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「さて、行くぞ、コーンフィード。とにかく場所を移動しよう。トウカたちと合流して、まずは医者を探す必要がある」
砕け散った結界の跡に佇んで、振り向いたアージェットはそう切り出した。周囲の光景は先程までと何の違いもないように見えるが、ついさっきまで途切れていたはずの人々のざわめきが遠くから風に乗って届くのがソーマの耳にも聞こえている。
「なんともまあ、非常識な真似をする……」
「『魔獣持ち』にそれを言うのか?」
アージェットは再びただの布切れに戻ったリボンで髪を纏める。座り込んだままのソーマを怪我のない方の腕を引いて立ち上がらせたが、身長差のせいで肩を貸すことはできそうになかった。仕方なく、自分の頭に腕を置くよう指示し、つっかい棒代わりになることにする。
「重くないのか?」
「重い」
「……おい」
「耐えきれないほどじゃない。同僚、お前はオレの職業を忘れていないか」
アージェットは砂漠を渡り歩き、時には魔族と戦うこともある特務神師だ。華奢でも体力はある方だし、魔力で体を強化することで、腕力もある程度カバーできる。見た目が子供だからと甘く見ていたら、手酷いしっぺ返しを食らうことになるだろう。
「……それもそうだったな」
それでもしばらくは、自分の胸ほどもない小さな少年に寄り掛かることにかなり嫌そうな顔をしていたソーマだったが、足元に力が入らないことは自覚していたため、一応は従うことにしたらしい。彼は怪我よりもむしろ、結界珠の連続使用による精神疲労の方が辛いようだった。
「きつかったら言え。先に行ってトウカたちを呼んでくる」
アージェットはそう告げて、ソーマを支えて歩き出す。
トウカたちの気配を探して元来た道を戻りながらも、アージェットは黙々と頭を働かせていた。魔物は逃がしてしまった。これで情報はまたなくなった。次の襲撃を待つか、それともこちらで何とか調べをつけてみるか。
(調べと言っても、大した心当たりはないんだが)
もしかしたらトウカたちの方にも敵が行っているかも知れないが、あまり期待はしない方がいいだろう。こちらに来た魔物にしても尋問が通じそうな相手ではなかったし、連れ去られた自分たちを追いかけるために決着を急いでいたならば、適当な相手を生け捕りにするなどといった対処はする余裕がなかったはずである。
人型の魔物の残した言動。
殺してはならないという台詞。
町の中に入り込んできた魔物。
領域を作るほどの力か、あるいは技術。
そして、結界珠の守りが戻る、という一言。
(――一時的とは言え、町を守る結界珠を無力化させるほどの何者かが、この一件には関わっている)
自分の隣で、傷の痛みにも僅かに眉を寄せるだけにとどめ、精一杯平常通りの態度を保とうとしているソーマを視線だけで見上げる。誤魔化し切れないだろうな、と少しばかり苦々しく思った。
「……あっちも無事だったようだな」
ゆっくりと歩みを進めていた二人の進行方向に、トウカとミュリエラが向かい合っている姿が見える。トウカは路地裏の壁に凭れかけて、ミュリエラは少し離れてこちらに背を向けて。
アージェットたちに気付いたトウカがこちらを見て、頬の筋肉を少しだけ緩めた。それが安堵の表情だと、アージェットは遠目に察する。トウカの反応にミュリエラも振り向き、アージェットに支えられているソーマの姿に悲鳴を上げた。
「……すまなかったな」
全速力で駆けてくるミュリエラはソーマの名前を連呼している。その声に紛れるようにして、ぽつりと一言、白い少年が言葉を落としたのがソーマの耳に届いた。
一瞬だけ伏せた双眸に過った色にソーマが気付いて眉を顰めるよりも早く、再び顔を上げた少年が、いつもと全く変わらない表情に戻って、ミュリエラの後から小走りにやってくる自分の契約獣の名を呼んだ。
ソーマとミュリエラが取っているという宿屋に向かうまでの間、ずっとアージェットを杖代わりにしておくわけにもいかず、自分で歩くと言い張るソーマを半ば無理やり背負ったのは、アージェットの指示を受けたトウカだった。ミュリエラはその人選に強硬に反対し、自分が背負うと言い張ったが、彼女には医者を呼んできてもらいたいというアージェットの意見に最後には折れた。
町に宿は一軒しかないとアージェットが知ったのはその宿屋に着いてからで、できれば医者が来る前に逃げ出しておきたかった彼はその言葉に渋々留まって、ソーマたちと同じ宿に部屋を取ることに決めた。
アージェットたちがソーマの取っている部屋に入って数分と経たないうちに、小麦袋のように医者を担いだミュリエラが人間の限界を超えた速度で飛び込んできた。どうやら彼女は、ただの人間である医者に対する気遣いなど空の彼方に放り出したらしい。年老いた医者は医療器具を詰め込んだ鞄を手に、一見華奢な少女の肩で茫然としていた。
「――大丈夫ですか、ソーマ様? 痛くないですか? だるくないですか?」
そして往診を終えて、医者が帰った後。処方された痛み止めや熱冷ましを確認しながら気遣ってくるミュリエラに、ソーマは素気なく「大丈夫だ」と答えた。
さすがに鍛えてあるようで、思ったより早く治るだろうと医者には言われた。今も薬に包帯を巻いただけで、少なくとも表面上はいつもの調子に戻っている。
病人でもあるまいに寝てなんかいられるか、と言ってベッドを拒んだソーマは、部屋に一つしかない椅子に座っていた。ベッドにはミュリエラが、トウカは床に。そのトウカと、それからアージェットに、ミュリエラがずいっと険悪な目を向けてくる。
「……ところであんたら、さっきからその体勢は一体何なわけ?」
「……何かおかしいのか?」
無表情ながらどこかきょとんとした雰囲気のアージェットは、胡坐をかいたトウカの膝にちょこんと鎮座している。彼を背後から抱え込んでいるトウカは眉一つ動かさず、何やら満足そうにアージェットの頭を撫でていた。
「おかしいに決まってんでしょう!? なんで膝だっこ! ありえないわ! 微妙に羨ましくてムカつくから今すぐ降りなさいよ!」
椅子がない中でトウカと同じように床に座ろうとしたアージェットをトウカが普通に膝に抱え上げたのは往診が始まってすぐのことで、それを目撃して物凄く変な顔をしたソーマとミュリエラを措いてアージェットはどうでも良さそうにこの体勢を享受している。何せこの程度のスキンシップは、はっきり言っていつものことだ。少々一般常識に欠けるアージェットは、トウカから与えられるそれをごく普通に「当たり前」のカテゴリーに入れてしまっているのだ。人、それを刷り込みと言う。
(多分、引き離されて個別に戦闘に巻き込まれたことも、無関係ではないと思うし)
トウカはこれで意外と心配性だからな、とか考えていることをソーマたちが知ったなら、また変な顔をするに違いないだろうが。
こんなことが「当たり前」でないことを知っているトウカはアージェットの勘違いを訂正する気など更々ないので、アージェットとしては何故目の前の二人がそんな顔をしているのかよく分からない。ちなみに医者はアージェットを女の子だと勘違いしたらしく、仲の良い兄妹を見るようなほのぼのした目を彼らに向けて、何度かうんうんと頷いていた。
「トウカ、ミュリエラが気に入らないそうだから下ろせ」
「嫌だ」
トウカを見上げて言うと、トウカは迅速に却下した。
「下りたところでどうせ椅子もクッションもないだろう。なら今のままでも問題はない」
「確かに楽ではあるが、ミュリエラが羨ましいと言っている。これ以上突っかかられれば話が進まないだろう」
「そんなに羨ましいのなら、ミュリエラは他の誰かに借りればいい。ああアージェット、オレの膝をこいつに譲ってやるなんて言うなよ?」
アージェットのボケっぷりは信じがたいことに本物のようだが、トウカは間違いなく先頃絡まれた意趣返しだとミュリエラは確信した。他の誰かと言われても、この場にいる該当者はソーマしかいない。あたしだってやってもらえるもんならやって欲しいわと、無自覚にいちゃつく(少なくともミュリエラにはそう見えている)二人をギリギリ睨み付けながら嫉妬と苛立ちを噛み殺す。
「そいつの膝なんか頼まれたって借りないわよ……!」
「オレもアージェット以外に貸す気はない」
「お前ら、いい加減にしろ。そんなことはどうでもいい」
とうとう突っ込みを放棄したソーマがうんざりしたような声を上げた。
「他に聞くべきことがあるだろうが。クルージオ、とっとと説明してもらおうか」
「どれをだ」
「全部だ」
トウカの膝から聞き返してくるアージェットに、ソーマは端的に返す。
「お前ら、この町には特に目的があるわけじゃないと言っていたが、それは嘘だろう。本当はどういう理由で来た?」
アージェットを睨むソーマの目は、吐くまで逃がさないという気迫に満ちていた。
未だ手甲を外していないところを見ると、万一アージェットたちが逃げ出そうとでもしたら力尽くで止めるつもりなのだろう。何せ彼は腐っても特務部隊で、高い攻撃力と盾使いの魔物のサポートを持つ優秀な神師だ。トウカの力なら彼らを叩きのめして逃げることもできるだろうが、そんなことをして同僚とその自称従者に大怪我でもさせたら咎められるのはアージェットだし、第一本末転倒なのでできるわけがない。そもそも、今回二人は何ら後ろ暗いことなどしていないのだ。
できれば関わりたくなかった連中だが、こうなった以上、残る選択肢は観念して喋ることだけだった。往生際の悪い残りの一部思考を諦念に変えるべく沈黙していたアージェットの態度を言い訳でも考えているものと思ったらしく、ソーマの目が鋭くなる。
「妙なごまかしはするなよ、クルージオ。あの魔物ども、明らかにお前を狙っていただろう。言動もおかしかったし、お前もそれについて何か知っているような様子だった。あくまで吐かないつもりなら、俺はこの場で王都に事を報告することも厭わんからな」
畳みかけるようなソーマの言葉に、アージェットはトウカと視線を交わした。肩を竦めるトウカに、アージェットは仕方なさげに首を縦に振る。
「……分かった。だが、何もかも話せと言われても無理な話だ。オレたち自身、分からないことの方が多いんだからな。まずオレたちがここに来たのは、魔族に呼ばれたからだ」
そう前置きをしてから、アージェットは簡単に事のあらましを説明した。
と言ってもオアシスで襲われてこの町に来るようにと命令されたというだけだから、大した内容ではない。町に着くまで魔物の手出しは一切なかったし、着いたら着いたですぐにソーマたちと遭遇してそのまま済し崩しに巻き込んでしまったため、今更話すことなどほとんどなかった。
相手の正体不明。目的不明。アージェットとトウカのどちらが狙われているのかも、厳密には不明。
数分もかからずに済んだ話に眉を寄せていたソーマは、しばらく俯いて考え込んだ後、ぽつりと言った。
――心当たりがある、と。
「心当たり?」
ことりと小首を傾げたアージェットに、ソーマは顔を上げて視線を戻す。
「クルージオ。どうして俺がこの町に来たのかは、確か言っていなかったな」
「……任務だとは聞いたが」
「この町から少し行ったところに、小さなオアシスがある。そのオアシスは結界珠で厳重に結界を張られていて、魔族どころか人間も近付かないような所だ。今回俺は、そこの結界珠の確認と強化を命じられてここまで来たんだ」
ソーマの目は真剣だった。アージェットも眼差しを少し険しくする。
「結界と言ったな。誰も場所近付かないにそんなものがあるということは、そこに何かがあるのか? 例えば――魔族に対する封印とか」
「正解だ。……そのオアシスには、数十年前に当時の神師の手で泉の中に封印された上位魔族が眠っている」
「…………、」
アージェットの眉根が寄った。背中越しに、トウカの気配も僅かに揺らいだのを感じる。
――上位魔族。
魔物・魔獣・上位魔族の三クラスに分かれる魔族の中で、最も強い力を持つ者たちだ。階級で言えばトウカより上で、アージェットとしても直接会ったことは一度もない。
「なんでも封印された魔族の力を吸収して、封印そのものに還元していく仕組みになっているらしい。少しずつ弱らせて消滅させるつもりだったんだろうが、数十年経った今でも相手は健在。余程強いか厄介な相手だというのは間違いないな」
「そいつを解放しようとする魔族が集まって、オレに封印を解かせようとしていると言いたいのか?」
確認のようなアージェットの問いに、ソーマは小さく顎を引いた。
「偶然にしては出来過ぎてるしな。相手の連中、お前が神師で、魔獣を契約者にしてるってことまで知っていたんだろう? どこからそんなことを嗅ぎ付けたのかは知らんが、お前なら封印を解けると踏んだところでおかしくない」
「つまり、オレは何とかしてこの事件の大元を叩かないとならないというわけか」
大元と言っても、別に封印されている魔族をどうにかする必要はない。問題は今動いている魔物たちであり、裏で魔物たちを統率しているであろう何者かだ。もしもこれらを無視してこの町を離れた場合、脅しの通り町が潰される危険がある。それはアージェットの本意ではなかった。
「コーンフィード。お前、その任務はもう終わったのか?」
「いや、まだだ。町に着いて、封印の在処を確認して、今日にでも出ようかと思っていたところだったからな」
「ならそれは明日に回せ。オレとトウカも同行させてもらう」
アージェットの宣言に、ソーマは予想していたのだろう、首肯するだけにとどめ、黙って話の行方を見守っていたミュリエラは嫌そうにアージェットとトウカを見比べた。
「お前の疲労の原因が結界珠を使用したせいなら、夕方までには回復するだろう。怪我の方は我慢してもらうしかないが、下手に時間をかけて相手に動く隙を与えても困る」
「ふん、いいだろう。精々お前たちの実力に期待しよう」
ソーマはそう言って、思い出したように聞いた。
「そう言えばお前、あの時領域を破ったのはどうやったんだ? 結界珠も使ってないと思ったんだが」
「ああ、オレの右腕は常にトウカと繋がっている。魔族の使う『領域』は強力だが、その分不安定だからな。『外』にいるトウカと力を共鳴させることで僅かでも隙間を見つけられれば、あとはそこを突くだけでいい」
あっさり言われた台詞の内容はとても「だけ」と言えるほど簡単にできることには思えなかったが、ソーマは詳細を聞くことを諦めた。魔獣との契約が根幹にあるなら、自分が追及したところで仕方ないと思っただけかもしれない。
「聞きたいことというのはそれだけか」
「今のところはな」
「そうか。なら、オレたちも部屋に戻らせてもらう。詳しいことを決めるのは明日でもいいな?」
ソーマたちからの返事はない。反論が出なかったことを了承の意ととって、立ち上がったアージェットはトウカを伴ってさっさと部屋を出ることにした。最後まで視線は感じていたが、特に呼び止める声は上がらなかった。
「――怪我はないんだな?」
後ろ手にドアを閉めると同時に、トウカがそう聞いてくる。アージェットは少し躊躇ってから頷いた。
「ない。だが、物質強化を使った。少し疲れた、と思う」
トウカの眉が寄った。
「オレの魔力を供給しておくか?」
「いや、その必要はない。お前、さっきオレを抱えながら、少し魔力の供給をしてくれていただろう。これならしばらく休めば回復する」
「そうか。……何か食べるか?」
そう言えば、まだ昼食も摂っていなかった。そう思ってアージェットがこくりと首肯すると、トウカは先に立って歩き出した。
「宿の食堂に行くか、近くでどこか店を探すか。何か食べたいものはあるか? 疲れているなら、温かいものがいいかもな」
「……ぬるっとしたものがいい」
「………………藻とかか?」
至極真面目に言われた言葉に、トウカは少しだけ引いた。