早に動き始める。夏泉もそれについてきてはいた。


吊り橋は中央部分が最も揺れる。そこさえ通り過ぎれば問題ないと龍時は思っていた。


ただ、夏泉は違っていた。


「きゃっ……!」


夏泉が龍時をこの吊り橋に連れてきていたのには理由があった。しかし、夏泉は吊り橋の下見を全く行っていない。つまり、こんなにも揺れていることは夏泉にとって大誤算だった。


天候が影響していることも、もちろん考えられることではある。しかし、言い始めた夏泉がここでリタイアするわけにはいかない。夏泉は内心恐怖に怯えていることを必死に隠して、平静を保って龍時についていった。


しかし、無理をして作っている見かけの仮面はすぐに外れるものである。吊り橋の中央に近づくにつれて、夏泉は本心を抑えられなくなっていった。


「…………」


龍時は無心で歩いていた途中、夏泉が目をきつく瞑って歩いていたことに気付く。そんな夏泉を見た龍時は、足を止めてその場に立ち止まった。


「怖いならこんなところ通らなければいいのに」


龍時は夏泉の不可思議な行動を責め、夏泉自身の責任であることを伝える。しかし、夏泉は返答をしなかった。


「……戻ろうか?」


龍時にとってこの吊り橋には何の用事もない。夏泉のお願いに付き合っている龍時だが、当人である夏泉がこの様子では、無理にこの吊り橋を渡りきることに意味はなかった。


しかし、夏泉はそんな龍時の提案にさえ答えることは出来なかった。そのため、龍時は来た道を引き返そうとする。


「待って!……ここまで来たから最後まで」


龍時の動きを感じると、夏泉は握っていた龍時の手首を引っ張った。そして、夏泉はしっかりと目を開けて龍時に自分の意思を伝える。ただ、恐怖から夏泉は龍時の手を離すことをしなかった。今までに見たことがない程、夏泉の表情は恐怖に歪んでいる。


「夏泉がここまで無理をする理由は分からない。俺には無駄なことにしか思えないけど……」


「渡り終えれば分かるから、ね?」


「………」


龍時は夏泉の懇願する姿を見て、次第に自分が悪者であるかのような錯覚に陥っていく。ダメだとは言えなかった。


「じゃ、さっさと済ませよう」


龍時はそう言って再び吊り橋を渡りきる方向に身体を回す。同時に、足がすくんでいる夏泉の腕に自分の腕をきつく絡ませて、龍時は再び歩くことを始めた。


吊り橋は中央部分が最も揺れ、一時的な突風に煽られた時は立ち止まることを余儀なくされる。しかし、龍時はそれでも落ち着いた時を見計らい、夏泉のペースに合わせて無事に吊り橋の反対側に到着した。


龍時も初めは恐怖心が先行していた。しかし、慣れればどうということはなく、最後には地面に降り立った時の方が違和感があった。


しかし、夏泉は渡り終えた瞬間、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。龍時の腕が絡んだままだったため、龍時も合わせて夏泉の隣に腰を下ろす。


「……怖かったんだろ?だからやめとけばよかったんだ」


夏泉の顔は赤く火照っており、龍時はそれが恐怖によって紅潮したものだと思ってそう声をかける。夏泉は深呼吸を行い、落ち着きを取り戻そうとしていた。しかし、龍時が心配になって夏泉の顔を覗き込むと、夏泉は再び息を詰まらせつつ顔を背けた。


「まあ無理もない。俺も怖かったからな」


龍時は夏泉の今の姿をフォローする。自分から渡りたいと言った夏泉であったが、へたり込んでしまうのも無理はなかったのだ。


「……ごめんなさい」


夏泉は弱々しく呟く。それは強引な要求を龍時が飲んでくれたことだけではなく、吊り橋の上で助けられたことも含めての言葉だった。


「いや、でも面白かったのも事実だ。楽しかったよ」


龍時は特に夏泉に配慮して言ったわけではない。しかし、夏泉はその言葉に心臓を高鳴らせて、興奮のあまり再び口を閉ざした。


夏泉の計画していた通りに状況は進んでいない。結果から言ってしまえば、夏泉の作戦は失敗であった。


それでも、夏泉は今日の出来事に非常に満足していた。龍時の想いを引き寄せることは出来ずとも、自分の気持ちをしっかりと確認することは出来たのだ。


「……もう心残りはない?」


龍時は、いまだ夏泉がこの場所に龍時を連れてきた本当の理由を知らない。そのため、夏泉が満足したのかを尋ねた。


夏泉はそれに対して頷いて返す。龍時は夏泉の返事を見てから、夏泉のそばを離れて携帯端末を取り出す。夏泉は心の奥底で引き留めることも考えたが、龍時がまだ気付いていないことを理由にそれは諦めた。


龍時は吊り橋を渡り終えたこの場所から、どのように帰ることが出来るのかを調べる。再び吊り橋を渡れば道は分かるものの、龍時にそんなことをするつもりはなかった。


しばらくして龍時が帰路を見つけると、龍時はいつもと変わらない様子で夏泉に接してそのまま家路についた。夏泉は悔しく思わざるを得なかったが、関係がこじれて悪い方向にいかなかっただけマシだと考えることにした。


ただ同時に、夏泉は違う作戦が必要であると強く認識することになった。

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