13
翌朝、眠っていたアージェットをトウカが予定通りの時間に起こした。身支度を整えた二人が食堂に降りて行くと、ソーマとミュリエラはもう起きていて、ちょうど朝食の注文を済ませたところだった。
「…………」
「おはよう。遅かったのね」
ソーマは二人の方に目をやっただけだったが、ミュリエラがじろりとアージェットを睨んでくる。昨日魔物に襲われた後、無傷のアージェットと怪我をしたソーマを見てからというもの、彼女からは若干風当たりが強くなった。
ミュリエラはソーマとは別の部屋だったはずだが、ソーマとアージェットが昨夜、それぞれの部屋を抜けていたことには気付いていたようだ。ソーマの役に立つことしか考えていないような彼女は、部屋に戻らないソーマを探しに行きたくても、彼の邪魔になることを恐れて動けなかったのだろう。日々我慢に我慢を重ねる自分を差し置いて、アージェットがソーマと時間を共有していたのがとてつもなく気に入らないといった様子だ。
実際に二人の間で交わされた会話の内容はやや殺伐としていて、あまり愉快な対談とは言えないものだったのだが、そんなことはミュリエラの知ったことではない。何せ邪険にされようと相手にされなかろうと、彼女はソーマと同じ空間にいるだけで満足なのだ。他の人間がソーマに構われていなければ、の話だが。
「おはよう。別に遅くはなっていないだろう、十分時間通りだ」
何やら恨みがましげなミュリエラの視線を、アージェットはいつもの通りに淡々と流した。一方で、厭味だろうと挨拶を受けた以上、それだけは律儀に返す。相変わらず、自分に向けられる反感にはどこまでも無感動な少年だった。
ソーマたちと向かい合うように同じテーブルにつき、トウカがアージェットの寝癖を整えつつ、二人分の料理をまとめて注文した。朝には食欲のないアージェットには、パンと卵とスープと果物を少々。自分にはそれにハムとベーコンとサラダを追加して、もしもアージェットが足りないようなら分けてやる。トウカがアージェットの世話をせっせと焼くのはいつものことだ。放っておくと、アージェットはとんでもない組み合わせで料理を頼んでしまう。その絶妙なチョイスは雑や適当といった域を越え、もはや一種の才能だとトウカは思っていた。
テーブルに頬杖をつき、不機嫌そうにしているミュリエラが、今度はトウカを睨む。
「そっちもおはよう。あのね、あんたも契約者なら子供の夜遊び放置してんじゃないわよ。あーもうほんとむかつく、あたしだってソーマ様のこと追いかけたかったのに」
「アージェットはもう十七だ。過保護にするような歳じゃない。……それに宿の外には出ないと約束した」
「十分過保護じゃない! て言うか今まさに過保護にしておいてよくそんなことが言えるわよね!? 何なのよさっきの普段の関係が透けて見える行動、それくらい自分でやらせなさいよ!」
「それをした場合、洩れなく付属してくる精神的ダメージの責任はお前がとってくれるのか?」
「はぁ!? 訳の分からないことを……」
「ミュリエラ、少し黙れ」
尖った犬歯を剥き出して突っかかるミュリエラに、客たちの注目が集まっている。ソーマに咎められたミュリエラはぱっと口を噤んだが、トウカを睨む目は相変わらず険しいままだった。テーブルが静かになったのを見計らったように、注文した品がやって来る。並べられた料理にとりあえず手を付けつつ、口火を切ったのはソーマだった。
「――それで、今日はすぐに出るのか」
魚の塩焼きを切りながら、ソーマが今日初めてアージェットに話を振ってくる。面倒臭そうにスクランブルエッグをつついていたアージェットはこくりと頷いて、自分の隣でスープを啜っているトウカを見やった。
「そのつもりだ。早い方がいいだろう。……それよりコーンフィード、昨日トウカとも話したんだが、オレたちはお前たちとは別行動を取った方がいいかもしれない」
「どういうことだ」
ナイフを止めたソーマの隣から、ミュリエラも訝しげな顔になってアージェットを見てくる。
「別行動って何よ? 目的地は同じなんだし、一緒に来ればいいじゃない。それとも他に寄るとこでもあるわけ?」
「違う。昨日も言ったと思うが、相手の目的は今のところオレとトウカだけだ。だから、オレたちはお前たちより少し早く町を出る。途中で襲撃を受けたら戦って、できたら黒幕ごと倒せばいい。昨日のように分断されさえしなければ、オレとトウカなら大抵の奴らには勝てる」
アージェットの言葉に、ソーマは考えているようだった。しばらくしてからまた顔を上げる。
「却下だ。相手がどれほどのものなのか分からない以上、お前ら二人だけで行かせるのはリスクが高すぎる。『オレとトウカ』と言ったが、聞く限り狙われているのは恐らくお前の方なんだろう。連中に捕まりでもしたら、こっちにも不都合が出る」
「……そうか」
きっぱりとした否定に、アージェットは諦めたようだった。トウカはどちらでも良かったらしく、不服を唱える様子はない。
「封印されている魔族について、何か分かっていることはないのか?」
思い出したように質問してきたトウカに、ソーマはちらりと視線を向けた後、素っ気なく首を横に振った。
「上位魔族ということだけだ。そもそも今回の封印は、最近になって見つかったものなんだ。なんたら言う神師がこのあたりを通りかかった時、偶然そのオアシスに迷い込んだようでな。そいつが高度な結界を見つけて調べてみたら、封印されている魔族らしき影を発見したというわけだ」
「調査したら、数十年前あの辺りで、どっかの神師が上位魔族を封印したって記録が見つかったの。それでソーマ様に依頼が来たってわけよ。何十年も放置されてたなら、そろそろ封印が緩んでてもおかしくないもの。封印の状態を調べて、ついでにできそうなら強化してこいってねー」
ミュリエラがそう言って締めくくり、ハムを刺したままのフォークをぴこぴこと振ってみせる。トウカは納得したように頷いた。
「ふうん。ならお前、結界珠の扱いには長けている方なのか?」
「ああ。あまり高レベルな結界ならどうか分からんが、補強と強化くらいなら何とかなるだろう」
「なら、早々にそれをしてしまうことが肝要だな。オレは向こうが何をしてこようが封印を解くつもりはないが、封印自体が緩んでいるというのなら意味がない」
そう結論付けてアージェットが席を立った。自分の分の料理を片付けたトウカも、合わせて立ち上がる。
「出立は二十分後だ。それまでに用意しておけよ」
ソーマの言葉にアージェットは無言で頷き、トウカは「ああ」と返して踵を返した。
「ソーマ様、コーヒーいります?」
「……貰おう」
アージェットたちが食堂を出ていくのを見送った後、フォークを置くタイミングを計っていたようにミュリエラが差し出してきたコーヒーのカップを、ソーマは素直に受け取った。だいぶ離れたテーブルにあるセルフサービスのコーヒーを彼女がいつの間に取ってきていたのか知らないが、多分無駄に魔物の技能を発揮したのだろうな、とソーマは思った。
ミュリエラはトウカを過保護と評したが、ひょっとして自分も過保護にされている側なのだろうか。そんなことを思いかけ、彼は微妙な気持ちになって思考を切り捨てた。
コルフォトの町から、北西に半日。結界で厳重に覆い隠された場所に、そのオアシスは存在する。
「とりあえず、ここまでは襲撃はなかったな」
砂塵の吹き荒れる砂漠の真ん中に立って、トウカがそう呟く。砂避けの薄いマントに、形だけの防塵マスク。鉄色の髪を靡かせて、彼は辺りをぐるりと見回した。
「……本当にここでいいのか? 何もないように見えるが」
「失礼ね、ソーマ様が道間違えたりするわけないでしょーが」
トウカの台詞に、ミュリエラが早速噛み付いた。ソーマの斜め後ろに控えている彼女は、トウカと同じく薄いマントとマスクだけを着けている。
「発動させている効果の中に、結界自体の隠秘機能もあるんだろう。何の違和感もないところを見るに、相当高度な結界のようだ」
トウカのすぐ後ろで足を止めたアージェットはそう言った。白銀の髪と顔の半ばまでを目深に被ったフードで覆い隠し、更に残りをマスクとゴーグルで覆った彼は、露出している部分がほとんどない。
「ここに結界が張られていることは間違いない。今から結界を通る準備をするから、少し待っていろ」
アージェットと同じ支給品の防塵具を装備したソーマは、針が五本ある小さな羅針盤のような道具で結界反応を確かめながら告げてきた。アージェットたちが注目する中、彼は羅針盤の針を動かし、かちかちと位置を合わせていく。角度の調整を終えて短く呪文を紡ぐと、五本の針が一斉に光を灯した。
ぽうっ、と輝いた羅針盤から、細い光の線が飛び出す。まっすぐに虚空を走った光の先に、様々な色を混ぜ合わせたような光の膜が、陽炎のように浮かび上がった。
「行くぞ」
ソーマがそう告げて、膜を潜って消えていった。すぐ後にミュリエラが続き、アージェットとトウカも彼らの後を追った。
光の膜を抜けて出たそこは、丈の低い草が生えた広い野原だった。数本の木々が生えている中、目を引いたのは草原の中央にある泉と、泉を取り囲む結界珠だった。
「あれが例の結界か」
羅針盤を停止させ、潜ってきた入り口を消しながらソーマが呟く。丸い泉の縁に正確に五角形を描くように設置されているのは、拳ほどの大きさがある五つの結界珠だった。うち四つは球形だったが、ここからちょうど真正面、泉の反対側に置かれた結界珠は、他より少し大きめの水晶型をしている。
「――どうやら、これが他の四つと連動しているみたいだな」
一通り結界珠を調べ終わったソーマが言った。
「見る限り、この結界と封印専用に作られた特別製のようだ。解除するのは難しいが、封印の起動や強化は比較的簡単にできそうだな」
「なら、すぐに施式に――いや、」
言いかけた言葉を、アージェットは自分で切った。トウカが無言で左腕を変化させ、ソーマが手甲を嵌め直す。ミュリエラの額に角が伸び、顔にじわりと紋様が浮き上がった。
「――それよりも、こっちを片付けるのが先のようだな」
アージェットが解いたリボンが鋭く硬化し、右腕に碧い光の線が走る。
結界で隔離されたこの場所にどうやって入ってきたのか、見回した彼らの周囲で、数十体の異形が群れをなしていた。
――戦闘の開始を告げたのは、数体の魔物が一斉に放ってきた衝撃波だった。
爆音、衝撃。
第一撃を躱して、アージェットたちは四方に散る。即座にミュリエラがソーマの所へと走り、アージェットとトウカが互いと合流。轟音とともに向かってきた雷の塊を、アージェットの放った魔力の渦が受け止めた。一瞬押されかけたそれを、しかしトウカが続けて撃った衝撃波が後押しする。猛烈な衝撃波が魔力の渦と一塊になって突き進み、数体の魔物を消し飛ばした。
そこに空いた空間に、迷わずトウカが突っ込んだ。魔力を纏った左腕を振るって接近戦に入ったトウカを、アージェットが援護する。トウカの左腕が、衝撃波や重力波が、次々と魔物たちを粉砕していった。
トウカを無視してアージェットを襲ってきた魔物は至近距離で衝撃波を受け、隙ができたところを硬化したリボンに斬られて砂になった。アージェットの物質硬化は、大量の魔力を消費する代わりに破壊力は絶大だ。相手が爪で受け止めれば、爪ごと両断してのける。
片手間に見ると、ソーマたちの方も着実に相手の数を減らしているようだった。ソーマが傍にいる以上、ミュリエラは彼の援護を最優先にするつもりらしく、次々と現れる盾に阻まれてソーマに近づける魔物はほとんどいない様子だ。もともと攻撃手段が遠距離型のソーマとは、攻守の相性がいいらしい。
その時、魔物たちの中を駆けながら戦っていたトウカが僅かに表情を変えた。
ぐっと眉を寄せたトウカは体を捻り、狙うには少々無理のある体勢で、一体の魔物目がけて衝撃波を撃ち出した。それはちょうど炎の塊を放とうとしていたその魔物に当たり、攻撃の軌道を変えさせる。空を裂いた炎が、泉の傍に立つ結界珠の一つを掠めて過ぎた。
それを皮切りに、数体の魔物が一斉に結界珠を狙いはじめた。トウカが結界珠を狙う魔物を集中して潰しにかかり、そのトウカに攻撃しようとする魔物をアージェットが潰していく。
「あいつら、結界珠を……!」
気付いたミュリエラも苛立たしげに眉を顰めた。即座に彼女が結界珠の周りに張った盾が、立て続けに飛来する攻撃を受けて震動する。
「ミュリエラ、そのまま結界珠に集中しろ!」
ソーマが怒鳴って魔力弾を連打した。放たれた弾丸が次々と魔物を襲うが、全滅させるには程遠い。魔物が発現させた盾が数発の弾丸をソーマの方に跳ね返したが、ソーマは横っ跳びにそれを躱し、右の手甲で別の魔物の一撃を受け止める。
ミュリエラが急いでソーマの補助をしようとするが、また別の魔物が二体、ミュリエラと反対方向の結界珠を狙って攻撃した。ミュリエラは歯噛みしながら盾を増やし、結界珠の守りに専念する。
「トウカ!」
悪化しはじめた状況に、アージェットがトウカを呼んだ。トウカは眉を顰めたが、仕方なさそうに一瞬でアージェットの元に駆け戻ってくる。
これ以上時間をかければ、アージェットたちはともかく、結界珠が壊されてしまうかもしれない。それは怪我人が出る以上にまずい事態だった。
「……しょうがないな。速攻で終わらせるぞ」
「頼む」
アージェットが無表情で頷き、呪言を唱えはじめる。
「眠れる望月、赤い海。水面に映るは形無き灯かり。欠けた力を在るべき場所に。――返還を為す。アージェット・クルージオの名の下に」
呪言が締めくくられた瞬間、カッと真紅の光が輝く。紋様に添って解けたアージェットの右腕が、真紅の帯となってトウカの元に飛んだ。無いはずの右腕に巻きつくように、帯がたちまち形を得ていく。
その光景に振り向いて目を見開いたソーマたちを後目に、あるべき姿を取り戻したトウカが真紅の紋様を浮かべた腕を一閃させた。一気に膨張した魔力を纏ったトウカの髪が碧色に、瞳が金色に染め上げられる。
「許す。やれ!」
「了解、主」
主人の言葉を受け、トウカが放たれた矢のように飛び出した。異形の左腕と、膨大な魔力を纏った右腕が、凄まじい魔力の嵐を生み出して魔物たちを屠っていく。
トウカの姿から目を離さないまま、アージェットはポケットから取り出した指輪を無造作に口に咥え、左手の中指に嵌める。指輪には小さな結界珠があしらわれていた。いつもは戦闘に結界珠を使わないアージェットだが、魔獣の右腕を持たない今なら結界珠を操る速度も上がる。
「な、何なんだあれはっ! お前、その腕は一体――」
ソーマが驚愕を隠し切れない様子で詰め寄ってきた。アージェットは淡々と答えを返す。
「あの右腕は、本来トウカのものなんだ。オレ自身の腕は四年前に失われている。その時既に死にかけていたオレは、今はトウカの右腕に貯められた魔力に生かされている状態だ。あまり長時間『返して』いると命に関わるからな、普段はあまりやらないんだが……」
結界珠が輝き、トウカが取り溢した魔物目がけてアージェットは猛烈な衝撃波を撃ち出した。吹き飛んだ魔物に、我に返ったソーマが追い打ちをかける。立て続けに突き刺さった魔力弾が新たな魔物を砂に還した。
一方、アージェットとソーマが連携して対処している間に、トウカも急激に魔物の数を減らしつつある。残りが数体になったところでミュリエラも結界珠の守護から意識を離し、彼らの補助に入ろうとした。
だがその瞬間、一匹の魔物が最後の足掻きのように薙ぎ払った腕が、アージェットとソーマを纏めて打ちつけた。
輪郭だけが人型の、出来損ないの人形のような魔物だった。一度アージェットとソーマと戦った時に取り逃がした奴だ。
ミュリエラが悲鳴のようにソーマの名を呼んだ。直後にトウカがその魔物を、残った数体ごと広範囲の衝撃波で吹き飛ばす。魔物の四肢が四散した。まともに攻撃を受けたアージェットとソーマは吹き飛ばされて激しく地面を転がり、泉の縁まで来てようやく停止した。二人が咳き込みながらも身を起こしかけた時、泉がごぽりと泡立つ。今の今まで静まり返っていた泉の水面から透明な何かが伸び上がり、アージェットとソーマに蔓のように巻き付いた。
「ソーマ様っ!?」
飛び出してきたミュリエラがソーマにしがみつき、出現させた盾で透明な蔓を途中からぶち切った。ぎりぎりの所で引き戻されたソーマが振り返って首を絡め取られているアージェットの手を掴み、そしてすぐに捥ぎ離される。僅かに目を見開いて動揺の表情を見せたアージェットの小柄な体が、水飛沫を立てて泉の中に消えた。
「アージェットっ!!!」
ソーマたちが初めて耳にする、必死さを含んだ声音でトウカが叫んだ。存在すら忘れ去ったかのようにソーマたちには一瞥もくれず、トウカは迷わず泉に飛び込む。水中に潜ると、うっすらとぼやけて見える蔓に絡め取られ、底の方に引き込まれていくアージェットの姿はすぐに見つかった。まずい、と顔に焦燥が浮かぶ。ほとんど呼吸を必要としないトウカと違って、アージェットの顔は苦しげだ。喘ぐように明滅する結界珠が衝撃波を繰り出すが、削られゆく集中力と纏いつく水が邪魔をして、陸上ほどの威力を出せないようだった。
(――なんだ?)
深い水底に何かの塊が見えたのはその時だった。
(水晶、か?)
ろくに光も届かない泉の奥に、氷のような硝子のような、大きな何かが存在している。アージェットを絡め取る蔓は、その何かから生えているようだ。塊の奥に黒い影のようなものが見えて、トウカはきつく眉を寄せた。
透明な蔓が、水晶の塊にアージェットの体を押し付ける。ピキピキと硬化していく蔓は、アージェットを巻き添えに、見る見る塊と一体化していった。ごぼっ、とアージェットが肺の空気を吐き出した。指に嵌まった結界珠が輝きを失いかけた瞬間、追い付いたトウカの右腕が水晶に叩き付けられた。
(アージェットっ)
口だけ動かしてトウカが呼ぶ。硬化しかけた水晶を強引に破砕し、トウカは意識を飛ばす寸前のアージェットを引きずり出した。
アージェットの体が解放されたと思った瞬間、再び水晶が蠢いた。鎌首を擡げた水晶の蔓が、アージェットを庇ったトウカの全身に巻き付いた。
(―――――っ!)
アージェットに伸びようとした蔓を手刀で切断し、魔力で風を巻き起こしたトウカは投げ飛ばすように勢いよくアージェットを水面に押し上げる。何事か叫ぼうとしたアージェットの右肩に、トウカの体から伸びた真紅の帯が絡みついて腕を形作った。再び右腕を失くしたトウカが水晶の中に取り込まれる光景が、アージェットの両目に映された。
「――――――っはぁっ!」
固唾を呑んで泉を凝視していたソーマとミュリエラの前で唐突に大きな水泡が浮かび上がったかと思うと、アージェットが水を跳ね飛ばして顔を出した。
「クルージオ!?」
ソーマが叫ぶ声は、アージェットには聞こえていないようだった。
「はぁっ、はぁっ、……っ、はっ……!」
激しく息をつくアージェットは、地面についた両腕で体を引きずるように岸に上がり、呼吸を整える間もなく、ふらつく足取りで一番大きな水晶型の結界珠に駆け寄った。
「おい、何をするつもりだ!」
はっとしたソーマが慌てて掴んだ腕を、アージェットは乱暴に振り払った。
「ちょっとアージェット、トウカはっ!?」
「捕まった」
ミュリエラの問いかけに、アージェットは早口で答えた。
「引き込まれた泉の底に水晶のようなものでできた封印があった。トウカはその封印に巻き込まれた」
「そ、それであんたは何をするつもりなのよ!」
「あいつを助ける」
アージェットの左手で、指輪に嵌め込まれた結界珠が輝いた。同時に水晶型の結界珠が反応し、じわりと光を放ちはじめる。本気の様子に、ソーマは焦った。
「おいやめろ! そんなことをしたらもう一体の魔族まで出てきてしまう!」
「なら他にどうしろと!?」
振り向いたアージェットがソーマを睨みつけた。怒鳴るような声だった。
「放置してどうなる。あいつが自力で出て来られるような代物じゃないことはすぐに分かった、本部に連絡をして救助を要請したところで魔獣一体を救うために本腰を入れてくれるとは思えない。それにあの封印は力を吸収すると聞いた。早く引き出さないと、下手をすれば封印されている魔族より先にあいつが消える!」
トウカは取り込まれる間際に、アージェットに右腕を返した。そこに込められた魔力は、トウカがあの一瞬でできた最大量の魔力が込められている。
常に淡々としていたアージェットの、初めて見る燃え滾るような怒りの表情に全ての言葉を呑み込んだソーマを一瞥し、アージェットは結界珠に向き直った。
「安心しろ、オレも全ての封印を解く気はない。オレの結界珠と連動させて制御して、トウカの周りの封印だけを解除する。数秒あれば、あいつは自力で出て来られるだろう」
「で、できるわけ?」
「やる」
ミュリエラの言葉も一言で切り捨てて、アージェットは水晶型の結界珠に指輪を着けた左手を当てた。
「――――応えろ。結界珠」
囁くと同時に、二つの結界珠が輝きを増した。その輝きに吸い込まれるように、アージェットの意識は結界珠の湛える魔力の源へと潜り込む。体から精神を切り離すようなイメージ。張り巡らされた毛細血管の中を縦横無尽に駆け巡るように、見る見るうちに凄まじく複雑な制御式が展開されていくのを、ソーマとミュリエラは声もなく見守った。
「――青の楽園、見果てぬ行路。明くる色に祈りは溶ける。
目に映るもの、目に映すもの。空転し続け消える果て」
アージェットが口ずさむ呪言に、結界珠は従順に反応してゆく。水晶型の結界珠の放つ光が伝播するように、周囲四つの結界珠に次々と碧色の輝きが灯りはじめた。
「移ろう幻、響くは哀歌。子を守る唄は空に消え、残り揺らぐは紅い月。
変わらぬ幻、織り成す兇歌。童の唄は水に消え、遺し揺れるは黒い月。
――鍵抱くもの、アージェット・クルージオの名の下に。
醒めろ、結界珠。現の夢を紡いで歌え!」
完成された呪言が旋律となって空気を震わせた。一筋も余さず制御された魔力が、確かな力となって六つの結界珠を共鳴させる。
「……すご」
唖然としていたミュリエラが呻く。ソーマは瞠目したまま、目の前の少年が見せつける凄まじい制御力に茫然としているようだった。
結界珠を睨むように見据え、額に汗を浮かべたアージェットが、統制され尽くした魔力を解き放とうとする。しかし、その刹那。
ガッ!
真横から飛来した何かが、アージェットの側頭部を強打した。猛烈な衝撃に一瞬目の前が真っ白になり、アージェットの膝ががくんと折れる。完璧だったはずの制御が、指の間からすり抜けるようにアージェットの手を離れた。
「な――!?」
自分を呼ぶミュリエラの叫び声が聞こえた。アージェットを攻撃したのは、アージェットとソーマを吹き飛ばし、トウカに倒されたはずの魔物だった。砂になった本体から離れ、千切れ飛んだ腕だけが独立した生き物のように動いている。
嘲笑うように蠢く腕を、ソーマの魔力弾が粉砕した。今度こそ跡形もなく消滅した魔物には目もくれず、アージェットは朦朧とする頭を抑えて結界珠に取り縋った。
「――駄目だ! 制御が間に合わない!」
歯軋りせんばかりの勢いでアージェットが叫ぶ。背後でソーマとミュリエラが息を呑む気配を感じた。
「せ、せ、せ、制御できないってどうすんのよ! どうなんのー!?」
「クルージオ、とにかく一旦結界珠を止めろ! これ以上の進行を何とか抑えて――」
彼らの声を遮って、結界珠が爆発するように輝いた。
泉の中から噴き上がった閃光が、極太の柱となって空を貫いた。