第一章 出会い(1)
夏の蒸し暑い空気の中、龍時は部屋に鳴り響くインターホンの音で目を覚ました。ただ、龍時はいつものことだとそれを無視して、真っ暗なパソコンを静かに眺めつつ寝起きを過ごした。しばらくすると、玄関の扉がゆっくりと開く音が響いてくる。
「やっぱり開けっ放しだった。玄関の鍵くらい家に帰ったときにかけたらどうかな?」
一人の声が玄関から聞こえたかと思えば、足音が龍時に近づいてくる。龍時は重い上半身を持ち上げ、パソコンのディスプレイ越しに訪問者を確認した。
「生野みたいな奴がいるから鍵が必要になるんだ。俺が出るまで玄関前で待ってろよ」
「出てこないじゃないか。今日もどうせ、物語を書いてて寝落ちたんじゃないのかい?」
龍時は図星を突かれて黙り込む。寝起きの頭では言い合いには勝てないと理解していたのだ。
生野眞銀は、龍時と同じアパートの隣室に住んでいる同年齢の大学生である。それに加えて、龍時と眞銀は同じ大学に通っていることから、ある程度の関係を持っていた。ただ、二人の学部は龍時が工学部、眞銀は文学部と違っており、共通の話題があるというわけではない。
「あれから掃除はしたのかい?すぐに散らかるな、龍時の部屋は」
眞銀はまるで龍時の母親であるかのように部屋の中を簡単に片付け始める。龍時はそんな眞銀を横目に身支度を始めた。これからは二人共大学に行かねばならず、特に龍時は時間的に余裕がなかったのだ。
「またほら人の前で着替えようとする!龍時にはマナーも欠けているのかい!?」
眞銀は声では驚いてみせるが、実際には顔を背けながらなおも片付けを続ける。
「ここは俺の部屋だ。嫌なら出て行け」
眞銀は色々と龍時の身の回りの世話をするが、龍時は別にそれを望んではいない。自分がしないで済むという理由から黙認してはいたが、部屋の中での行動を制限される筋合いはないと龍時は思っていた。
「わかったわかった。ちゃんと遅れないように」
眞銀は龍時の言葉を受けて、素直に玄関へと向かう。そしてそのまま一人で出て行った。龍時はその音を聞いてから溜息をつくと、パソコンをシャットダウンする。
眞銀は龍時の世話をよくしており龍時もそれを認めているが、二人に交際をしているという事実はない。ただ通う大学が同じで部屋が隣という偶然と、眞銀がお節介な性分であることからこのような奇妙な生活が送られていた。
本当は龍時に眞銀と付き合いを持つつもりは全くなかった。ただ、龍時が同じ大学に通っていることを眞銀が知ったために、眞銀の方からよく接触があっただけで、龍時が何をするでもなく人間関係は成立していた。
そして、龍時がそんな事実に不思議な感覚を持つことはなかった。
龍時は着替えを済ませるとすぐに洗面所に向かう。顔を濡らして洗顔フォームを手に取ると、そのまま寝ぼけた顔を洗い始めた。その時、再び龍時の部屋の玄関が音を鳴らして開く。
「そうだそうだ忘れていたよ。龍時に言っておかないといけないことがあったんだ」
玄関から響いてきた声は先程と同じ眞銀のもので、龍時は何事かと泡を洗い流すこともせずに洗面所から顔を出した。
「……なんだ?」
「実は龍時に紹介したい人がいる。今日の夜は空いてるかい?」
眞銀の質問に龍時は少し考える。そしてバイトが今日に限ってないことを確認すると、眞銀に対して首を縦に振った。その時、泡の一部が床に垂れる。
「そうかそれなら良かった。……では午後六時くらいこの部屋で待っていてくれ」
「ちょっと待て」
眞銀は確認が済んだと同時に玄関前から去ろうとする。しかし、龍時はそんな眞銀を引き止めた。泡を急いで洗い流した龍時は、眉間にしわを寄せた状態で眞銀に詰め寄る。
「まさかまたあの辺なサークルの人間じゃないだろうな?」
龍時は過去の失敗を学んで先にそう質問する。すると眞銀はその時を思い出したようで吹き出した。
「そうかそうか、龍時はコミュニケーション同好会にトラウマがあったのか。確かにあの時は面白かった」
コミュニケーション同好会とは、龍時らが通う大学に存在する同好会である。その活動内容は、コミュニケーションを得意としない人間が集まって傷を舐め合うというもの。
龍時も感情の薄さからコミュニケーションが苦手だと勝手に推測され、性格の変わった人間たちに仲間意識を持たれたあげく大変な目に遭っていた。そのことを思い出しただけで、龍時の顔は歪む。
「それでどうなんだ?違うのか?それともあいつらなのか?」
龍時は語気を強めて尋ねる。すると眞銀は安心させるように首を横に振った。
「今回の相手はコミュニケーション同好会とは関係ない。……まあコミュニケーション同好会の講師として呼ぼうか迷っていた人なんだけどね」
眞銀はそう言って紹介したい人間がコミュニケーション同好会と関係ないことを説明する。しかし、眞銀には前科があることから、龍時はそれをすぐには信じなかった。
「……怪しいな。やっぱりダメだ。嫌な予感しかしない」
龍時は危ない橋を渡ることはないと考えて、紹介を断る意向を示した。龍時は問題外だと手を横に降ると、鞄に今日の用意を始める。
「そう言わないでほしい。今回の相手は暑苦しい男じゃなく可愛い女の子だ。……どうだ?興味が湧くだろう?」
眞銀はそう言ってすぐ龍時の反応を観察する。しかし、その言葉にも怪しさが溢れていたことから、龍時は耳を貸さないことにした。
眞銀はかなりの美人というわけではないものの、ある程度のルックスを持っていると大学では人気のある人間である。龍時に時々夕飯を振る舞ったりするような性格もあることから、眞銀はよくモテると龍時は聞いたことがあった。
そんな人間が可愛いなどと評価したところで、その言葉に信憑性があるようには思えない。女とは大抵腹黒く、自分より劣っているような相手に対して、あえて褒める言葉を使って貶す。龍時はそんな様子を何度も見たことがあったのだ。
「ダメだダメだ。今日は忙しいことになった」
龍時は全ての用意を整えると、最後に給湯器の電源が消えていることと、部屋の電気が消えてあることを確認する。確認が取れると龍時は眞銀がいる玄関に向かった。
「相手が悲しんでしまう。会うだけでいいんだ」
「俺とその人に何の関係がある?俺はあまり知らない人間と関わりたくないんだ。特にあの同好会のような人間にはな」
龍時は眞銀を玄関前の通路に押し出すと、ボロい扉をゆっくりと閉めて鍵をかける。朝食を抜いた分時間に余裕ができ、龍時は一つ息を吐いた。
「本当に彼らとは違う人なんだ。……龍時のことを知りたがっている」
「だからそいつはどうして俺を知っているんだ?俺は新しく誰かと話した記憶もなければ、約束をした記憶もない」
龍時は少し面倒に思いながら、しかし顔にそれを出すことなくアパートの外階段を下りていく。眞銀は龍時のすぐ後ろについてきて説得を続けた。
「実は彼女、龍時がネットに上げている小説の読者なんだ。それもかなりのファンらしい」
龍時が眞銀に対するこれ以上の追及を諦めようかと思い始めたその時、眞銀の口からついに納得できる言葉が出てきた。龍時はそれを聞いて一度立ち止まる。
「……それは本当なのか?」
「ああ本当だ。……そういえば龍時は自分の小説の感想を多く求めていなかったかい?感情を上手く表現するためだとか言って」
眞銀は昔の龍時の言葉を持ち出して迫る。龍時はそれに何も言い返せなくなり口籠もった。
「一度会ってみてくれるだけでいい。向こうも龍時という人間に興味を持っているんだ。……いいだろう?」
眞銀はトドメを刺すように龍時に言い加える。それによって龍時は断れない状況に追い込まれた。眞銀のその攻め方は、龍時に対していわば切り札とも呼べるものだったのだ。
「……わかった。今日の午後六時だな?遅れるなよ」
龍時はそう言って、最終的に眞銀の紹介したがるに人間と会うことを承諾した。眞銀はそれを聞くと安心したように大きく頷く。
「ありがとう。これで重荷がなくなったよ。……それじゃまた後で、私は急がないといけない」
眞銀は約束を取り付けるなり、走って駅に向かう。何やら今日は急ぐ用事があるようだった。
龍時は走る眞銀の後ろ姿を見つめながら何度目か溜息をつく。そして、会う相手が変な人間ではないことを自分を棚に上げて願った。