第三章 夏泉の作戦(4)
昔は旅館だったと思われる三階建ての建物は、コンクリートがむき出しになっているだけでなく、一部鉄筋さえ顔を出していた。窓ガラスも残っている箇所は少なく、建物内が風雨に晒されていることは簡単に予想がついた。
入り口と思われる扉も、強引にこじ開けられたような傷をつけて開け放たれている。心霊スポットなだけあって、龍時らと同じような訪問者が多いことを示していた。
地面には錆びて朽ちている建物の破片もあれば、比較的新しいプラスチックのゴミもある。そんな風景を龍時は異様に思い、気持ち悪く感じた。
「さて、どう中を回る?」
「勿論、出逢えるまで回るわ」
「非科学的なものにか?」
「幽霊よ」
夏泉は元気を取り戻した様子で、自ら進んで入り口から侵入していく。龍時も周囲を確認した後にそれについていった。
建物の中は暗く、床にはゴミが散乱している。何かが腐ったような臭いも充満しており、龍時は早々からリタイアしかけた。
「……一人で勝手に進むなよ」
まだ目が暗さに慣れていないため、龍時は夏泉の姿を探すのに苦労する。この中ではぐれることだけは避けたいと龍時は思っていた。
「何怖がってるのよ。こんなの怖くないでしょ」
夏泉は龍時を馬鹿にして、そのまま一人でズカズカと建物の奥へ歩いていく。用意周到なことに夏泉は懐中電灯まで持ってきていた。そして、まるで内部構造を把握しているかのように、夏泉は手際良く探索を始めた。
龍時が建物の構造を歩きながら頭に描いてみると、この建物が非常に複雑な構造になっていることが分かった。物覚えの良い方である龍時でさえ、探索から数分が経った頃には、戻る道を曖昧にしか覚えていなかったのだ。
ただ、夏泉はそれに対して何の恐怖も感じていないようで、まるで自分の家であるかのように探索を続けた。龍時にはそれが不可解だった。
「窓がある部屋とない部屋があるな。ある部屋は明るくていい」
龍時はある一つの部屋に入ったとき、周囲の様子がしっかりと確認出来て安堵する。夏泉も少しは緊張していたようで大きく息を吐いた。
「でも逢えないわね」
「そう簡単に見つかるものじゃないだろう。そもそも今目の前にいたとしても、俺は気付く自信なんてない」
龍時は幽霊を目にしたことがない。そのため、龍時は自分のことを霊感のない人間だと評価していた。また同時に、見えても困るとも思っていた。
しかし、そんな認識を覆さなけれはならないことが唐突に起こった。
二人が気を抜いていた時、突然ガラスが割れたような音が建物内に響き渡る。その音は二階より上から聞こえてきた。
「な、なに!?」
夏泉は驚きを隠せない様子で目を見開く。龍時もこればかりは判断に迷うことになった。
龍時は怪奇現象など存在しないと思って生きてきている。そのため、心のどこかで音の原因を解明したいという思いがあったのだ。しかしながら、夏泉のことを考えればそれは優先されるべきことではなかった。
今の様子から、夏泉はかなり動揺しているはずである。早急にこの建物から出ていく必要があると龍時は認識していた。
しかし、今日の夏泉はいつもと少し違っていた。
「行ってみようよ!」
「は!?」
つい先程まで驚きで目を見開いていた夏泉が、今は好奇心で一杯となった表情を見せている。その豹変ぶりに龍時は少なからず驚いた。
「いや、何かあるのは事実だ。建物から出て行った方が……」
「男のくせに怖がってどうしたの?ほら、行こうよ」
夏泉は何が楽しいのか、笑みまで浮かべて龍時を探索に連れて行こうとする。龍時としてはそれに付き合うほかなかった。
階段は建物の一番端に設置されており、龍時らはそれを見つけると抜け落ちることに注意して二階に上がった。さすがに二階にまで肝試しをする人間は少ないのか、最近撒き散らかされたと思われるゴミは少ない。
「私たちがあの部屋にいる時に向こうから音がしたよね?」
「ああ。それでガラスが割れたのならば窓のある部屋だろう」
龍時らはある程度の推測を立てて、それから行動に移る。不思議なことに龍時は今、生きてきた中で一番と言っていいほど興奮していた。
「……この部屋?」
しばらく二階を探索してから、龍時と夏泉は慎重に一つの部屋に入る。この部屋は一番可能性がある部屋として、二人が探索を最後に回していたところである。そこには確かにガラスの破片が飛び散っていた。
「でもこれがいつ割れたのかなんて分からないよね」
夏泉は証拠がないことを残念がる。このガラス片がいつのものなのか、夏泉には予測できなかったのだ。
「……いや、多分これがさっき割れたやつだろう。あの窓枠から何らかの理由で外れたんだ」
しかし、龍時は部屋の様子を観察してからそう言い、何もはまっていない窓を見つめる。ただ、夏泉はその理由を分かっていなかった。
「このガラス、どうやって外れてこちら側に落ちてきたのか分からないけど、これを見るからにもともと外側だった面が今は床と接触している」
龍時は破片の中で最も大きなものを指差して口にする。五十センチ程度のガラス片は汚れている面が床と接触していたのだ。夏泉はそれを聞いて頷く。
「だが、上側に向いている方は綺麗な状態、つまり風雨に晒された様子がない。この床に落ちてまだ間もないということだ」
「でもこれだけじゃ……」
「ああ。しかし、回ってきた中で他に可能性がありそうなものがなかった。他の状況と踏まえるとこの結論が正しいだろう」
龍時はそう言って窓から外を見てみる。外には鬱蒼とした森が広がっており、それでも建物の近くに大きな木々はなかった。
「付け加えるなら、このガラスは中から誰かが意図的に割ったんだろう。自然に落ちて割れた可能性もあるが、そうだとすれば汚れている面が下になることはあり得ない。外からも外力を加えられないとすれば、……他の誰かがこの建物の中にいるということになる」
龍時は一通り自分の推理を述べてみる。特に龍時は推理を得意としているわけではなかったが、今回の推理は正しいように思われた。
「そ、そうなんだ。凄いねそこまで分かるなんて」
龍時の推理を聞いた夏泉は、白々しく龍時のことを褒める。ただ、それが嘘くさいものだということに龍時は気付かなかった。
「だからまあ、この建物から出ていくことにしよう。もしかしたら、ここを根城にしている人がいるのかもしれない」
「いいえ、ここまで来たのだから最後までするわ。ここに住んでいる人なんて絶対にいない。だってたくさんの人がこの建物に面白半分で来ているのに、そんな情報なかったんだよ?それに自分が住んでいる建物のガラスを故意に割るなんておかしいわ」
「いや、警告という可能性も……」
龍時は嫌な予感を募らせつつ、夏泉にこれ以上の行動を止めるように進言する。しかし、夏泉を止めることはできなかった。
「私たちを驚かすなんていい趣味してるわ。見つけ出して懲らしめてやる」
「だからダメだって……」
龍時がやや本気になって夏泉の制止にかかる。しかしその瞬間、怪奇現象は再び起きた。
子供もしくは女性の小さな笑い声が廊下の方から聞こえてくる。さすがの龍時もこれには少し身を震わせた。
「やっと出てきたわね」
「出てきてしまったんだって!」
龍時は恐怖よりも先に、危険という意識が先行する。ただ、建物から出ていくには何にせよ廊下に出ていく必要があった。
「怖がってる場合じゃないわ!これは大発見!」
夏泉は嬉しそうに声がした方向に小走りで向かう。龍時は危機意識の低い夏泉を急いで追いかけた。
「……どこに行ったのかしら?」
「もうやめよう。俺の認識が確かに悪かった。……もういいだろ?」
「なんだー、やっぱり怖いんじゃないの」
夏泉は笑って龍時を馬鹿にする。龍時にはこの場所で快活にできる理由が分からなかった。
「じゃあ、龍時の言う通りにしようかな」
夏泉は満足したように言う。龍時はそれを聞いて内心ほっとした。これほどまで焦ったことなど、龍時にはなかったのである。
ただ、本当の恐怖はこれからだった。
「……待ッテ」
かすかに聞き取れるかどうかという程度の小さな声が二人を引き止める。龍時は初め、それが夏泉の声だと思った。
しかし、龍時が夏泉の方に振り返ってみると、夏泉の顔は青ざめていた。それを見て、龍時は状況を理解する。
「……私の声じゃないわ!」
「分かってるから!」
龍時は瞬時に判断して夏泉の手を握り締める。そして、夏泉を身体のそばに寄せて建物から出るために動き始めた。
「……行カナイデ」
先程よりも大きな声が二人の背中に投げつけられる。しかしそれでも、龍時はそれを無視して歩き続けた。
夏泉から余裕はとうの昔に消えている。龍時にも余裕などなかった。
「逃ゲナイデ……!」
「嫌っ!」
「黙っていろ。大丈夫だから」
夏泉は恐怖のあまり周囲の音を拒絶するように叫ぶ。龍時はそれに対して、自分を落ち着かせる意味も込めて言葉をかけた。
「逃ゲルナ……逃ゲルナ……!」
背中を追ってくる声は既に通常の会話時の音量を超えている。その声は女性のものだった。
龍時は夏泉のことをしっかりと抱き寄せ、その声に逆らい続ける。龍時が出口を見つけて建物から出て行ったのはその後すぐのことだった。
建物から出た瞬間、追いかけてきていた叫び声は唐突に消えた。それでも龍時は、建物から離れる方向に歩き続けた。
「……大丈夫か?」
歩きながら龍時は夏泉の心配をする。夏泉の足取りは、龍時が手を離せば倒れてしまうほどふらついていた。
「…………」
龍時の問いかけに対し、夏泉は声も出せない状態である。ただ、無理もないことだった。
「……とにかく駅まで歩こう」
龍時はそう言って夏泉の肩を支えた状態で歩き続ける。龍時はその途中、幾度となく夏泉の様子を確認した。ただ、本当に夏泉の精神はひどく衰弱しているようだった。
龍時はそのことに関しても不思議に思った。
二人が駅に到着した時、安堵からか夏泉は我慢しきれずに涙を流し謝罪した。龍時はそれを何とかして慰めようとしたが、良い言葉が浮かぶことはなかった。
この日の体験は紛れもない怪奇現象である。夏泉も本当にこんなことが起こるとなど、考えてもいなかったのかもしれなかった。
家の最寄り駅まで帰ってくるまで、夏泉は何度も龍時に謝罪を行った。龍時が問題ないことを伝えようとしても、夏泉は何度も謝り続けた。
建物の中での現象について、龍時はある程度把握しているつもりでいた。そのため龍時は、夏泉の謝罪よりとある人間の弁明を求めていた。
家まで送るという龍時の提案を夏泉が固辞すると、夏泉は最後は笑顔で帰っていった。そして、龍時も一つの仮定を抱えて帰宅することになった。
「……おや、今帰りかい?最近は随分仲が良いじゃないか」
部屋の前まで龍時が帰ってくると、タイミング良く眞銀も部屋から出てきていて二人は鉢合わせた。
「どこに行ってたんだい?」
眞銀がいつものように龍時に行き先を尋ねる。龍時はそんな質問に対して冷静に答えた。
「知っているくせによく言う」
龍時は自分の部屋の前を通り過ぎて眞銀のそばまで歩いていく。眞銀はそんな龍時の言葉に、驚くことなく続けた。
「……気付いていたのかい?」
「いや、何となくだ。ただ、最近の夏泉の行動が変なのは、眞銀が入れ知恵したからだろう?」
龍時は根拠があったわけではないものの、一つの推理を眞銀にぶつけてみる。すると眞銀は面白そうに笑った。
「楽しそうだったから良かったじゃないか。私は雰囲気が出るようにしてあげたんだ」
「やっぱり。違和感があると思った」
眞銀が怪奇現象を起こしたことを自白して、龍時は全てを理解する。そして少しばかり安心して愚痴をこぼした。
「眞銀せいで夏泉が大変だったんだ。俺も少し焦った」
龍時はあの建物の中での夏泉の様子について眞銀に説明する。すると、眞銀はそんな龍時の説明に首を傾げた。
「……あれ、おかしいな?私がどんなことをするのかは、夏泉に言っておいたんだけど」
眞銀は不思議そうな顔をしてみせる。龍時は一件落着したつもりでいたが、眞銀の顔が次第に曇っていったのを見て嫌な雰囲気を感じた。
「私が手を加えたのはガラスと子供の声だけ。その後のことは何もしていない」
「……は?」
「夏泉もだから怖がったんじゃないかな?だって私は後ろから声を出して追いかけるようなことはしていない。その頃には、バレないように帰る途中だったんだから」
「……な、何言ってんだ?」
龍時は不思議なことを言い出す眞銀に何とか質問する。ただ、今頃になって背筋に悪寒が走っていた。
「だから、最後のそれは私の仕業じゃない。もし私だったら夏泉が余裕を見せていたはず。……つまり、本当の怪奇現象ということだ」
「……馬鹿言うな」
龍時はそれを聞いて咄嗟に否定する。ただ、否定するだけの材料は何もなかった。龍時と夏泉は、本当の怪奇現象を体験した可能性が高かったのだ。
「……龍時の焦る顔、見てみたかったなぁ」
「ふざけている場合かよ」
龍時は今でも内心で驚きを抑えきれていない。それは良い気分ではなかった。しかし、夏泉も同じ気持ちであることを考えると、龍時は幾分か安心することが出来た。




