現代文学の流れ
現代文学の文学は、読者の理想を包括するように出来ている。文学だけではない。あらゆるメディアそのものが、読者や視聴者に消化不良を起こさないように出来ている。世界同時多発テロ以降、荒唐無稽な物語や、ヒロイズムに浸った世界観の文学が流行るようになった。
芥川賞と直木賞があるように、芥川賞はリアリズムの文学、直木賞が浪漫文学と両価分された文学体制をとっている。どちらが優れた文学賞だとは一概に云えないが、文学そのものが現実の模倣よりも、二次創作の模倣を基軸に作られ始めている。
危惧する専門家や文学者は多い。文学史そのものがリアリズム文学と浪漫文学との対立の歴史がある。
村上春樹先生や東野圭吾先生は、リアルの模倣でありながら、読者の期待である、浪漫文学を最終的な基軸としている。最終的に誰も傷つくことのない世界。代表する二人の作家が日本を代表する作家となりえたのは、対立する二つの文学観を統合させたところにあるのではなかろうかと思う。
人はリアルと浪漫を行き来しながら、日々の生活を送っている。どちらが欠けても、生活に支障が出るのである。芸術が人間にとって必要なのは、時にリアルをつきつけ、時には浪漫で優しく包み込んでくれるからである。
近頃ではライトノベルと云われるものが、幅を利かせ始めてきている。ティーエンジャ―の文学としてみられてきたが、三十代を超えた大人さえも虜にして、西尾維新先生を始める小説家が近頃では流行って来ているみたいだ。
僕も西尾維新先生の本を数冊所有している。文章力もあり、話も面白い。荒唐無稽な物語と、キャラの定義付けられた、魅力的なキャラクターが織りなすストーリーは、読む者を小説の中に引きこませるだけの威力が備わっている。
文学者や評論家から云わせると、リアルの模倣でもない。浪漫文学としても不完全な文学で批評を受けそうだが、僕は新しい文学の形として、生まれるべき時代に生まれた作家なのではなかろうかと思う。
人は年をとると、経験に元づかない新しいメディアを拒絶し始める。新しいものは害悪なのである。新しいものを考えて形に出来る人間は、既存の考えを破壊しうる存在である。西尾維新の維新と云う文字に秘められた、文学維新を一つの文学の流れとして、僕は受け止めたいと思うのである。