10
ミュリエラの生み出した魔力の盾が、八本腕の魔物が張っていた盾に正面からぶつかった。接触部分がばちばちと火花を散らし、互いに力を相殺し合う。盾同士が打ち消し合って生じた隙間から異形の左腕を突き込んで、トウカは一気に敵の防御を打ち崩した。
『るガァァァァッ!』
盾を壊された魔物が咆哮するが、新たな盾が張られるより早く、トウカは集まった魔物たちの中へと突進していた。
「――ふっ、」
短く呼気を吐き、左腕を続けざまに振るう。連続して撃ち出された桁外れの衝撃波が局地的な嵐となって、魔物たちの反撃すら飲み込んで荒れ狂った。
「逃がすかぁっ!」
嵐の勢力圏から逃れようとした魔物の前後に、吼えたミュリエラの盾が出現する。ぱんっ、と強く手を叩くと、二つの盾は互いの隙間を一瞬で埋め、間に挟まれた魔物を押し潰した。盾の周囲に飛び散った僅かな血と肉片がすぐに砂へと変わっていく傍で、トウカもまた異形の腕を閃かせて魔物を粉砕していく。一切の無駄のない動きは、反撃を許さず魔物たちを圧倒していった。
――ほどなく、ミュリエラが盾で押し包んだ最後の一体をトウカの衝撃波で盾ごと吹き飛ばしたのを最後に、ようやく辺りは沈黙を取り戻した。
「あーもうっ、何だったのよこいつらは! 余計な時間食っちゃったじゃない!」
角と紋様を再び消し去り、もとの少女の姿を取り戻したミュリエラが、苛立たしげに地面を蹴った。地団太踏まんばかりの少女の様子に溜息をつきながら、トウカもいつもの姿に戻って周囲を見回す。
「確かにだいぶ時間を食ったな。だけどこいつらは、積極的にオレたちを倒そうとしているようには見えなかった」
向こうから襲ってきたくせに、魔物たちは戦闘が始まってすぐ、魔力の盾を張っての防戦態勢に入ってしまった。同じく盾系の術を操るミュリエラがいなければ、もう少し手間を取らされたかも知れない。
(……目的は時間稼ぎ、か)
鳥のような魔物がアージェットを攫っていったところを見ると、例のオアシスで接触してきた敵の本命はアージェットの方なのだろう。そのために、トウカが邪魔だと判じたか。
そこまで考えて、トウカは舌打ちする。現れた魔物たちは排除した。だが、領域を破ってアージェットの元に辿り着く手段は、今のトウカには考えつかない。
「……まあ、アージェットなら何とかするだろうが……」
瞑目して深く息を吐いたトウカは自分に言い聞かせるようにそう呟き、何とか気持ちを落ち着かせる。
大丈夫だ。魔物の一体や二体なら、アージェットの敵ではない。半ば無意識に、無い右腕を撫でるような仕草をする。アージェットにもしものことがあれば、彼に貸している右腕は当然トウカの元に戻ってくる。袖の下に何の感触も感じないことは、今は安心材料だった。
「ちょっと魔獣、なに一息ついてんのよ! あんたの契約主もいなくなってんでしょ、早く追いかける方法考えたらどうなの!?」
苛々と歩き回っては自問自答していたミュリエラが突っ掛かってきた。険悪な感情を隠しもしないミュリエラを見やって、トウカは冷静に返す。
「無理だ。一度領域に入られた以上、オレたちにそれを追うすべはない。自分で領域を作り出すような力があるならともかく、少なくとも今のオレにその技能はない」
「あたしにだってないわよそんなもん! だけど、こうしてる間にもしソーマ様に何かあったらどうするの!? ソーマ様は強いけど万が一ってことがあるもの、早く探し出して追いつかないと……!」
「だから、何とかする方法がないんだから、考えるだけ無駄だと言っている。向こうの機転に期待するしかないだろう」
「この冷血漢! 血管内液体窒素!」
ぎゃあぎゃあと喚くミュリエラに、トウカは今度こそ溜息をついた。真白の少年の姿を脳裏に思い浮かべて、言う。
「アージェットは強い。そして何よりも、あいつはオレの知る誰よりも生き汚い。あいつならこの程度でどうにかなるなんてことはないし、もしも万が一何かがあれば、オレには分かる」
「…………、」
落ち着いたトウカの声にミュリエラが顔を顰める。不快と妬みが入り混じった、何とも言い難い表情だった。
「随分信頼してんのね」
「お前は、コーンフィードを信頼していないのか?」
確認のようなミュリエラの問いに、トウカはわざと質問で返した。ミュリエラとソーマの信頼関係に正直興味などまったくないが、それで喚くのをやめてくれるなら、彼女の相手をして少々の会話に付き合った方がまだましだ。
「信頼、してないわけじゃないわよ。でもソーマ様の方は、あたしのことを信頼してくれてはいないわ。あんただって、それくらいはもう分かってるんじゃない?」
ソーマの名が出て少し頭の血が下りたのか、ふてくされたようにミュリエラはそう呟く。
――トウカだってとっくに悟っているのだろう。ソーマとミュリエラの遣り取りは、決して信頼関係に基づいたじゃれ合いなどではないことを。ミュリエラが諦めてしまえば、呆気なくそこで途切れてしまう関係であることを。
ミュリエラがソーマに付き纏うようになって既に一年以上が経つが、ソーマが未だに自分のことを信頼してくれていないことを、ミュリエラは誰よりもよく自覚していた。
だからこそ、ごく自然なこととして契約主を信頼し、また当然のように契約主からの信頼を信じている目の前の魔獣が、彼女にはひどく妬ましい。
辛うじて『信用』はされていると思う。だがそれも、いつ断ち切られようとも構わない程度の軽さだとも、彼女は知っている。
「あの男が何を思っているかなんて、オレの知ったことじゃない」
眉一つ動かさずに否定も肯定もしない答えを返してくるトウカに、ミュリエラこそ舌打ちをしたくなった。
話を振っておきながら、実際まともに聞く気などこの魔獣にはこれっぽっちもないらしい。しかし黙るのも癪だから、この際この男のことは壁とでも思って喋り続けてやろうと決める。
「あたし、十年以上前、自分の魔力の暴走で死にかけてるところをソーマ様に助けてもらったの。その時はそのまま別れちゃったけど、時間が経って再会して、それからずーっと付いて回ってるわ」
付いて回っているとは言っても、ソーマの意思を無視して無理やりだ。従者を名乗ってはいたが、それをソーマに肯定してもらおうと思ったことは、ミュリエラは一度もない。
ただ、役に立つように努めた。自分に何の期待も抱かせないソーマに何かを求めることは、可能な限りしないと決めている。ミュリエラを本気で突き放そうとはしないソーマの態度は、許容ではなく放置なのだと、彼女はよく分かっていたから。――あるいは彼女に期待を抱かせないことが、ソーマが彼女に向ける、たった一つの優しさだったのかも知れない。
「もしも明日あたしが裏切ったら、きっとあの人は溜息をつくわ。そうして、それで終わりなのよ」
怒ることも、ましてや悲しむこともない。
――無関心。
ソーマは、ミュリエラに何も思ってくれない。
だから、アージェットと契約を交わしているトウカが羨ましい。彼らの間に形ある何かが存在することが、ミュリエラは何より妬ましい。
「……黙ってないでなんか言いなさいよ。励ますとか慰めるとか。あんたが聞いてきたんでしょうが」
「別に相談に乗るなんて言っていない」
「それでもよ! 訊くってことは答える義務を負うってことなの! あんただって、あのお子様神師との距離の取り方に悩むことくらいないの? 神師なんて魔族の天敵みたいなもんじゃない、周囲の目とかあるでしょう。どんな考えであいつの傍にいるのよ?」
詰め寄られて、トウカは困ったように身を引いた。
「……オレとお前とは状況が違うだろう」
「どう違うのよ?」
鬱陶しげなトウカの態度にも、ミュリエラはまだ絡む気満々のようだ。アージェットではないが、心底どうでもいいと素直に言ってやりたくなる。
正直言って、トウカは早くも話をするのに飽きてきていた。他人の人生なんかどうであろうと、自分に迷惑がなければそれでいい。
(ああ、失敗したかも。適当にあしらって、別れて探しに行く振りでもすれば良かった)
本気で嫌なら無視しても良かったが、今更それを実行して煩く喚かれても面倒なので、トウカは仕方なく「答える義務」とやらを果たすべく思考を巡らせる。とは言え、トウカがアージェットとの距離の取り方に悩んだ覚えは生憎一度もなかった。アージェットが神師になる前から、トウカは彼の傍にいるのだ。元より人付き合いに疎いアージェットのことだから、きっと他の人間や神師と一緒にいるよりも、トウカ一人を傍に置いた方がいいと考えるに違いない。かしかしと頭を掻いて、やがてトウカは面倒臭そうに口を開いた。
「……少し前にな、家族も故郷も全部失くして、それを取り戻すために魔物と契約した男と出会ったんだ」
「は?」
唐突に物騒な話を始められて、ミュリエラがぽかんと口を開けた。一拍置いて言われたことを理解したらしく、嫌そうな顔でトウカを見てくる。
「なにそれ……まさかそいつ、死者の蘇生なんて重罪犯そうとしたわけじゃないでしょうね?ソーマ様の手間になるからやめてよ。ちゃんと確認して処置したの?」
「ああ、魔物の能力は蘇生じゃなくて幻影の構築だった。でも人間も何人か喰ってたみたいだし、その男の連れ合いに擬態してた本体共々、アージェットと狩っておいたよ。契約主の男本人も、死にかけた魔物を庇ってその時死んだけど」
――思い出す。魔物に縋り、幻影に縋り、偽物と分かっていた妻を、それでも優しく撫でた男。取り戻したものが決して己の求めていた過去ではないと知っていながら、再び失うこともできずに傍に置いていた。
「縋るものがないと生きていく意味がないって、あの男はそう言っていたな」
「……何が言いたいのよ」
トウカが言わんとするところが分からず、ミュリエラが眉間に皺を寄せる。まあ聞けよ、と素っ気なく言って、トウカは言葉を継いだ。
「あの時オレには、あの男の言っていることの意味は分からなかった。たかが連れ合いの偽物でしかない、しかも既に死にかけていて助からない奴を、命を投げ出して庇う意味なんて、オレには理解できない。でも、アージェットはあの事件のことを少し気に掛けてたみたいだったし、オレ自身、あの男の言葉がどこかで引っ掛かっていたのも確かなんだ。だからあの街にいる間も、それから今も、その理由をずっと考えていた。
それで、ついさっき。お前の話を聞いてて、ふと思ったことがあったんだ。もしも今、アージェットとの契約が切れたらどうなるんだろう、って」
アージェットがちらりと遠くに視線を向けた。アージェットが攫われていった方向を眺めながら、トウカはミュリエラを一瞥もせずに言葉を紡ぐ。
「もし、アージェットとの契約が切れたら、オレはあいつに貸し与えているモノを取り戻して、元通りの力と姿を取り戻して。あいつに与えられた名を捨ててもう一度自由になって、きっとまた、真っ暗な砂漠の闇に沈むんだろうなって。そう、思って――」
軽く、空を仰ぐ。
「――ぞっとした」
何の感情もこもらない声で、トウカは鉄色の双眸を鈍く瞬かせた。
アージェットに出会う前と同じ、自由で退屈で、そして何もない世界。果てのない夜と、終わりの来ない明日と、長い長い、気が狂うほどに長い人生。そんなものがもう一度始まるんだと思うと、死にたくなるほど嫌気が差した。
そうして思ったのだ。もしかしてあの男が恐れたのは、トウカとは違う、けれど同じものだったのではないのか、と。
「オレはアージェットがいなくても生きていける。でも、アージェットがいなければ生きたくはない」
かつて一つの街の領主であったあの男の言葉を完全に理解することはできないが。
少なくともそれが、今のトウカにとっての真実だった。
「……て言うかあんた、『あいつに与えられた名を』って言ったわね。まさか名付けの儀までやってるの? ますます腹が立つんだけど」
しばし沈黙していたミュリエラが、ふと思い出したようにツッコミを入れてきた。八つ当たりじみた怒りと嫉妬をふんだんに盛り込んだ眼差しに、どうしてこんなことを言われながらここまで喋ってやらないといけないのだろうと思いながらも、こうなったら言うだけ言ってさっさと終わらせようと、トウカは話を続ける。
「そうだよ。オレの名付けは契約と同時に行った。そうして、それからしばらく経った頃、今度はオレがアージェットに名前をつけた」
「あんたが神師に? 改名したってこと?」
「違う。出会った頃、あいつは名前を持っていなかった。だからオレに与えてくれるようにあいつが頼んできたんだ」
名付けはそのまま所有の証だ。そのことを説いて、名前が欲しいなら自分で付けろと言ったトウカに、ならば尚更だと少年は言った。
トウカだけなのはだめだ、と。
足りない語彙で、それでもはっきり告げてきた。
トウカだけが自分に所有されるのは不公平だ、と。
「オレはずっと、自分以外の周りなんてどうでもいい気持ちでやってきたから、他人の機微なんて分からない。今だって根本的な姿勢は変わっていない。だから、あいつがオレを心の底ではどう思っているかなんて分からない。でも、それはあいつにとってのオレも同じことだ。
あいつは掴みどころがないし分かりにくい。どっちかと言えば、言葉も足りない方だと思う。でも、あいつがあの名前を名乗っている限りは、オレは不安にはならずに済むんだ。オレが与えた名前を名乗るということは、そのままあいつの意思表示だからな。それさえ分かっているならあいつが何をやっていようがどうでもいいし、周囲のことなんか何の興味もない。オレに何らかの影響を与えられるのは今も昔もあいつだけで、あいつ以外の何者かなんてあり得ないんだから」
「…………」
トウカの台詞に、ミュリエラは今度こそ黙り込んだ。本気で不機嫌そうな顔で、眉間に皺を寄せてトウカを睨み付けた後、ややあって大きく溜息をつく。
「……あたしさ、あの子供のこと嫌いだったのよね。魔獣なんかと契約してるし、ソーマ様が虫が好かない様子だったから」
「そうか」
普通に返してくるトウカを、ミュリエラは半眼で睨みつけた。
「実際会ってみたら、チビのくせして生意気だし、なんかスカしてるし、人形みたいな無表情だし、ソーマ様には逆らうし、そのくせあたしにもソーマ様にも全然興味がなさそうだったし。あたしたちを嫌いっていうより、興味もないしできれば関わりたくないって感じ? とにかく、むかつく」
「そうか」
さっきから思っていたが、この魔物の少女は意外に観察眼が鋭いようだ、と手近な壁に凭れながらトウカは考える。実際にはその思いを表面に出すことはなく、ただ腕を組んでミュリエラを見下ろしていただけだったが。
「そんであんたのことも、その次くらいに嫌いだった。あんた、あたしやソーマ様のことなんか視界にも入れてないって顔してるし。ソーマ様が嫌ってる奴の契約獣で、その上あたしにないものを持ってることも妬ましかったから」
「そうか」
相槌を打ちながら、トウカは本格的に面倒臭くなってきた。どうでもいい相手からの恨み事を心に響かせるほど、自分がお人好しではないことくらい知っている。どうでも良くない相手というのが誰なのかと問われると、一人思い浮かべたところで、もう次が思いつかなくなるのだが。
「でも今、あんたのことがあの子供以上に嫌いになったわ」
そんなトウカの心中を、もしかしたら薄々察していながら、ミュリエラは言った。
「あんた、あの子よりもずっとやばくて嫌な奴だわ。あんたはあの子以上に、他人に全然興味がないのね。拒絶してるってわけじゃない。ただ本気で、まじりっけなしに、心の底から全部がどうでもいいだけなのよ。だから何も感じない。初めて会った相手だろうと十年来の知り合いだろうと、何も思わずに握手して、何も思わずにそのまま相手の首をかっ飛ばせるタイプだわ」
冷たい、というのとは少し違う。
ただ、熱がない。トウカは、誰かに対して好意も嫌悪も抱かない。
彼はただ、じっと見ているだけだ。
彼が誰かを見捨てるとしても、それは相手のことが嫌いだからではない。その相手が目の前でどうなろうが何も思わないからで、そんな相手がいたことすら一秒後には忘れ去っているだろう。彼は、どうでもいい相手を決して認識しないのだから。
だからこそ、ある意味において恐ろしいほど「魔族」であるこの青年が今アージェットの傍にいるのがどれだけの奇跡か、ミュリエラにもおぼろげに理解できる。
彼の世界で唯一『生きている』あの真っ白な少年のために、トウカは眉一つ動かさずミュリエラたちを殺すだろう。トウカは、アージェットの目を通してのみ世界を見ている。それはミュリエラにとってトウカに対する評価を上げる効果はなく、むしろ一層の呆れを以て眉間の皺を深めるだけではあったけれど。
あの少年が誰かに傷つけられたりしたら、トウカは迷わず相手を敵とみなすに違いない。けれどそれでもきっと、この男は相手を憎むことはないのだろう。彼が見るのはアージェットが傷ついたという事実だけで、相手自身の存在を認識する必要など微塵も抱かないのだから。
だからこそ。
「あたしやソーマ様を見てすらいないあんたが、あたしは大嫌い」
心からの感情を込めて、ミュリエラはそう言い放ち。
そうして、トウカは答えた。
「そうか」
ミュリエラの顔が、これまでで一番盛大に顰められた。