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その日、街の片隅にある小さな露店に少々毛色の変わった客が訪れたのは、ちょうど黄色みがかった太陽が中天に昇った頃のことだった。
「なぁ、これ、二つ貰えるか」
「あいよ、どれだい」
ひょいとかけられた声に、声を張り上げて呼び込みに精を出していた中年の女主人が返事をする。人当たりのいい営業用の笑顔で振り向き、そうして客の姿を目に映した彼女は、一瞬呆けたように口を開けた。
露店の前に立って売り物の果物を指差していたのは、見かけない顔の青年だった。
年の頃は十七、八といったところだろうか。頬に届くくらいの長さで雑に切られた鉄色の髪に、袖と裾がゆったりと広がった外套のような衣服を羽織っている。髪と同色の瞳はよく磨かれた鉱石のように、感情を窺わせない深い色を湛えていた。
無駄なものなど一つもないような、ひどく整った容貌だ。どこか鋭さを宿した端正な顔立ちが、ひっそりと鞘に収められた一振りの刃を想わせる。外套から無造作に覗く肩は、この炎天下にも関わらず日焼けなど知らないかのように白かった。
いつまでも反応を返さない女主人の様子に青年が不思議そうに首を傾げたのを合図に、彼女ははっと我に返った。
「あ、あんた、旅の人かい? ここらじゃ見かけない顔だね。その格好も」
「ああ、さっき着いたばかりなんだ」
女主人の質問に、青年は素直に答えた。彼女は、へえ、と頷いてみせる。
「商人……には見えないね。なんだい、こんな辺鄙なところに、知り合いでも住んでるのかい?」
「たまたま立ち寄っただけだ。仕事で、なるべく多くのオアシスに立ち寄らなきゃならないからな」
「ふぅん、変わった仕事してるんだね。一人旅かい?」
「いや、連れがいる。……あまり待たせると怒られるんだが」
遠回しに催促されて、興味を露に身を乗り出していた女主人は思い出したように動き出した。台上の果物の中から、大きめのものを二つ選ぶ。
「ああ、すまなかったね、あんまり綺麗な顔をしてたもんだから、つい見惚れちまったよ。エルゴを二つだね?」
「ん。包まなくていい」
青年が差し出した左手から、女主人が小銭を受け取る。代わりにその手に所望の果物を乗せた拍子に、女主人が寄りかかっていた台ががたりと揺れた。台の上の果物がいくつかごろごろと落ち、青年の足元に転がっていく。
「おっと、ごめんよ」
彼女は慌てて謝るが、足元を見下ろした青年は、なぜかすぐ傍に転がっている果物を拾い上げようとはしなかった。一瞬困ったように視線を手に持った果物に落とし、それからもう一度足元を見る。女主人が首を傾げるより先に、青年は買ったばかりの果物を台の上に置こうとして、
「何をやってる、トウカ」
その前に青年の脇から伸びた小さな手が、転がっていた果物を一つ残らず拾い上げた。ひょいひょいとそれらを台に戻したその人間を見て、彼女はまたぽかんと目を瞬かせる。
「アージェット、もういいのか?」
「ああ、用は済んだ」
――アージェット。青年がそう呼んだのは、青年より頭二つ分は背が低い、真っ白な容姿の少年だった。
歳の頃は精々十かそこらといったところだろうか。傍らの青年に劣らない、少女と見紛うその美貌に、女主人は再び目を奪われた。
恐らく黙って立っていれば、よくできたビスクドールと言われても疑わないに違いない。幼さを残した少年の面差しに色を添える、歳に合わない怜悧な瞳。青年以上に色のない、抜けるような白い肌。項で一つに結んだ長い髪も、質の良さそうなボレロも、編み上げのブーツも。少年が身に着けているもののほとんどが混じりけのない白で構成されており、まるで景色の中にぽつりと滲んだ明るい影を想像させた。
そんな彼の容姿の中で唯一色が付いているのが、少年の髪を結ぶリボンと両の瞳だった。およそ色素というものを持たないその少年の中でその二つだけはやけに鮮やかな真紅をして、他の部分の白さをより一層際立たせている。
人形のような美貌の少年は青年をちらりと見上げ、軽く息をついた。
「買い物が済んだのなら早く行くぞ。領主館の在処は聞けた。街を歩きたいなら、挨拶の後でいいだろう」
「ああ、分かったよアージェット」
外見に似合わずひどく大人びた、淡々とした喋り方をするその少年は、青年の手から果物を一つ取って身を翻す。少年の後についてこの場を去ろうとする青年の背中を見て、女主人はようやく、先程青年が戸惑っていた理由に気付いた。
「兄ちゃん、あんたもしかして手が……」
青年の右手は長い袖に覆い隠されていたが、二の腕から先だけ、不自然に布が揺らめいていた。まるでその下に、何も存在しないかのように。
何も答えずに遠ざかっていく二人連れを、彼女は困惑した顔で見送っていた。
「随分と辺境に街があるものだな。賑わってはいるようだけど」
人込みの間を器用に縫って歩きながら、買ったばかりのエルゴの実を齧っていた鉄色の髪の青年――トウカは、隣を歩く真白の少年にそう声をかけた。
露店の立ち並ぶメインストリートは流石に人通りが多い。水分の多いエルゴの実に注意しながら歯を立てていたアージェットは、横目でトウカを見上げ、落ち着いた声で「そうだな」と頷いた。
「移動には慣れているが、やっぱり疲れた。聞いてはいたが、わざわざ迂回して訪れるには面倒な場所にあるな。なんでこんな微妙な位置に街があるんだ?」
「どうでもいいけど、五日も砂漠を歩くと流石に砂が鬱陶しいぞ。早くシャワーが浴びたい」
「領主殿に言えば貸してくれるだろう。……今回は魔族に遭わなかっただけマシだったな」
――この世界は、陸地のほとんどが砂漠に支配されている。かつて地上を襲った未曾有の大天災により緑のほとんどを失ったとされる今の時代、この劣悪な環境の中で人間が生活することができるのは、あちこちに点在する貴重なオアシスの周辺だけだ。アージェットたちがこれまで巡ってきた町々と同様、この街も例外なく広大な砂漠に囲まれるオアシスの一つだった。
ひっきりなしに有毒な砂塵を巻き上げる砂漠はマスクなしでは半日といることができず、他所の村や町との交流も簡単にはできない。加えて最大の問題である、砂漠の闇から湧き出てくる魔族たちの存在だ。砂漠化が進行しはじめた頃から現れ出したという彼らは、無防備な人や集落を気紛れに襲う。
魔族は大きく上位と下位に分類され、更にその中でも上から上位魔族、魔獣、魔物の三ランクに分かれている。うち最も数が多く出現率が高いのが最下級の「魔物」だが、最下級と言えども常人が遭遇すれば抵抗の術は一切なく、殺されるか喰われるかしか末路はない。結構な期間旅を続けている二人も、これまで各地で幾度となく魔物と遭遇してきていた。
「まあオレたちは仮にも魔族対策の専門家だし、その辺の下位魔族程度なら全然平気なんだけどな」
エルゴの実を食べ終えたトウカが、どうでも良さそうに指を舐めながらそう嘯く。最後の欠片を飲み込んだアージェットも軽く肩を竦めた。
「確かにそうだが、あまり疲れることはやりたくないんだ、オレは。それより、じきに領主館が見えてくるはずなんだが――ああ、あれだな」
アージェットが指し示したのは、頑丈な石造りの館だった。豪邸というほどではないが、一般家屋の数倍はありそうな大きさがある。十中八九、あれが目的の館だろう。
「……大きいな」
「交通の不便さからか人の出入りはあまり激しくないが、街の規模自体は大きいし、住人も多いからな。あまり小さな館じゃ示しがつかないだろう」
アージェットが言いながら、無表情のまま足を速めた。
(……早くシャワーと食べ物が欲しいんだな)
付き合いの長いトウカは何となくそう悟ったが、シャワーが恋しいのは自分も同様なので何も言わない。代わりにアージェットの歩調に合わせるように、少しだけ歩く速度を上げた。
二人が訪問した領主館は、掃除の行き届いた清潔な場所だった。
事前連絡もしなかったにも関わらず大した問題もなく中へと通されたのは、迎え出た執事にアージェットが告げた肩書きが余程有効だったためだろう。応接室の来客用ソファに並んで、出された紅茶――今の時世ではそれなりに貴重なものだ――を傾けながら待つうちに、ややあって部屋に現れたのは品のいい服を着た三十代半ばほどの男だった。
「初めまして、この街の領主をしています、ブランシェと申します。こんな辺境の街まで、ようこそいらっしゃいました」
二人の前でにこやかに歓迎の挨拶を述べるその男に、アージェットとトウカも立ち上がって背筋を伸ばした。
「初めまして、領主殿。こちらはトウカ、オレはアージェット。ご丁寧な歓迎痛み入ります」
頭を下げてから再び席に着く二人の前に、ブランシェも腰を下ろした。ちらりとトウカを見やった彼は、口調を改めて告げてくる。
「それで、一応確認させて頂きたいのですが――」
「ええ、どうぞ」
ブランシェの言いたいことを察知して、トウカが金属製のカードのようなものを手渡した。銀色の文字で書かれた位階証明と、カードを縁取るアイビーの蔦の模様を確認して、ブランシェはにこりと首肯する。
「失礼しました。確かに」
丁寧な仕草でカードを返し、ブランシェはトウカの無い右腕を見て微笑みを浮かべた。
「改めて、ようこそお出でくださいました、『隻腕の神師』。ローレスの街は貴方方を心より歓迎致します」
「……オレたちのことをご存知でしたか」
僅かに雰囲気を変えたトウカの言葉に、ブランシェは首を横に振った。
「いいえ。しかし噂は聞いています。確か若干十七歳にして、国王陛下に仕える魔族対策部隊の中でも特に危険度が高い特務部隊に所属している、最年少の特務神師。今は一時的に前線を離れ、王命で各地を巡っておられるとか。流石にお名前までは存じ上げませんでしたが、名高い神師が本当に、こんなにお若い方だったとは……」
素直な感嘆を含んだ眼差しを向けられたトウカは、少し眉を下げて笑っただけだった。話に乗ってこないトウカに、今度はその隣で黙って紅茶を啜っていたアージェットに視線が向けられる。
「時に、『隻腕の神師』は、いつも傍らに美しい高位魔獣を一体連れていると聞いています。ひょっとすると、貴方がその?」
「……よくご存知ですね。人類の天敵とも言える魔族を連れている神師に、不審を抱くことはないのですか?」
『魔獣』は『上位魔族』に次ぐ力を持つクラスの魔族だ。中でも高位魔獣となれば、弱い上位魔族くらいにならあっさり勝てるくらい強力な存在である。アージェットは明らかに神師より年下の少年に見えるが、魔族なら外見年齢など何の意味も為さないだろう。
しかし、小首を傾げて見上げてくるアージェットに、ブランシェは穏やかに微笑んでみせた。
「神師様の使役獣なら危険はないでしょう。貴方も、失礼ながら十分理性的なように見受けられる。実際、街の『結界』も、神師と契約した魔族なら弾かれないように設定されているはずです」
「……尤もです」
どうやら反感もなさげなブランシェの様子に、アージェットは溜息をついた。
「確かに領主殿の仰る通りです。が、時折、魔獣と分かった途端に攻撃してくる輩もいますのでね。ご理解、ありがとうございます」
「ふふ、わたしはそんなことはしませんよ。こんな言い方はおかしいのでしょうが、本当に神秘的でお美しいのですね。不躾ですみません、本物の魔獣を見たのは初めてなのですよ」
「まあ、普通魔獣なんかに遭遇したらその時点で死にますからね。それはそうと――」
かちゃり、とカップを置いてアージェットが切り出す。どうやらこちらの少年の方が会話役らしいと理解したブランシェも、改めてアージェットに向き直った。
「領主殿もご承知のことでしょうが、特務神師は魔族対策の他、結界珠の補強や交換なども任務の一環として行っています。折角通りかかったことですし、よろしければこの街にある結界珠の点検をしておきたいのですが」
――結界珠。それは他ならぬ、人間の住む集落を魔族の襲撃から守っている最大の防壁のことである。
良質の結界珠は、要するに汎用型魔具だ。使い方と使い手次第で大抵のことはできるが、この結界珠の現在最も多い、そして代表的な使い道が「結界」の作成であることから、結界珠と言う名を付けられた。結界珠は正しい手順で作動させれば、人間には無害な、しかし魔族や有毒な砂塵に対しては限りなく高い効果を誇る不可視の障壁を張り巡らせる機能を持つ。人の願いや望みを動力として動くため、物質的な燃料が要らないのも利点である。
「そういうことでしたら、是非ともお願いします」
アージェットの言葉に、ブランシェは嬉しそうに頷いた。
「砂や魔族の脅威に囲まれて暮らす我々にとっては、結界珠は文字通り命綱ですからね。メンテナンスをしてくれるというのならありがたいですよ。この街の結界珠は、館の地下にある祭壇に収めてあります。今日はもうお疲れでしょうから、館にお部屋を用意しましょう。明日にでもご案内致します」
「お気遣い感謝致します」
と、アージェットが頭を下げたと同時に、ノックの音が響く。ブランシェが応えを返すより先に、大きな音を立ててドアが開いた。
振り向いた三人の目に入ったのは細身の姿。長い亜麻色の髪を纏めた女が、足取りも軽く入ってくるのを確認して、ブランシェが困ったように溜息をついた。
「……リューイシャ、来客中だぞ」
「うふふ、ごめんなさい、気が急いちゃって。ねえ、神師のお客様がいらしたんですって? わたくしも是非会ってみたかったの」
呆れた声で呼びかけられても、リューイシャと呼ばれた彼女はまったく意に留めず、むしろ楽しそうに駆け寄ってくる。無視されたブランシェは再び溜息をつき、二人に向き直って、申し訳ありません、と頭を下げてみせた。
「奥方ですか?」
トウカが聞いた。ブランシェが頷き、リューイシャの髪をさらりと撫でる。困ったような表情とは反対に、どこまでも慈しむような、優しい手付きだった。ブランシェに寄り添うリューイシャが、心地好さそうにくすくすと微笑を洩らす。
「ええ、リューイシャといいます。いつまでも無邪気で至らぬ妻でして、どうか大目に見てやってください。……リューイシャ、こちらが神師のトウカ様。それとトウカ様の……お連れ様のアージェット様だよ。今日はこの街を通りかかったので寄ってくださったそうだ」
少しだけ迷う素振りを見せたものの、結局魔獣云々は省くことにしたらしい。そちらの方が面倒がないので、アージェットたちとしても異論はない。
二人が軽く会釈すると、奥方もにこりと笑って一礼してみせた。品の良さそうな女性だが、どうにも表情や仕草が子供っぽい。くるくると好奇心を映す彼女の瞳と視線が合うなり、きらりと目を輝かされたのはアージェットだった。
「まあまあまあ、かわいい!」
きゃあ、と少女のような歓声を上げて、奥方が勢いよくアージェットに抱きついた。あ、と小さく呻いたトウカの隣で、アージェットは途端にビシリと硬直する。
「神師様のお付きで旅をしているの? こんなに小さいのに偉いわねぇ。きゃあ、真っ白! わたくしこんな綺麗な子初めて見たわあ」
きゃらきゃらとはしゃぎながら固まったアージェットを嬉しそうに撫で回していた奥方は、やがてアージェットの手を両手で握り締めて、苦笑いしながら一部始終を眺めていた夫を振り向いた。
「ねえあなた、今日はお二人はお泊まりになるんでしょう?」
「ああ、そのつもりだが」
「じゃあわたくしがアージェットちゃんのお部屋を選んでもよろしいわよね? 行きましょうアージェットちゃん、あなたにぴったりの素敵なお部屋があるのよ!」
「…………、…………、」
いつもの無表情の下で物凄く助けを求めるような目をされたが、流石にトウカもどうすればいいのか分からない。結局そのまま奥方に連行されていったアージェットの背中を見送って、トウカは引き止め損ねた手を力なく下ろした。
「……アージェット様、お困りのようでしたね」
暗に、もしも『人間』の相手が苦手な方だったらすみません、と謝るブランシェに、トウカは視線を逸らして、
「……女性のああいった態度に慣れていない奴なので……」
控えめにそう答えるに留めておいた。