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地図で確認したところ、コルフォトは二人が魔物の襲撃を受けたオアシスから更にいくつか集落を経由した所にある町だった。
方角はほぼ真西で、トウカが言っていたソムテからは大きく外れたルートにある。そんなコルフォトの、一つ前に位置する村に二人が到着したのは、オアシスを出立した数日後のことだった。村を覆っている結界から感じ取る限り、どうやらここの結界珠の調子は良好らしい。住民たちも比較的穏やかで、長閑な雰囲気が漂う土地だった。
「そろそろ食料が心もとないな。保存食を売っている店があればいいが」
「なら木の実類を多めに買っておこうか。ここ二日くらい干し肉ばかりだったからな」
村に入ってからアージェットは日除けのフードを下ろしている。トウカはもとより顔を隠していないし、明らかに周囲と毛色の異なる二人組は、簡素な村の中では随分と目立っていた。人目を無視して歩いていくうち、アージェットが遠目に雑貨屋らしき小さな店を見つける。
「……欲しいものがあるかは分からないが、一応入ってみるか。他に店も見当たらないし」
アージェットが決定し、逆らう気もないトウカがそちらに進路を変えた時、ちょうど角を曲がって現れた男の姿に、二人は思わず目を瞬かせた。背の高い男だ。襟元まできっちりと釦を留めた衣装に、両手に着けた武骨な手甲。袖に銀色のラインが入ったその制服は――
「――特務神師?」
思わず上げてしまったアージェットの呟きを聞きとがめたらしく、まだこちらに気付いていなかったらしいその男がすいと振り返った。しまった、と思ったがもう遅い。
「お前たちは……」
アージェットたちの姿を視認して、男が眉を顰めた。アージェットにとっては知らない顔だったが、相手の目が面白くなさそうに眇まったのを見て、声を上げてしまったことを今更後悔する。かと言って時間を巻き戻せるわけでもなく、目が合った以上はそれを無かったことにするわけにもいかずに、彼が近づいてくるのに合わせて自分たちも仕方なく男の方に歩み寄った。
数歩の距離を置いて対峙した男は、まだ二十代の初めというところだろう、黒みがかった焦げ茶色の髪をした青年だった。所々に細かな意匠を施された制服は、アージェットと同じく彼が特務部隊に所属していることを示している。前髪の下から覗く眼光は鋭く、敵意があるとは言わないまでも好意的には程遠い。一般的に見ても男の身長は高く、向き合うと小柄なアージェットは男に見下ろされるような形になった。何となく威圧感を感じたアージェットは不快そうに目を細めたが、その感情を相手に気取らせる気はなかった。
「……こんな所で同業者に会うとは思わなかったな。初めまして、俺はソーマ・コーンフィード。任務でこの先の町に向かう途中だ」
しばらく互いに出方を窺うように黙り込んでいたが、やがて口火を切った男が襟に手を伸ばし、そこに留めた徽章を露にしてみせる。特務神師に与えられる徽章のデザインは一人一人異なっている。ソーマと名乗った男のそれは、アイビーの蔦を絡めた鋭い牙の紋様だった。
「……初めまして。オレはアージェット・クルージオ。こっちはオレの連れで、トウカだ」
アージェットも服の下から首飾りを引き出し、鎖に通した徽章を見せる。絡めたアイビーは同じでも、アージェットのそれはランプをシンボルとしたものだ。
「『ランプ』の徽章か。成程、本物のようだな」
徽章を一瞥したソーマの言葉を聞いて、アージェットとトウカは一瞬だけ横目で視線を交わした。目だけで互いの考えを確認し合い、その結果、どちらも目の前のこの男に会ったことはないと判断を下す。幸か不幸か、自分たちがそれなりに有名であることは、アージェットもトウカも自覚していた。
「アージェットのことを知っているのか。誰かに聞いていたのか?」
トウカの問いに、ソーマは「そんなところだ」と首肯した。
「直接会ったことはないが、『隻腕の神師』の噂くらいは知っている。僅か十四歳にして特務部隊に入隊、神師となった異色の子供。遭遇することすら滅多にないとされる高位魔獣と契約を交わし、その魔力を己が身で行使してみせる天才だとな」
ちらりと冷ややかにトウカを見てからアージェットに戻された視線は、それでもやはりどこか相容れないものを含んでいた。嫌悪、ではない。敬遠。その表現が一番近い。
「それでお前たちは、なぜこの村に? 確か王命で各地を巡っていると聞いていたが、その道中か」
問われてアージェットは少し黙り、当たり障りのない答えを返す。
「そんなところだ。これからコルフォトの町に向かうつもりでいる」
「コルフォト?」
ソーマは顔を顰めた。
「奇遇だな、俺もそこに行く予定だ。まさか俺と同件か?」
「いや、そちらの用が何かは知らないが、こちらは今何の命令も受けていない。オレたちは単に通り道なだけだ」
「そうか。それならいいんだが――」
何かを言いかけたソーマの言葉を、唐突に聞こえてきた甲高い呼び声が遮った。
「ソーマ様ー!」
振り向いた彼らの前で、たたたたた、と駆けてきたのは、フード付きのコートを羽織った小麦色の髪の少女だった。幼さを残した、愛らしい顔立ちの少女だ。歳はアージェットと同じか少し上くらいに見えるが、背は彼女の方が頭半分以上高い。ふわふわした髪の間から覗く耳には、片方にだけきらきらと揺れるイヤリングを着けていた。
少女を目にしたアージェットはこちらも特務神師だろうかと思いかけ、それはないなと考え直す。王都にある隊からは、定期的に近況報告は受けている。アージェットと同年輩の特務神師が入隊したというなら、自分の耳にも入ってきているはずだ。
「あー、やっと見つけたわ、ソーマ様! どこ行ってたんですか、すっごい探したんですよー!」
「抱き付くな、ミュリエラ」
現れた少女は飛び付くようにソーマの腕を抱き締めたかと思うと、あっさりソーマに振り払われる。飼い主に懐く子犬のような少女と、鬱陶しがるソーマと。一連の流れがやけに手慣れていて、これがいつものことなのだろうと何となく思わせた。
素っ気ない態度にぷくりと頬を膨らませた少女は、そこで初めて気付いたように――実際少女の目にはソーマ以外入っていなかったのか――アージェットとトウカを視界に収める。途端に不機嫌そうに少女の眉が吊り上がり、纏う空気が警戒を帯びた。
「ソーマ様、こいつら何ですか?」
ソーマの傍に立ち直し、威嚇するように二人を睨んでくる少女に、アージェットは無表情の下で溜息を押し殺した。トウカの方を見てみるが、彼は特務神師の前だからかこの場で口を挟むつもりはないらしく、仕方なくアージェットが言葉を継いだ。
「オレの名はアージェット。こっちはトウカだ。お前はコーンフィードの契約者か?」
ぴく、と少女の顔が険しくなった。一目で自分を魔族と見抜いたアージェットに、少女の警戒心が大きくなったのが見て取れる。
「ミュリエラ、『隻腕の神師』の二つ名くらいは聞いたことがあるだろう」
うんざりしたような顔でソーマが口を挟んだ。少女――ミュリエラが目を見開く。
「えええ!? んじゃあこいつらが、『隻腕の神師』とその魔獣っ!?」
一体どんな話を聞いていたのか、ソーマの言葉に驚愕したミュリエラの目は、なぜか一拍後には一層の敵意を含んで二人を――特にトウカを睨み付けた。当のトウカは無視しているが、ミュリエラの眼差しには隠そうともしない反発心が溢れている。
「……ソーマ・コーンフィード、お前の契約者は名乗った相手に向かって名乗りもしないのか?」
ミュリエラの視線を受け流し、ぽつりと言ったアージェットの表情には漣一つ立っていなかったが、その機嫌が着実に下降していることをトウカだけは察知していた。ミュリエラがギンと音がしそうな勢いでアージェットを睨む。
「たかが魔獣ごときが気安くソーマ様に口利かないで! しかも何なのよあんたその偉そうな言葉遣い、ぶっ飛ばすわよ!?」
「やめろミュリエラ、そっちが神師だ」
いきり立つミュリエラを、面倒臭そうな顔をしたソーマが投げやりに止めた。ミュリエラは「え」と呻いて動きを止め、アージェットとトウカを見比べる。
――無理もない、とアージェットは思う。トウカの擬態は完璧だし、一方のアージェットは本来己の物でない魔獣の右腕を持っているせいで、僅かに魔獣の魔力の波動を発している。敏感な者なら察知して、二人の種族を取り違えることもあるだろう。
「え、え、え。でもでも、『隻腕の神師』って」
「名前の由来なんぞ知らん。だが両腕あろうがなかろうがそいつは確かに特務神師だ。ついでにクルージオ、これは別に俺の契約者じゃないぞ」
「そうなのか」
適当に頷くアージェットは、自分から振った割にどうでも良さそうだ。まだ混乱しているらしいミュリエラを横目で見ながら問いかける。
「それで、名乗らないのか?」
同じ言葉を繰り返されて、ミュリエラは言葉に詰まった。真っ赤な顔をして、先程トウカに向けていた敵意を含む視線を、今度はそのままアージェットに移す。
「わ、わざわざ名乗らなくても知ってるでしょう!? さっきソーマ様が呼んだんだから!」
「オレは『名乗らないのか』と聞いたんだ。それともコーンフィードの同行者は礼儀の基本も心得ない無礼者か」
「ミュリエラよ! ソーマ様の従者で魔族、クラスは魔物! 以後お見知りおきをっ!」
悔しげに眦を吊り上げながら、お見知りおきなんて冗談でもされたくないという調子で叫ぶミュリエラに、アージェットはようやく口を閉ざす。本格的に興味を失ったように彼女から意識を外してソーマを見ると、「牙」の特務神師はちょうど大きな吐息を吐いたところだった。
「……ともかく、さっきも言ったとおり俺はこれからコルフォトに向かう。お前たちが何をしようと勝手だが、俺の邪魔だけはするなよ」
「ああっ、待ってくださいソーマ様ぁぁっ!」
身を翻して去っていくソーマを、ミュリエラが慌てて追いかける。諦めず一方的に話しかけ続ける少女の声と、もう相槌も打たないソーマの背中。冷たくあしらわれながらもまったく懲りた様子のないミュリエラの声が遠ざかっていくのをぼんやり見送っていたアージェットの肩を、トウカがぽんと叩いた。
「行くぞ、アージェット。早く買い物済ませて、出発は明日の朝にしよう。途中であいつらに追いついたりしても困るだろう」
「……ああ、そうだな」
アージェットとしても、その意見には同感だった。ミュリエラのテンションには正直ついて行けないし、ソーマの方ともあまり馬が合いそうにはない。
頷いて雑貨屋へと足を向けたアージェットの隣に並びながら、トウカは一度だけ後ろを振り返る。ちょうど同じタイミングでこちらを見たミュリエラが眉間に縦皺を刻み、べえ、と舌を突き出してみせた。