第二章 壁と罪(2)
夏泉があれまで感情を剥き出しにしたことは今までになかった。龍時はそう思うと、先程の夏泉に面白みを感じた。感情とは時に理解しがたいものであるのだ。
ただ、龍時はそう簡単に言っていられる場合ではなかった。龍時自身に非があったのか別にして、人間は普通理由なく怒ることはないのだ。
龍時は帰路の間、ずっとそんなことを考え続けた。しかし、結果はいつもの通りであった。
アパートに到着して、かじかんだ手で何とか部屋の鍵を取り出すと、龍時は何度か失敗しながらその鍵を鍵穴に差し込む。そんな時、突然隣の部屋の扉が開いた。
「もう帰ってきたのかい?……夏泉はどうした?一緒だったんだろう?」
「……そうなんだが、何か怒って帰っていった。まあ外は寒いし、風邪を引く前に良かったのかもしれない」
龍時は勝手に、夏泉の理解しがたい行動を自己解釈する。しかし、それを聞いた眞銀は目を細めて龍時を睨んだ。
「何があったのか説明して」
「……何故?」
「しないつもりかい!?」
龍時が寒さから早く部屋に戻ろうとする。すると、眞銀が語気を強めて龍時に問い詰めた。龍時はまさか眞銀まで怒り出すとは思ってもいなかったため、呆然とするしかない。
結果、龍時は先程のことを眞銀に細やかに説明することになった。
「……龍時、君は大馬鹿者だね。百歩譲ってそんな喧嘩をしただけならまだいい。ただ、少しも悪びれないとは呆れてしまう」
「……やっぱり俺が悪かったのか?」
「当然じゃないか!今日の君はいつも以上に飛び抜けてデリカシーがないね!」
「そうだったのか?」
龍時は眞銀から叱責を受けて、自分に非があったことを知る。ただ、龍時はまだ具体的に理解していない。
「まさかどうして夏泉か怒ったのか分からない、なんて言うんじゃないだろうね」
「……分からない。ただ理解するつもりはある。そこまで俺も落ちぶれていないはずだ」
龍時はそう言って、問題の解決に意欲があることを見せつける。夏泉ほど情報を提供してもらえる読者はいない。そんな夏泉を怒らせたままにすることは、決して良いことではないと龍時は思ったのだ。
ただ、そんな龍時の考えを薄々察した眞銀は呆れるしかなかった。
「龍時がしでかしたことは君にとっては些細なことかもしれない。でもね、夏泉にとっては非常に深刻なことだったんだ。例えるなら、一ヶ月かかって作った報告書を提出前日に紛失してしまうくらいだ」
「……それは、問題だ」
「ただ報告書は作り直せば遅れても完成する。けれども、夏泉が抱えたものはそんなに簡単なものじゃない」
「……しかし分からないのは、眞銀は夏泉のことを理解出来ているのに、俺には出来ていないことだ」
龍時はそう言って真剣に考え込む。龍時はこれも感情が関係しているのかもしれないと思った。
すると、眞銀はそんな龍時の考えに言い返した。
「馬鹿なことを言わないでくれ。こっちとしてはどうして分からないのかが不思議なくらいなんだ」
「……じゃあそれを教えてくれ。変な例えよりもその方が分かりやすい」
龍時は眞銀の言葉を聞いて、それならばと提案してみる。これが手っ取り早い解決方法であると龍時は思ったのだ。
「……本当にどうしようもないね。私が言ってしまっては何の解決にもならないじゃないか」
「そうなのか?」
「自分でしっかり考えてみることだね。それで理由が分かったら夏泉に謝罪するといい。理由も分からないまま謝ったりしたら、そんな時は容赦しないから覚悟しておくことだ」
眞銀は最後に龍時に助言とも取れる言葉を残し、そのまま自分の部屋に戻っていこうとする。
「待ってくれ。俺には分かりそうも……」
「しっかり頑張れ」
眞銀は非情にも部屋に入っていき扉の鍵をかける。龍時はそんな眞銀の様子に、これ以上の手助けは望めそうもないと感じた。
二人が立っていたところだけ地面の雪が剥がされており、無機質なコンクリートか顔を出している。龍時が何気なく周囲の雪を集めてくると、そのコンクリートはすぐに顔を隠した。
今までの人生で最も難解な問題にぶつかっていると、龍時は感じる。しかしそうであるからこそ、龍時には今回の問題を解決することが重要なことのように思われた。
身体は再び冷え切っており、わざわざ家を出てラーメンを食べに行った意味がなくなっている。しかし、龍時はその寒さに耐えながら、夏泉との問題解決に努めることにした。
最初、龍時は自分の頭だけで答えを導こうとした。ただその結果、夏泉が怒った理由として考えられたことは、舌に合わないラーメンを龍時が食べさせてしまったということ程度だった。
しかしそれが理由だとするなら、ラーメンを食べていない眞銀が理解出来るはずがない。つまり、これは理由ではなかった。
こうして龍時の思考は一度止まる。ただ間髪を入れることなく、次に龍時はネットから答えを得ようとした。
パソコンを起動して、龍時は自分と同じような体験をしたと思われる人間を探す。すると、龍時は同じような状況に陥った人の言葉をすぐに見つけることが出来た。
これによって龍時は全てを理解した。
クリスマスという日は交際している人間にとって特別な日である。恋人たちにとってこの日が特別な意味を持っていることを、龍時は苦労することなく理解した。
龍時と夏泉がそのような関係にないことは、龍時だけでなく夏泉も理解しているはずである。しかしながら、夏泉が龍時に感情というものを理解させるために、この日を選んで龍時を外に連れ出そうとしていたのだと考えると、辻褄は自然と合っていくように龍時は感じた。
ここで龍時は自らの行動を思い返してみる。するとそこには、夏泉の善意を踏みにじって拒絶する龍時がいた。夏泉が怒ってしまう理由として十分過ぎる過去が、そこにはあった。
龍時はこうして自分が見つけ出した理由をさも正解であるかのように考えると、このことを踏まえた上で夏泉への謝罪文を作り始めた。
龍時はこれまでの人生で、反省文や謝罪文を書くような経験はしていない。それでも、これが必要なことだと龍時は確信していた。
一時間程かけて作り上げた夏泉に対する謝罪文は、龍時が今まで作ってきた文章の中で最も推敲を行ったものになった。
ただ、龍時はこれを作り上げてから、どのようにしてこれを夏泉に届けるかを迷った。龍時は夏泉が今どこにいるのか分からず、夏泉の自宅の場所さえ知らないのだ。
次回出会う時に渡せば良いというものでもない。龍時の考え通り、今日という日が関係してきているのであれば、この日の内に謝罪文を夏泉に届ける必要があったのだ。
電話で夏泉を呼び出して渡すという方法も、最悪の方法としては残っている。しかし、夏泉を目の前に連れてくるのであれば、必然的に龍時は口頭で謝罪をすることになる。それは龍時には出来そうにないことであったため、龍時にとって取りたくない方法ではあった。
その結果、龍時はこの謝罪文をメールに添付して送りつけることにした。これが龍時自身の中でも折り合いがついた、最も良い方法であったのだ。
夏泉が怒った理由として考えられる理由を見つけた龍時ではあったが、自分に全ての非があるとは思っていない。そのため、夏泉に龍時の考えを示すためにもこの方法をとることにしたのだった。
他の人間の感情など、龍時には関係のないことである。しかし、自分のせいで他人が気分を悪くしたのであれば、同時に龍時にも嫌なものが残ってしまうことは否めない。
送信が完了すると、龍時の顔には勝手に笑みが浮かんでいた。