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30 北の離宮

 木々に覆われた中にひっそりと佇む、北の離宮へ到着した。

 レノ様に手を引かれ馬車を降りる。入口へと続く土の小道を進み、池を跨ぐように架けられた石橋を渡った。池の水面には白や薄紅色の睡蓮が咲いている。

 絢爛豪華な本宮とは違い、この場所だけ時がゆっくりと流れているかのようだった。


 二日前に『会ってほしい人がいる』とレノ様に言われ、連れてこられた場所はここだ。

 この北の離宮では、レノ様の母君である側妃様が暮らしている。

 クマちゃんはレノ様に渡すつもりでいたが、私まで側妃様にお会いすることになるとは思っていなかった。

 病気療養されているというのに、私のような部外者が伺ってもいいのだろうか。


 側妃様のいらっしゃる寝室の手前に差し掛かった時、私は二の足を踏んだ。

 クマちゃんの入ったドーム型の虫籠を胸元に抱えつつ、前を歩くレノ様の背中に声をかける。

「あの、レノ様。本当に私もお邪魔してもよろしいのですか……?」

 レノ様は振り向き、私の何度目かの問い掛けに溜息をついた。

「はぁ、さっきから言っているが。この黒蝶を羽化させたのは、おまえだ。そのおまえが黒蝶を連れて行くのは道理だろう?」

「……はい。レノ様がそう仰るなら、分かりました」

 私がようやく納得してうなずくと、レノ様は口元を緩める。

「やっと覚悟ができたか。じゃあ、入るぞ」


 レノ様が静かにドアをノックする。

「母上。レノックスです」

 そう言うと重厚な扉が開き、侍女が恭しく頭を下げる。

「レノックス殿下、お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」

 レノ様の後ろに続き、私も足を踏み入れた。


 一歩室内に入った瞬間に、至るところに飾られた様々な花の甘い香りが漂ってくる。

「わぁ……綺麗……」

 私の口から声が漏れると、レノ様が小さな声で教えてくれた。

「母上は、この国では唯一、花だけは気に入っているんだ」

「そ、そうなんですね……」

 故郷を奪われた側妃様の心中を察すると、それ以上言葉にできなかった。


 ベッドの上に身を起こしているその方は、息を呑むほどの美しさだった。透き通るような白い肌に、漆黒の長い髪。触ると壊れてしまいそうなほどの華奢な身体をしている。

「あぁ……、レノックス。いらっしゃい……」

 レノ様とそっくりな黒い瞳でこちらを捉えると、側妃様は儚げな笑みを浮かべた。

「母上、ご加減はいかがですか?」

「そうね……、今日はとても……気分がいいわ」

「それは良かったです。……今日は、母上に紹介したい人を連れて来ました。彼女はティナ・アシュトン伯爵令嬢です」

 そう紹介されると、側妃様の視線がこちらに注がれる。

「ようこそ、いらっしゃいましたね……、ティナさん。レノックスから聞いているわ……」

 私は慌ててカーテシーを捧げようとするが、両手で虫籠を抱えていたのできない。膝を折れば虫籠が傾いて、クマちゃんが驚いてしまうだろう。だからといって、王族の方に挨拶をしないなんて不敬に値する。

 私が焦っていると、側妃様が優しく声をかけてくれた。 


「……ふふっ、畏まらないでいいわ。……レノックスが言っていた『見せたい物』って、彼女が大事に抱えてる物かしら?」

「はい。母上の為に彼女が育てたのです。……ティナ」

 レノ様に促され、私は側妃様の前に虫籠を差し出した。

「こちらをぜひ、側妃殿下にご覧いただきたく存じます」


 側妃様は不思議そうに頭を傾げ虫籠を見つめていたが、次の瞬間、その瞳から美しい雫が一筋流れ落ちた。


「こ、これ……は、く、黒蝶……っ。セレニーノの、黒蝶だわ……っ。……もう二度と会えないと思っていたのに……っ。夢を見ているの……?」

 はらはらと流れ落ちる涙。虫籠に震える手を差し出しながら側妃様は信じられないという表情で、こちらに顔を向ける。レノ様は側妃様の背中に手を当て、震える彼女を支えた。


「いいえ、夢ではありません。……黒蝶は生きることを諦めず、新しい地で命を繋いでいたのです」

「……そ、そうなのね……」

 側妃様は細い指で顔を覆い泣き崩れている。レノ様の瞳も潤んでいるよう見えた。

 これ以上私がここにいるわけにはいかないと思い、虫籠を侍女に預け、そっと部屋を後にする。


 廊下でしばらく待っていると、部屋の扉が開く。

「ティナ、すまなかった。……ここにいたんだな」

 僅かに目を赤くしたレノ様が室内から出てきた。

「はい。黙って退室して申し訳ございません。側妃様のご様子は?」

「……あぁ。泣き疲れて眠ったよ。まるで子供のようだな。でも、母上のあんなに感情を露わにした姿を見たのは初めてだった……」

 レノ様は穏やかに微笑むと、こちらを真っ直ぐと見つめた。


「それもみんな……ティナ、おまえのお陰だ。……ありがとう。感謝している」

「え……っ、いえ、私はなにもっ! ただ、クマちゃんが可愛くて育てていただけですし」

 私は慌てて両手を振った。

「いや。しかし、あの時、毛虫を育てたいとおまえが言わなかったら、黒蝶とは出会うことができなかった。……おまえが虫好きで本当に良かったよ」

 優しく微笑むレノ様に言われ、胸がいっぱいで目頭が熱くなる。


 本当は心の奥のどこかで私は傷ついていたのかもしれない。『変わり者』『気持ち悪い』そう言われても、気にしないふりをして自分を誤魔化してきた。

 でも、本当はそんな私を誰かに認めて、受け入れてほしかったんだ。

(レノ様は、……こんな私でもいいのだと、言ってくれるのね……)


 瞳から涙が溢れると、レノ様は焦ったように私の顔を覗き込んだ。

「どうしたんだ!? 俺は何かおまえを傷つけるようなことを……っ」

 そう言いかけて、言葉を止めた。

「したかもしれないな……。あの女……、ビーン男爵令嬢の件は色々、悪かった……。でも、もう終わりだ」

 レノ様の温かい指先が、私の涙を優しく拭う。

「……終わり……?」

(ケイシー様の件が、終わりって……?)

 どういうことか分からず聞き返すと、レノ様は口角を吊り上げた。


「あぁ。今度の宮廷舞踏会で、な」

「宮廷舞踏会……?」

 レノ様は私の手を取り、真剣な眼差しを向ける。


「ティナ……、俺のパートナーになってくれないか?」

「えっ? 私がレノ様のパートナーに!?」

 第二王子のパートナーを務めるなんて大役を、私なんかができるわけない。首がもげるかと思うくらいに横に振った。

「……そんなに嫌なのかよ」

 レノ様は意外なほど素直に不貞腐れたような表情を見せる。


「いえ、違います! 私は婚約破棄された身で、社交界では『毛虫令嬢』と呼ばれ評判は良くありません。そんな私とでは不評を買ってしまうだけです。……レノ様のご迷惑になってしまいます……」

 自分で言った言葉に、胸がツキンと痛む。


(本当に、レノ様とは……、遠いところにいるのね……)

 改めて思い知らされ、顔を伏せる。


「おまえが婚約破棄されてなければ、俺のパートナーにはなれないだろ。それに、俺も元は『悪魔王子』という異名を持っていた。……お似合いだろ?」

 そう言って不敵に笑う彼を、私はただただ呆気に取られて見つめた。


(……レノ様には、敵わないわ……。私も強くなりたい。彼に少しでも釣り合うように……)


「……よろしくお願いします」

 私はその大きな手を握り返す。

「あぁ、すべて終わりにしよう。……舞踏会でな」

  


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