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28 温かな腕の中で(1)

 ゆっくりと目を開けると、辺りは見覚えのない景色だった。

 色褪せて剥がれかかった床には厚く埃が溜まり、部分的に朽ちた板壁からは僅かに光が差し込んでいる。

 長期間放置されたような古い暖炉に、壊れかけて傾いたテーブル。壁には獣の皮が掛かっている。今はもう使われなくなった古い狩猟小屋のようだった。


「――っ!」

 起き上がろうと身をよじると、手足に鈍い痛みが走った。私は後ろ手に縛られ、足首にもロープがきつく食い込んでいる。口にも布のような物が巻かれていた。


(うそ……っ、どういうこと……? そうだわ、クリフさんに……っ)

 クリフさんに話があると言われ、途中で薬品を嗅がされたことを思い出した。状況が段々と飲み込めてくると、恐怖で鼓動が激しくなってくる。


「あ、起きたー?」

 そんな時、頭上から場違いなほど軽い声が降ってきた。

 コツ、コツ、と乾いた足音が近づいてきて、私の目の前で止まる。

 視線を上に向けると、クリフさんは冷ややかに笑い、こちらを見下ろしていた。


「……っ!?」

 私が逃げようと、もがけばもがくほどロープが手足に食い込んでくる。

「あー、そんなに怯えなくても大丈夫だよー。あんたに危害を加える気はないんだ。俺の目的はこれだよ、これ」

 クリフさんはその場に屈み込むと、私に見せつけるように籠を取り出す。それはクマちゃんの入った虫籠だった。


(――!? クマちゃんが、目的……!?)

「ん~っ、ん~っ」

 口が縛られていて言葉にならないが、声を張り上げると、クリフさんは私の態度を見て面白そうに笑う。


「くくっ、何? どういうことかってー? そりゃあ、セレニーノの幻の黒蝶なんて、相当高値で売れるってことさ」

(売る……っ!? そんなこと許さないっ!)


 私は必死に首を横に振る。レノ様がお母様のために懸命に探し求めていた黒蝶を売るだなんて、絶対にさせない。

 私は憎しみを込めてキッと睨む。しかし、彼にはそんなものは全く通用しなかった。


「生きた蝶の愛好家がいるんだよ。その侯爵様に売れば、しばらくは贅沢な暮らしができるだろうなー。そうしたら、さっさとこの国ともおさらばさー」

「ん〜っ、ん~~っ」

 声を上げ、必死に抵抗する。首もさっきよりも激しく振った。

「うるさいなー」

 クリフさんは指先で、くいと強引に私の顎を持ち上げた。


「ついでにあんたも、一緒に他国に連れていってやってもいいよ?」

「!?」

「婚約者に二度も捨てられた可哀想なご令嬢。どうせもう、行き場なんてないんでしょ? この俺が貰ってやるんだから、感謝してもらいたいくらいだよー、くくっ」

 まるで血の通っていない人間かのような冷めた瞳で、笑いながらこちらを見下ろす。

(そんな……)

 恐怖で全身が小刻みに震え始める。


「この場所が見つかるのも時間の問題だし、さっさとこの黒蝶を売ってこねえとな。あんたはもうしばらくここで大人しくしてなよー」

 クリフさんは立ち上がると、こちらに背中を向けた。


(うそ、クマちゃんが売られちゃう! ……そうはさせないわ……っ!)

 私は不自由な身体を懸命に起こし、両足で地面を蹴り、その背中目掛けて力の限り体当たりをした。


「――うわっ!?」

 その衝撃でクリフさんは虫籠を手から落とす。

 私はその隙に、虫籠をどうにか縛られた手と背中の間に挟み、毛虫のように這いずり出口に向かう。

 しかし、もう少しというところで足首を乱暴に掴まれ引き戻される。


「ねぇ、大人しくしてろって言ったはずだよー?」

 クリフさんは口元に笑みを浮かべているが、その瞳には怒りが込められている。ゆっくりと目の前にナイフを突きつけた。

「っ!?」

 私は息を呑み、恐怖で身体が硬直する。


「あんたを傷つけるのは本意じゃないんだけどねー、あははっ」

 そう言って笑いながら、私の髪を一束取ってナイフの刃を当てる。切り落とされた髪がパラパラと床に落ちていった。

「今度暴れたら、髪だけじゃ済まないよー? ねぇティナさん?」

 まるで冗談を言うかのような軽い口調だけど、この言葉には抗うすべを奪い去るような威圧感が込められていた。

 力を失いぐったりと倒れ伏すと、クリフさんは虫籠を取り上げた。


 滲む視界の中で、クリフさんの背中が遠ざかっていく。

(……ごめんなさい、クマちゃん……、レノ様……)

 ポロポロと目の端から温かいものが溢れ、床を濡らす。


(……ご、めん……なさい……)

 護りたかったのに。クマちゃんも、レノ様の願いも。それなのに、私が全て壊してしまった。

 絶望の淵に沈みかけた、その時――。


 ――ドッカァァーン!!

 激しい衝撃音と共に扉が内側に叩き伏せられ、突風が吹いて埃が舞い上がる。咄嗟に目を細めると、薄暗い狩猟小屋の中に光が差し込んできた。

 逆光に浮かび上がる、圧倒的な存在感を纏った長身の人影。

(え……?)

 誰よりも待ち焦がれた姿を、私が見紛うはずがない。


 次第に目が慣れてくると、その人物が鮮明に映し出される。整えられたはずの金髪は乱れ、肩が大きく上下に揺れているのが分かった。


(レ、レノ様……、本当に……? 助けに……来てくれたの……?)

 にわかに信じがたく縋るように見つめていると、視線が交わった。

 レノ様は私の姿を見つけるなり目を見張り、そして殺気を帯びた鋭い瞳でクリフさんに向き直る。


「わっ、何だよっっ! くそっ、どうしてここが……っ!?」

 慌てて逃げ道を探すクリフさんの前に立ち塞がり、レノ様は薄く笑みを浮かべた。


「君さー、自分が何をしたか、分かってるのか、なっ?」

 言い終わるや否や、凄まじい勢いでクリフさんの腹部を蹴り倒す。


「がぁっ!?」

 クリフさんは蹴り飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。


「――なぁ、俺のものに手ぇ出しといて、ただで済むと思ってんのかよ」


 地を這うような低い声で威圧し、悶絶するクリフさんのみぞおちを容赦なく靴底で踏み付けている。

 

「ぐぁ……っ、く……、うっ」

 苦しげにもがいていたクリフさんだったが、そのうちにぐったりとし、動かなくなった。


「……殿下、そろそろお止めになった方がよろしいかと。死んでしまいます」

 まだ踏み付けているレノ様に、グレイさんが止めに入る。

「はっ? まだまだ足りねぇよ。その身体に地獄を覚えさせてやった方がいい」

「いや、ですが、ティナ様が怯えております」

「!」

 そう言われ我に返ったらしいレノ様は、こちらを振り向く。そしてクリフさんから足を外すと、吐き捨てるように言った。

「……ちっ、こいつを連れていけ」

「はっ」

 レノ様の命令に従い、近衛兵がクリフさんを担いで連れていった。

 

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