12
太陽が落ちた後、宿屋のベッドに潜り込んだアージェットは、一向に眠気が訪れないままじっと天井を見つめ続けていた。
トウカも同じ部屋にいる。部屋の反対の壁際にあるベッドに入っているはずだが、彼が眠っているとは思えなかった。ほとんど寝返りも打ってはいないが、自分がまだ目を覚ましていることは、トウカには気付かれているだろう。自分が寝付けないでいる以上、恐らくはトウカもまだ眠っていない――いや、眠る気がない。
(……いつも、そうだからな)
魔獣であるトウカは、本来食事も睡眠も必要のない存在だ。そんな彼が何故人間と同じように食事や睡眠を摂っているかというと、それはやはりアージェットの存在が大きいのだろう。
エネルギーの確保とか、試してみたら意外と気に入ったとか、個人的な理由もある。だが何よりも、トウカはアージェットに『合わせて』いるのだ。
アージェットは何も言わない。戦闘時の命令などはともかく、彼がトウカに対して何かを願うことは滅多にない。
けれどトウカはアージェットが、水も飲まないトウカを余所に一人で食事をすることを好まないことを知っている。トウカが眠っているアージェットの傍でひっそりと息を潜めて夜を明かしたり、一人きりで夜の散歩に出たりするのが嫌いなことを知っている。
だからトウカはアージェットに合わせる。アージェットがトウカに合わせることはできないから、トウカがアージェットに合わせる。
初めて会った四年前からずっと、トウカは何も言わずともアージェットに欲しいものをくれた。そこに押し付けがましい態度など一切なかった。彼はいつも、唯々ごく自然に、そうすることが当然のような顔をしていた。
――そんなトウカの姿を見るたびに、アージェットは複雑な気分になるのだが。
(堂々巡りだな)
アージェットは胸の中だけで嘆息した。疲れているはずなのに、妙に頭が冴えているせいでまったく眠気が来なかった。明日封印の様子を見に行こうと言い出したのはアージェットだというのに、寝転がったまますることがないせいで思考ばかりがぐるぐると空回って、余計に意識の覚醒を促す。
それでもしばらくは粘っていたが、いつになく転がり続ける思考が止まる気配はなかった。夜も大分更けた頃になって、とうとう諦めたアージェットはむくりとベッドから起き上がった。
「……少し出てくる」
平坦な声色で声をかけると、向こうのベッドでやっぱり起きていたトウカが怪訝そうに視線をよこす気配がした。
任務であちこちの土地を訪れた経験に従うと、小さな町の泊まり客の少ない宿屋などでは特に、一階が食堂、二階が客室という構造をとっていることが多い。
ソーマが今いるこの宿屋も、例に洩れずそんな一つだった。
酒場も兼ねた食堂は、夜が更けた今も皓々と明かりが灯っている。数時間前までは客で賑わっていたが、今はもう皆引き上げて、残っているのはソーマだけだ。眠たげに欠伸をしていた主人はしばらく前に自室へと引っ込み、ソーマは手酌で酒を飲んでいた。「私寝るんで、お客さん後は勝手にどうぞー」という台詞に、そんなに適当でいいのか商売人、とも思ったが、まあいいのだろう、と思い直した。小さな町で食い逃げでもすればすぐに話は広がるだろうし、自分だって会計を誤魔化す気など別にない。結果的にうまく行っているのなら、自分が口を出すことではなかった。
ようやく昼間の疲労が落ち着いた体に、果物を漬け込んだ宿手製の醸造酒は、日頃はあまり飲酒をしないソーマの手をそれなりのペースで進ませる程度には美味だった。がらんとした空間で一人甘ったるい酒を呷っていると、持て余した思考は自然と、自分に任された任務に入り込んできた異分子――アージェットとトウカという名の二人組に飛んでいく。
魔獣の方は、端から気に食わなかった。いくら神師に首輪を付けられた契約獣でも、本気で契約を破ろうと思えばできないことではない。高位魔獣が何を考えて人間に従っているのか知らないが、あの青年が信用に値すると言える要素は、ソーマには何一つなかったのだから。
だが、もっと気に食わなかったのは、自分と同じ人間である真白の少年の方だった。
得体の知れない存在だと思っていた。初めて会った時から――否、初めて彼の噂を聞いた時から、どうにも胡散臭い人間だと、警戒心を持って。
人形めいた容貌だと聞いていた。年の割に信じ難いほど小柄だとも、入隊当初からまったく容貌が変わっていないとも――対照的に、中身はかけ離れて怜悧で大人びた子供だとも。
じかに顔を合わせて、それらの噂が間違っていないと知った。血の色をそのまま映したような瞳をしているくせに温度のない冷めた眼差しで、観察するように自分を見てくるその姿に本能的に反感を覚えた。この得体の知れない子供は油断ならないと、半ば無意識のうちに線を引いた。
けれど。
『……すまなかった』
あの時ただ一言、ぽつりと落とされた言葉が忘れられなかった。
魔獣の魔力を纏わり付かせて凛と立つ背中よりも、それを危なげなく操ってのけた力量よりも、ソーマの傷を見た時に、ほんの一瞬揺らいだ子供の瞳が焼き付いて離れなかった。尤もあの少年自身、自分の感情の揺らぎに気付いているのかは分からないが。
――あんな場面で、あの少年が年相応の子供に過ぎないと気付くなど馬鹿げている。
そう思った時、ふと、調理場の方で小さな音がしたのが聞こえた。宿屋の主人でも戻ってきたのかと思って振り向くと、そこにいたのは先程まで思考を馳せていた人物だった。
「……クルージオ」
ぼそりと呟いたソーマに、アージェットの方も僅かに意外そうな顔でこちらを見ている。
「コーンフィード。……飲んでいたのか」
独り言のように言ったアージェットは、手に大きなスープ鉢とコップを持っていた。数秒逡巡し、彼はソーマの座っているカウンターの、二席離れた椅子に着く。
おおかた眠れなくて下りてきたのだろう。温かいものを食べれば眠くなると考えたのかも知れない、と考えて、やはりまだ子供だなとソーマは思う。ランプの白い明かりの中、薄いシャツにカーディガンを羽織り、リボンを解いた髪を背中に流している彼の姿は、昼間以上に儚く見えた。
(宿の主人はいなかったはずだが、自分で調理をしたのか?)
そんなことを考えながらソーマは何気なくアージェットの方に横目で視線をやり、
「…………、」
そのまま言葉を失くした。
スープ鉢に盛られているのは、得体の知れない何かだった。
それはもう雑というレベルではない、とにかく物体としか言えない代物だ。敢えて言うなら、斧か鉈で豪快にぶった切ったワニ肉と皮ごとのスイカを青汁で和えて、大量の唐辛子をぶち込んだホワイトソースで煮崩れするまで根気良く煮込めばこんな風にもなるかも知れない、と思えるような物体だった。
普段は絶対にアージェットに料理などさせないトウカを、彼が一人になりたいからと置いてきたことや、小腹が空いていたものの宿屋の主人がいなかったことで仕方なく自分で夜食を作ったらこんなフシギなものが完成してしまったことなど、ソーマが知っているはずもない。ぎぎぎと軋みそうな眼球を動かしてコップの方を見てみると、こっちの方はただの水らしく、ソーマは何となく安堵の息をつきたくなった。
「……クルージオ、何だその物体は」
「ぬるっとしたものが食べたかったんだ。昼間はトウカに止められて探せなかったから」
「……ナマズの踊り食いでもしたいのか、お前は?」
ソーマは心の中で、たとえ一時でもアージェットの凶行を阻止したトウカを称賛した。ええと、神師より魔獣の方が常識があるってどうなんだこれ。
「で、そのぬるっとしたものは自分で作ったのか」
「いや、これは失敗だ。ぬめっとしている」
「……何か違うのか、それ」
アージェット曰くぬめっとしているそれは、彼の求めるぬるっとした何かと見るからに凶悪さでは引けを取らないと確信できる。この子供はもしかしていつもこんなものを食べて生きているのだろうかと思って、何となくソーマの背筋に薄ら寒いものが走った。
そのアージェットは、もはや材料の原型を留めていない何かの物体をスプーンで掬い、表情一つ動かさずに食べている。ぬちゃ、とかべちゃ、とかいう音がするのを、ソーマは全身全霊で無視しようと努めた。しばらくの間怖いもの見たさに近い感覚でその光景を眺めていたが、ややあってソーマは聞いてみる。
「……美味いのか?」
「不味い」
「…………」
淡々とした即答だった。だったらせめて不味い顔をしろと言いたかったが、言ったところで精々一瞥をくれるだけで無視されるのが関の山だろうし、よしんば素直に従われてもそれはそれで気持ちが悪いだけなのでやめておく。
しばらくの間、泥を捏ねくり回すような音と、食器がぶつかる小さな音だけが、人気のない食堂に響いていた。
「――あの魔物が」
しばらく続いた沈黙を、破ったのはアージェットだった。彼はスプーンを動かす手は止めないまま、こちらを見やったソーマに聞いた。
「ミュリエラが、お前の傍にいるのはどうしてだ」
脈絡のない質問に、ソーマはぱちりと一度瞬きをした。
それはミュリエラが付き纏ってくるようになってから、度々他人に聞かれていたのと同じ問いだった。いつもなら適当に流すが、どうやらアージェットは真面目にその答えを聞きたがっているようだった。ソーマはゆっくりとグラスを回し、考える時間を稼ぐように目を伏せた。
「……あまり、考えたことはない。いつの間にか懐かれて、付いて来るようになっていただけだ」
ややあって出した答えは、自分が相手でも満足できないだろうなと思うようなものだった。けれどアージェットは、ふうん、と頷いただけで、そのまま質問を続ける。
「契約はしないのか」
「少なくとも現時点において、俺にその気はない」
向こうについては知らんが、と付け加える。
ミュリエラは以前、昔ソーマに命を助けられたと言っていた。だが、ソーマはそれを覚えていなかったし、貸しだと思ったこともない。
ソーマは、基本的に魔物を信頼しない。ついて来るのを許してはいても、深入りはさせないように気をつけている。その辺りの機微を鋭敏に察知するミュリエラだからこそ、未だにソーマの傍に付き纏っていられるのだとも言える。
それは多分、いつ離れられてもいいようにという準備でもあった。いつミュリエラの気が変わって姿を消しても、裏切られても構わないように。自分とミュリエラの双方にとって、それが傷として残らないように。
(……報われないな、ミュリエラ)
ソーマの思考を何となく悟り、アージェットはそんなことを考える。それは憐憫ではなく、ただの事実としての感想だ。別段ミュリエラを後押しする気もお節介を焼く気もないが、アージェットの見る限りでは、少なくともミュリエラはソーマとの契約を望んでいるように思える。ソーマの見せる感情一つで、アージェットやトウカに迷わず敵意を向けてくるほど、彼女はソーマを慕っていた。その想いが彼女にとって大切であるのなら尚更、それを見失わないためにも形のある繋がりは欲しかろうと思う。――自分とトウカの間に、契約という名の目に見える繋がりがあるように。
そんなアージェットの心を読んだように、今度はソーマが問うてきた。
「お前の所の魔獣は、どうしてお前と契約なんかしたんだ」
「……さあ。気紛れだと言っていたが」
「気紛れで数年か。魔獣にしては随分と珍しい話だな」
「あいつの本心が分かるのなんかあいつ本人くらいのものだ。分かるものならオレが聞きたい。聞くつもりはないが」
「なんでだ」
「これ以上は多分、甘えでしかないと思うから」
ただでさえ、与えられてばかりいるのだから、と。
声にされなかったその言葉を確かに聞き取ったかのように、ソーマは何も答えなかった。代わりに、溜息を吐く音が耳に付く。気に留めず、アージェットは一番聞きたかったことを聞いてみることにした。
初めて会った時、ソーマがトウカに向けた冷たい視線。それからその後に続いた、トウカの存在を無視するような態度。
「お前は、トウカが嫌いか」
「少なくとも好きではないな」
今度はすぐに答えが返ってきた。
「と言っても、別にあいつだから嫌いなわけじゃない。……ああ、そうか。お前はそれが気に食わなかったんだな」
ようやく何かを納得したように呟くソーマに、アージェットは感情の見えない真紅の瞳をゆるりと向けた。
――人間が魔族に蹂躙されるこの世界で、魔獣であるトウカが好かれないのはある意味仕方のないことだと、アージェットは思っていた。
旅や任務に不都合さえ出なければ、トウカ自身がそれらを何ら気にしていないことも理解している。だから、無視できる時は無視して、アージェットの方も何も言わなかった。
それでも、気に入らないものは気に入らないのだ。
他人に興味がないアージェットは、自分が軽視されようと忌避されようとどうでも良い。けれどトウカに敵意を向けたり排斥しようとするのなら、心の底で敵意が生まれるのは止められない。
――アージェットは気付いていない。それがアージェットとトウカの、一番の違いなのだと。
アージェットにのみ執着し、アージェットを通してしか世界を見ていないトウカとは違う。基本的に無関心とは言え、アージェットはまだ、自分の目で世界を見ることができている。
「魔獣に嫌な記憶でもあるのか」
「よくある話だ」
アージェットの問いかけに、どこか投げやりにソーマは言った。
「俺が生まれた村は、魔獣に襲われて壊滅した。両親と姉は殺されて、俺は特務神師に助けられて生き延びた。滅多に人里に姿を見せることのない魔獣が、俺の村に現れたのは不運だった。結界珠は未だ全ての地に行き渡っているわけではなく、質が悪いものも多い。魔族の気紛れひとつで、一つの村が地図から消える。
だから俺は徽章にこれを選んだんだ。あの日のことを忘れないために。奪う奴らの持つそれ以上に鋭い牙を、俺がこの身に持ちたくて」
「…………」
襟元の徽章を指先で撫でるソーマは、どこか自分に言い聞かせるような口調だった。特務神師のシンボルであるアイビーの蔦を絡めた、彼の「牙」。
「それに、俺はお前のことも嫌いだった」
そう続けられたソーマの言葉に、アージェットは何も言わなかった。そんなことはとっくに知っていた――ただ、トウカに対する敵意以上に重要では全くなかっただけで。どうして今ここでそんなことを言い出すのかは、さっぱり分からなかったけれど。
「敵意を持っていたわけじゃない。ただ、胡散臭いガキだと思っていた。油断がならないとな。実際お前は、色々な意味で異端だ」
「まあ、そうだろうな」
白銀の髪に血色の瞳という取り合わせは、入隊当初かなり人目を引いた。
魔族なのではないかと疑われたこともあったし、真っ向から反発されるのもよくあることだ。感情の起伏の少ない自分の態度にも問題があるのだろうと、アージェットは考えている。
アージェットがどこから来たのか、どうやって魔獣と契約などできたのか、知っているのは特務部隊では隊長くらいのものだ。秘密が多いこともマイナスに働いて、力を認められた今でもアージェットに反感を持つ者はいなくならない。
「……お前は、どうして特務神師になったんだ」
そう問われて、アージェットは言おうか言うまいか少し迷った。その様子を察したソーマは、じろりと目を細めてみせた。
「俺の話だけ聞いておいて、自分は隠すとかしないだろうな」
「……お前が勝手に話したんだろう」
「話すように誘導したのはお前だ」
今のソーマの目付きがトウカに絡んでいたミュリエラのそれとそっくりなことに、幸いにしてこの場の二人は気付いていない。と言うより、多分ミュリエラの方がソーマに似ているのだろう。しつこく目を逸らさないソーマに、やがてアージェットは観念したらしく、ぽそりと小さな声で告げた。
「生きるためだよ」
「?」
抽象的すぎる台詞だった。意味が分からないと言いたげに顰められた表情に、アージェットは仕方がなさそうに嘆息する。
「オレには故郷がない。どこかの小さな村だったようだが、正確には覚えていない。場所も、今でも存在するのかさえも分からない。物心ついた時にはこの容貌のせいで迫害されていたから、相当閉鎖的な村だったんだろう。両親の記憶もないし、覚えている限り名前も与えられていなかったはずだ」
聞いていたソーマは、咄嗟に返すべき言葉が見つからなかった。しかしもとより相槌など期待していなかったのか、アージェットは淡々と続ける。
「ある日、村が魔族の群れに襲われて、オレは逃げた。血塗れで砂漠に倒れているところを、契約という形で助けてくれたのがトウカだ。あいつと、あいつの魔力という副産物を手に入れた俺は、その後しばらくして出会った男に誘われて、そいつの隊に入って特務神師になった。
人間を救うとか本当にどうでも良かったんだが、二度と誰かに『生かされる』のは嫌だったから、自力で生きられるだけのものが――要は職とか金とか力とか、そんなものが欲しかった。それには特務神師が一番近くて便利だったってだけの話だ」
「……四年前ってことは、十三歳か」
「ああ。村を襲った魔族の一体にかけられた呪のせいで、オレの体は当時のまま成長を止めている。代謝機能の方は常人と大して変わりないが、まあ実質上の不老と言えるだろうな。できれば、呪をかけた魔族を見つけ出して解呪させたいと思っている。……せめてもう少し成長しないと、ずっと子供のままじゃ流石に不便だ」
確かにソーマの目から見ても、アージェットは十三歳にしては明らかに発育不良な体格だった。どう見ても十かそこらにしか見えない少年は、二年前に迷子と間違われて普通に保護されかけた、と無表情で言葉を繋ぐ。確かに、このままでは二十を越えたとしても酒も飲めないだろう。
「そう言えばお前、ひょっとして白子なのか?」
容姿の話で思い出したソーマが、アージェットを見た時から感じていた疑問を投げかけてみた。皮膚や目にメラニン色素を一切持たないアルビノは、透けるような白い肌と、血液の色をそのまま映した赤い瞳が特徴だ。アージェットの容貌はそれと合致する。
だが、アージェットは「違う」と言った。
「よく間違えられるがな。考えてもみろ、オレがアルビノだったとして、本当にこんな仕事をしていられると思うか?」
「成程、それもそうか」
その言葉に、ソーマはあっさり納得する。確かにそうだ。紫外線に極端に弱く、皮膚癌になりやすいアルビノが、街から街へと砂漠を渡る生活を長く続けていられるはずがない。
「まあ、それでも普通よりは太陽に弱くて、日焼け止めは欠かせないんだがな。フードとマスクで覆えば何とか対処できるレベルだ」
「苦労してるようだな」
同情するでもなく呟いて、ふとソーマはさっきの話で覚えた引っ掛かりを思い出した。
「……お前、名前がなかったと言ったな。じゃあ、今の名前は村を出た後でつけたのか?」
ソーマの質問に、アージェットは一瞬目を細めた。
ほんの僅か無表情の下から垣間見えた、懐古するような、愛おしむような表情に、ソーマは戸惑った。アージェット自身、自分がそんな表情をしていることを自覚しているかどうか分からない。この少年にそんな顔ができることすら、ソーマは想像していなかった。
アージェットは思い出す。己を初めて名前で呼んだ、あの魔獣の声を。
アージェット・クルージオ。〝罅割れた銀〟。
決して美しいとも曇りがないとも言えない意味を持った名前だが、それでもあの時、アージェットは、その名前を決して失い得ないと思った。
『忘れるな。抱えて行け。だが、囚われるな』
月のような瞳で己に告げられたあの言葉を、今でも昨日のことのように思い出せる。
――だから、きっと死ぬまで己は、この名前と共に在る。
アージェットは、囁くように言った。
「……ああ。
とても、大事な名前だ」
「……と言うかまだなくならないのかそれ。どれだけ作ったんだ」
「冷やす前は大鍋に一杯分くらいあった。混ぜて蒸したら増えたんだ」
「ちょっと待てなんかいろいろヘンなこと聞こえた」
――奇妙な夜はもう少し続きそうだと、思ったのはどちらだったか。