34 いざ、舞踏会へ(4)
――パァンッ!!
ホールに鋭く高い衝撃音が響き渡る。ケイシー様は右を向き、呆然としながら左頬を押さえた。
頭で考えるよりも、先に身体が動いていた。痺れるような右手の痛みに、我に返る。
私はケイシー様の頬に平手打ちをしたのだった。ただただ大切な人を護りたかった、その一心で。
「――今の言葉を取り消してくださいっ! ……殿下への冒涜、私は許しません!」
自分でも驚くくらい、冷たい声で私はケイシー様に言い放った。
彼女を、真っ直ぐに見据える。不思議なことに、私の心は至極落ち着いている。
「……殿下は誰よりもこの国や、セレニーノ国のことを思いながら、その狭間で孤独と戦ってきた方です。何も知らないのに、そんな貶めるようなことを言わないでっ!」
母やセレニーノを憎んではいないと、切なげに笑い、月を見上げていたあの横顔が思い出される。人々の心無い言葉に、どれだけレノ様が傷付いてきたのか、私は知っている。
「ケイシー様……、あなたは私の初めての友達でした。孤独だった私に声を掛けてくれて、とても嬉しかった……。だから、本当は信じたかったのです。……でも、もう、許すことはないでしょう」
私がケイシー様を見つめていると、彼女の紫色の瞳が僅かに揺れる。
「……さようなら、ケイシー様」
「……」
ケイシー様は顔を歪めて、力無く項垂れる。そして、一言も発することなく、騎士たちに連れて行かれた。
騎士たちの足音が去り、パタンと静かに扉が閉じられると、再びホール内は静寂に包まれる。
私はまだ痛みの残る震える右手を、左手で押さえた。
(いくらケイシー様が悪いとしても、怒りに任せて頬を叩くなんて……)
「ティナ、手、大丈夫か?」
気が付くとレノ様が私の正面に立っていて、気遣うような声を掛けてくれる。私は見上げることはできず、頭を縦に振った。
「は、はい……。あの……殿下や、陛下の御前で、はしたない振る舞いをしてしまい申し訳……ございません……」
「……いや、おまえにこのようなことをさせてしまった俺の責任だ。すまない……。だけど、俺の為に怒ってくれて、嬉しかった……、ありがとう……」
そう言ってふわりと顔を綻ばせる。
「……レノ様……」
レノ様は私の右手を、まるで宝物に触れるかのように大きな手で優しく包み込んだ。
その温もりに張り詰めていた緊張が解け、しだいに視界が涙で滲む。
「……ティナ、陛下に報告しないといけないんだ、一緒に来てくれるか?」
「……はい、分かりました」
レノ様はそのまま私の手を引き、陛下のいる玉座の前に連れて行く。
陛下の御前でレノ様は一礼し、私も膝を折り最敬礼を捧げる。
「陛下、この度はお時間をいただきまして、ありがとうございました。無事、遂行いたしました」
「あぁ。長年のメイコブ国との友好関係に亀裂が生じるところだった。レノックス、礼を申す。……アシュトン伯爵令嬢、面を上げよ」
陛下の許可を得て私は頭を上げた。
「此度の件は、其方の小さな命への慈しみの心が、我が国を亡国の危機から救う端緒となったのだ。レノックスと共に良くぞ解決してくれた、 見事である」
陛下からお褒めの言葉を賜り、驚いて私はレノ様へ顔を向けた。彼は満足げな笑みを見せる。
(私なんて、何もしていないのに。レノ様が私の些細な言葉を聞いて、動いてくれたから……)
「絶滅したとされたセレニーノの黒蝶の復活にも、尽力してくれたことへも、併せて礼を申すぞ」
「み、身に余るお言葉を賜り、光栄でございます……」
恐縮して声が震えてしまう。
私はただ毛虫ちゃんたちが可愛くて、それだけだったのに、こんなにありがたいお言葉をいただくことになるなんて信じられない。
(これもみんな、ありのままの私を肯定してくれた、レノ様のお陰だわ……)
「アシュトン伯爵令嬢には、引き続きレノックスを支え、共にセレーネ領の復興と、黒蝶の復活に励んでほしい」
(……ん? セレーネ領の復興と、黒蝶の復活……?)
陛下のお言葉の意味が理解できずにいると、レノ様が珍しく狼狽えた様子で間に入った。
「陛下っ、そのお話はまだ……っ!」
「お、そうか、すまんすまん」
そう言って口の端を吊り上げて笑う仕草を見せた陛下は、レノ様とそっくりだった。
「私たちはこれで失礼してもよろしいでしょうか?」
「おぉ、構わない。ちゃんと彼女に話しなさい」
「言われなくても……」
ぼそりと呟いたレノ様は再び私の手を取った。
「じゃあ許可も得たし、行くぞ」
「……えっ?」
人の波がさっと引くその真ん中を、軽やかに歩くレノ様に手を引かれて大広間を後にした。
灯りが点々と灯る廊下を進むと、大広間の方から音楽の演奏が漏れ聞こえてくる。舞踏会が再開されたらしい。
庭園に面した回廊までやって来ると、今度は虫たちの音色が響いてきた。少しひんやりとした夜風が吹き抜け、夏の終わりを告げている。
(そういえば、前にもこんなことがあったわね……)
ケイシー様たちの婚約披露パーティーで、レノ様に手を引かれて歩いたこと。ぼんやりと思い出していると、レノ様が静かに足を止めた。
「……あのオヤジ、わざとバラしたな……」
レノ様は不機嫌そうに、小声でぼそりと毒づいた。
(あのオヤジ……って、陛下のことよね!? そんなこと言えるのはレノ様だけだわ……)
ふと柱の隙間から注ぎ込む月光に気付き、空を見上げると、丸い月が輝いていた。
「わぁ……」
思わず口から声が漏れると、レノ様がこちらに振り返る。
「ん? どうした?」
「今夜は満月だったんですね。レノ様も見てください。まるでクマちゃんみたいな夜空ですよ。……ふふっ、綺麗ですね……」
しばらく美しい夜空に見惚れていると、何となく視線を感じて横を向く。
(な……っ!?)
一緒に月を見上げてばかりいると思っていたレノ様が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。その射抜くような視線に私の心臓が飛び跳ねる。
私の心の奥まで見透かしてしまいそうな深い黒い瞳は、ランプの灯りを反射し、底知れない妖艶さを漂わせていた。
「……えっと、な、なんでしょうか……っ?」
動揺を隠しきれず、声が上擦ってしまう。




