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プロローグ

 出会った時、その子供は死にかけていた。


 月のない夜の闇の中で、子供を見下ろす二つの瞳だけが煌々と輝いている。どす黒く染まった砂の上に倒れている子供は、見るからに虫の息だった。


 全身が余すところなく傷だらけのぼろぼろで、粗末な服もぼさぼさの髪も、元の色なんかちっとも分からないくらいだった。二の腕から先が無い右腕は、もう流す血もないとでも言うように、凝固した血液がこびり付いた断面を覗かせている。


「――お前、何してるんだ」


 声をかけたのは気紛れだった。


 最近退屈だったから、何となく気が向いた。どんな些細なことであれ、自分の興味を惹くものは貴重だ。


 彼の問いに、子供は答えなかった。彼は声のトーンを変えることなく、淡々とまた問うた。


「そんな所で寝っ転がってると喰われるぞ」


 オレは喰わないけど、と胸中でだけ付け加える。死にかけの子供に手を出すほど飢えてはいないし、何より誰かに狩られた後の獲物に手を出すなんて、自分の矜持が許さなかった。


「聞こえてるのか」


 何を言っても、子供は反応を返さなかった。


 うつ伏せになっているから表情も分からない。ひょっとしてもう死んでいるんじゃないかと思ったが、耳を澄ませるとそれでも微かな呼吸音が聞こえた。それもやっぱり今にも途切れてしまいそうに微かで、たとえ今すぐ病院に担ぎ込まれたところでこの子供が助かることはあり得ないのだろうと容易に想像することができたけれど。


 ――彼は溜息をついた。


 もしも相手の意識がないのであれば、こうしていたところで返事が返ってくるわけがない。今度話しかけて応えが無ければ立ち去ろうと考えて、彼は最後の問いを投げ捨てるように放った。


「お前、死ぬのか?」


 数秒待っても、応える声は上がらなかった。


 もう一度溜息をついて、彼は何の感慨もなく身を翻した。――その足を、細っこい何かがガシリと掴んだ。


 振り向いた彼の目に映ったのは、こちらを見つめる瞳だった。


 地面に頬をつけたまま、彼から見える左目だけを動かして見上げてくるその視線は、痩せ細った子供の体にいっそ不釣り合いなまでのぎらぎらとした輝きを含んでいた。睨むように、しがみつくように、一つだけの視線が、彼をしっかりと捉えていた。


 ――その瞳の強さに息を呑んだ。


 思い返せば、随分と長い長い時を生きてきたと思う。目の前で死を見たことだってあったし、彼自らが誰かに死を与えたことだってあった。人間が生に縋り付く様なんてそれこそ何度も目にしてきたし、それらの姿はともすれば醜いとしか思えないものばかりで。


 それでも、今の彼がそう感じなかったのは、子供の瞳の奥にあるのが、恐ろしいほどに純粋な瞋恚だけだったからだ。


 ――瞋恚。


 それは、彼がこれまでほとんど触れてきたことのない感情だった。なのに彼は、子供が浮かべるその感情につけるべき名前を、それ以外にどうしても思いつかなかったのだ。


 執着と言うには熱過ぎる。本能と言うには冷ややか過ぎる。そこに存在するのは、唯々燃え滾るような赫怒の炎、それ一つ。


 子供が怒りを向けているのは、恐らく無様に地に伏している自分自身や、その原因を作った何かや。しかし、その炎が向けられる対象には確かに自分も含まれているのだと理解して、なぜか突然、どくりと鼓動が高鳴った。


 彼が手放して久しい生に対する執着というものが、子供の小さな手からじかに伝わってくるような気がした。ふざけるな。侮るな。誰がここで死ぬものか。死んでたまるか。枯れ切った喉に声はなくとも、子供は全身でそう叫んでいた。


「――――……、」


 我知らず彼は、乱れかけていた呼吸を整える。


 子供の力など大したものではないはずなのに、その手をどうしても振り解けない自分がいた。自分が何もせずとも、ただ放置すれば子供はこのまま逝くだろう。自分を見上げる炎に満ちた瞳は閉ざされ、二度と開くことはない。そうして自分はまた一人、闇の中へと消え失せて――


 ――彼は、ゆるりと体の向きを変えた。子供の傍に膝をつき、二の腕から先がない、枯れ枝のような右腕に触れる。


「助けてやろうか」


 囁くような問いかけに、子供の手が僅かに震えた。


 子供の体はもう持たない。死は確実。けれど、自分なら。


「オレに命じろ」


 彼は言った。


「何でもいい。オレに名を与えろ。その名を呼んで、お前の願いを命じろ。叶えてやる」


 独り、闇の中を彷徨い続けた彼に名前はない。昔はあったのかも知れないが、忘れているのだから同じことだ。


 与えられた名前を受け入れることは、それそのものが所有の証となる。単純な契約のみならず、名付けの儀まで行ってこんな子供に己の所有権を与えようなど、気紛れにしてはあり得ないほどの破格の待遇だった。けれども、その子供が叩きつけてきた強烈な感情が――この鮮やかな熱が自分の前から永遠に失われるのは、ほんの少しだけ惜しいと思えたから。


「呼べ」


 ゆっくりと、殊更言い聞かせるように静かに囁く彼に、子供の瞳が一瞬だけ迷うように揺らめいた。


 ――一瞬だけだった。



「――――――…………、」



 子供の小さな唇が、掠れた声を零す。文字通り最後の命を振り絞ったその声を、彼は正しく拾い上げた。


 ふ、と力が抜け落ちて、子供の手がことりと落ちた。瞼を閉ざした子供の頬を、彼は己の右手でそぅっと撫でた。


「――叶えてやろう」


 彼の右手が、静かに輝いた。


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