プロローグ 一期一会の人生
人は生きている限り、必ず多くの人と出会い別れていく。これが生きる上での楽しみでもあり苦しみでもあると考えられ、出会いや別れがなければ人は生きていけないと言っても過言でないかもしれない。
ただし、どんな人との出会いもこれは一生に一度だけのものであり、まさしく一期一会であると言える。つまり、人生は一期一会の世界。そんな理屈も間違ってはいない。
しかし、明石龍時の考えは決してその考え方と等しくはなかった。人との出会いが一期一会であるからといって、龍時は自らの人生の中で、それが大切なものだと思ったことは一度もなかったのだ。
龍時は昔から社交的な人間ではなく、友人は全くいないというわけではなかったものの、その数は少なかった。女友達についても同じことで、龍時の人生の中で女性と親密な仲になったことは一度もない。
ただ、龍時が人から嫌われるような人間であったのかといえばそれは違っていた。龍時に近づいてくる人間は少なかったわけではなく、男性だけでなく多くの女性も事実として龍時に接近していたのだ。
しかしながら、龍時はそれでも人との関わりを避けて生きていた。その結果、龍時に友人は減っていき、人間関係も希薄なものとなった。
龍時がそのような人間になってしまった根本的な原因というものはない。龍時が生活していると自然にそうなってしまうだけで、誰かの影響や龍時の信念がそうさせたわけでもなかった。
ただ、関係性がある事柄として一つ、龍時には面白い性格があった。
小学校の頃から感情を外に見せることが少なく、龍時は同級生からロボットというあだ名を貰い受けていた。その頃の龍時には人間らしさのかけらもなく、必然的にそんな無機質なあだ名が付けられることになったのだ。
ただ、龍時はそんな呼ばれ方をされていた中でも、感情を表に見せることはしなかった。勿論のことながら、龍時が感情を故意的に隠しているというわけではない。普通に生きているだけで勝手に感情が心の奥底へと仕舞われていき、その結果として無感情な人間になっていく。それが龍時だった。
しかし、中学高校と進学していくと、龍時は今まで通り生きていくことが出来なくなっていった。小学校の頃とは違い、コミュニケーションが重要視され始めると、龍時は周囲の人間にとって異様な存在でしかなかったのだ。そして遂には、人を侮辱しているとあられもない疑いをかけられ、龍時は暴力を振るわれることも経験した。
それを機に龍時は無感情である事に変わりはなかったものの、周囲の環境に応じて態度を変化させることを学んだ。どう人と接すれば危害を加えられずに済むか。それを研究した龍時は、最終的に静かな人間という評価を受けて生活できるようになっていったわけである。
感情を表に出さずとも生きていけることを、龍時自ら証明した瞬間であった。
龍時の両親は、龍時の無感情さに初めは心配を募らせていた。そして案の定、龍時に友達と呼べる存在が少ない事実に頭を悩ませていた。ただ、親に対しても無感情な龍時に両親がしてやれることは何もなく、活発な妹とは対照的に龍時はある意味問題児だった。
龍時自身、自分が無感情な人間であることにある程度気付いてはいる。率先して感情を隠しているわけではないものの、自分が周りの人間と違っていると感じ取ることはそう難しくなかったのだ。しかし、それを非難される理由を理解することは、龍時にはなかなか出来ないでいた。
また、龍時に好意を寄せる人は並に比べて多かった。龍時の感情が分からないというところに惹かれる女性は少なくなく、龍時の容姿が一般以上であったこともあって、龍時は告白されることを幾度か経験していた。
しかし、龍時がそれに応じたことは一度もなかった。正しく言えば、応じることができなかったのである。女性が何を理由にそんな感情を自分に押し付けてくるのか。龍時にはそれが分からず、疑心暗鬼になったのだ。
感情というものが本当に必要なものなのか。龍時は年齢を重ねる度に、そして感情を押し付けられる度に、そんなことを考え出すようになっていった。ただ、龍時は感情なしで生きているわけではない。それは龍時自身理解している。
しかし、龍時自身が感情を有しているからこそ、感情なしで人が生きていけるのかという疑問は、龍時にとって最大の問題となった。複雑怪奇で人間関係を崩壊させることも可能である感情であるが、それは今も淘汰されていない。龍時にはそれが不思議で仕方なかったわけである。
そこで、感情について知るための方法として、龍時はある一つの試みを行っていた。それは物語を書くといった創作活動を行うことである。
物語の中では、龍時の代わりに多くの人物が多面的に感情について検証し、龍時の仮説が成り立つこと又は成り立たないことを証明していく。この方法を使えば、感情について最終的な評価を下せると龍時は考えついたわけである。
そんな試みを龍時は高校生時代から始め、大学二年生になった今も続けていた。龍時自身でも驚いてしまうほどの継続期間である。
しかし、納得の出来る結果は未だ得られておらず、それどころか龍時はこの試みが無意味なものではないかと感じ始めていた。
確かに初めのうちの龍時の創作活動は、龍時の目的を遂行しようとしていた。しかし、時間が経つにつれて創作活動は次第に使命を失っていき、今では龍時の時間潰しにまで成り下がってしまっていたのだ。
人間関係の希薄な龍時にとって、時間は勉学に費やしたところで余ってしまうのが現状である。結局龍時の作る物語は、その余った時間を潰してくれるためだけのものとなっていた。
多くの人からの評価が龍時の抱える問題の解決に役立つとして、龍時は書いた文章をネット上の投稿サイトにあげていた。しかし、創作活動が無意味となった今では、人の評価などもはや気にする必要もなく、龍時にとって定期的に部屋を掃除をするようなただの習慣となっていた。
大学生にもなれば、龍時が中学高校時代に心配していたことすら起きなくなる。これも、龍時から感情についての興味を損なわせる原因の一つとなっていた。
そうしてまた、龍時は人との関わりの少ない中で、感情を見せないまま生きていくことになったわけであった。一人暮らしを始めた龍時に、感情のことで不平不満を言ってくる人間はいない。龍時はそんな環境の中で、ある程度安定した生活を手に入れていた。
龍時にとって気に留めることもしない自分の人生。しなければならないことをして、言われたことを淡々とこなすだけの機械のような人生。そして、そんな人生に甘んじて生きている龍時。
しかし、そんな永遠に続いてしまいそうな龍時の人生に変化をもたらす人間が現れたのは、龍時にとって大きな誤算だった。
夏泉が龍時のもとに訪れたのは、龍時が大学二年生の夏の日のことだった。