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29 温かな腕の中で(2)

「――ティナ、大丈夫か!? 怪我はしてないかっ!?」

 

 レノ様は血相を変えてこちらに駆け寄ると、落ちていたナイフでロープを断ち切ってくれる。私は自由になった手で、口を巻いていた布を外した。


「はい……っ。ありがとうございま……っ」

 お礼を言い終わる前に、私はレノ様にぎゅっと抱き締められた。

「助けが遅れて……すまなかった……」

 レノ様の低い声が微かに震えている。


 温かい腕の中で、自分が助かったのだとようやく実感できて、再び涙が溢れ出した。

「レ、ノ……様……っ」

 広い胸に顔をうずめると、背中に回された手に力が込められる。

「無事で、よかった……」

「……はい……」

 少し速いレノ様の心音を聞いているうちに、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、身体の力が解けていく。しばらくの間、私は彼の胸に身を委ねていた。

 

「……どうして……ここが分かったんですか……?」

 私の問い掛けにレノ様は身体を離す。


「……あぁ。実は疑惑の解明のために、ある貴族を調べていたんだが、そこにクリフの関与が浮上したんだ。しかもあいつは、研究所の貴重な蝶の標本を横流ししていた」

「えっ!? 標本を横流し!?」

「そうだ。それで王家の影に監視させ、しばらく泳がせていたんだが。まさか黒蝶が羽化し、それを狙っておまえを攫うとはな。……完全に俺の落ち度だ。すまなかった……」

 レノ様は苦しげに目を伏せ、再び謝ってくれた。彼の髪は乱れ、額に汗も滲んでいる。私を助けるためにこんなに必死になってくれたのだとわかり、胸がいっぱいになった。


「……いいえ。こうやってレノ様が助けてくださったのですから、私は……嬉しい……です。ありがとうございました……」

 私はレノ様を安心させるように笑顔を見せる。しかし、彼の表情は一向に晴れない。


 私の肩にかかる無惨に切られた髪を、一束掬い上げた。

「おまえの髪をこんなふうに傷つけて――くそ、許さねぇ」

 レノ様は悔しそうに顔を歪める。

「あの、髪はすぐに伸びますので、気にしないでください……」


「……髪の毛の一本だって、傷つけたくなかった」

 そう言って、私の髪に優しく唇を落とした。

「えっ!? ……れっ、レノ様!?」


 驚いて声を上げると、彼は髪に唇を寄せたまま上目遣いにこちらに視線を向ける。

「っ!?」

 熱を孕んだような黒い瞳に射抜かれ、身動きが取れなくなってしまった。

 自分の心臓の音がうるさいほど響いている。


(な、なんかレノ様の雰囲気が、ちょっと違う……ような……?)

 その瞳に囚われ、息を吸うことすらままならない。

 レノ様の顔がゆっくりと近づいてくる。

 息のかかりそうな距離まできたとき、思わず顔を背けた。


「あ……の、レノ様……。ちょっと、ち、近い……と思います……っ」

「近づいてるんだから、当たり前だろ?」

「そ、それは……、ど、どうしてですか……?」

「……ふっ、それを俺に言わせたいのか?」


 耳元に低い声が落とされる。レノ様の熱い吐息が私の耳をくすぐって、ぞくっと全身が痺れた。

「ひゃっ……いえ、その、言わせたいとか、そういうわけ……では……。えっと、グレイさんも見ていますし……っ」


 助けを求めて入口付近で待機しているグレイさんに視線を送ると、ふいと逸らされた。

「あいつのことは、石像とでも思っておけ」

「せ、石像……とは、ちょっと無理があると思いますが……」

 頭が真っ白で、しどろもどろに話していると、長い指先が私の顎に触れる。


「ティナ、もう黙れ。……ほら、こっち向けよ」

 甘く囁かれ、顔を正面へ向かされてしまう。間近で目が合って、心臓が破裂しそうになった。


(ど、ど、どうしたら……っ。これ以上は、緊張で死んでしまいそう……っ)


 黒い瞳から逃げるように視線を横に走らせると、目の端に黒い影が映った。

(え……っ? あれって……)


「――クマちゃん!」

「く、クマちゃん!?」

 私が叫び声を上げると、レノ様は虚を突かれたように身を離す。

 

 虫籠から逃げ出した黒蝶は、狩猟小屋の中を自由に飛び回っていた。

 壁の隙間から差し込む日差しを浴びると、黒い翅に反射しキラキラと光を放っている。薄汚れた空間が、まるで浄化されていくようだった。

 私とレノ様はしばらく、その優雅な黒蝶の舞に魅せられていた。


「あれが、黒蝶か……」

「クマちゃん……、綺麗……」

 私たちの口から感嘆の声が漏れる。


「って、見惚れてる場合じゃない、捕まえないと! グレイ、何か網とかないのか?」

 レノ様は慌てて立ち上がると、グレイさんに声をかける。

「はっ。少々お待ちくださいっ」

 グレイさんは狩猟小屋の内部を探し始めた。

 私が立ち上がろうとすると、レノ様が手を差し出してくれたので、その手を取った。

「ありがとうございます……、あっ!」

 黒蝶が私たちの間をすり抜け、天井に上がっていった。


 見失わないように必死に目で追いかけていると、再び下に降りてきて、そっと傾いたテーブルの角に羽を休める。

「あっ、そこに止まったな」

「……レノ様っ」

 私は人差し指を唇に当て『静かに』と言うように合図する。


 呼吸を整え黒蝶にゆっくり近づくと、傷つけないようにそっと優しく、人差し指と中指の間で翅の付け根を挟み込んだ。

 私の指先で翅を揃えて、おとなしくしているクマちゃん。それを見てレノ様は一瞬目を見開いた後、口元を緩める。

「……見事だな……」


 無事、クマちゃんを虫籠の中に戻し終えてほっとしていると、レノ様が真剣な眼差しで私を見下ろしていた。


「……おまえに、会ってほしい人がいるんだ」

 

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