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26 クマちゃん、蛹になる

 朝日が眩しくて目を覚ますが、瞼が重い。

 レノ様への気持ちを自覚してから涙が溢れてしまい、そのまま夜遅くまで寝付けなかった。


「おはようございます、お嬢様」

 シエンナがいつものように朝の支度のためにやってくる。

「……おはよう……」

 シエンナは私の顔を見て、優しく微笑んだ。

「お目元を冷やしますね」

 用意されたタオルを目元に当てるとひんやりと冷たくて、頭の中まですっきりと冴えてくるようだった。

「気持ちいいわ……。ありがとう、シエンナ」

 

(……今日も、ケイシー様、いらっしゃるのかしら……)

 あの仲睦まじい二人の姿を見なければならないのか……、と重い身体を起こす。


(ダメだわ、しっかりしないと! 私はレノ様の助手なんだから!)

 気持ちを奮い立たせ、クマちゃんのいる小さな飼育箱に向かった。

 この飼育箱は木の板で組み立てた木箱のような作りで、上に金網でできた蓋を被せてある。これは庭師に頼んで特別に作ってもらったものだった。


 網から中を覗くと、いつもはむしゃむしゃと食欲旺盛に葉を食べているはずのクマちゃんの姿が見当たらない。

「あれ? クマちゃーん?」

 クマちゃんは飼育箱の側面にじっと張り付いていた。


「……もしかして、蛹になる準備を始めたの……?」

 蛹になると食事もとらず、動かず、十日以上はこのままの状態で、そして、立派な成虫になる。

「そうなのね、クマちゃん……。……頑張ってね」

 木箱の縁を指先でそっと触れ、クマちゃんに笑いかける。

「私も、頑張らなくちゃ……ね。あなたに負けないように」



 研究所に到着しドアをノックしようとした瞬間、ふいに扉が開く。

「きゃっ」

 驚いて声を上げると、中からグレイさんが無機質な表情で顔を出した。

「申し訳ありません。外に気配を感じましたので。どうぞ、お入りください」

 グレイさんは淡々とした態度で私たちを中へ招き入れる。

「は、はい……。失礼します……」

 私は乱れた呼吸を整えながら中へ入った。


 室内は古い紙の匂いや、標本製作で使用する薬品の独特の香りが混ざり合っている。あの甘ったるい強烈な香水の匂いはしなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。


 部屋の中央に近づくと、レノ様と先生の話し声が漏れ聞こえてきた。

「……確認してくれ」

「……えぇ、間違いありません……。しかし殿下、彼女が悲しんでいますよ?」

「分かっているが、……あいつを危険に巻き込むわけにはいかないんだ」

「ふふっ、大切になさっているんですね」

「……当たり前だ」


(……何の話なんだろう? 大切にしてるって、もしかして……ケイシー様のこと……?)

 胸がざわつき、思わず後ずさりをした拍子に指が本の山に触れてしまった。ガタンと音が鳴ると、二人は一斉にこちらに視線を向ける。


「!? ……来てたのか……!?」

 レノ様は一瞬驚いたように目を見開いたが、ふいと視線を逸らした。そのあからさまな拒絶に、ズキンと胸が痛む。

「あ……、ごめんなさい。お邪魔をしてしまいましたか……?」

「あぁ、いえいえ、大丈夫ですよぉ。ティナさん、どうぞ、お座りください」

 いつも通り穏やかな先生に促され椅子に座ったが、まだチクチクと胸が痛かった。


「ティナさん。先程レノ様にもお伝えしたんですが、メモリア峰の植物からは、残念ながら手掛かりは見つかりませんでした」

「そうなんですね……」

「しかし、その周辺に生息している確率は高いですので、しばらくはヴェール連峰を重点的に調べましょう。……では、今日はこちらの資料をお願いしますねぇ」

「はい、分かりました。また精一杯頑張ります!」

 渡された紙の束を受け取りながら、無理やり元気に笑ってみせる。胸の痛みを誤魔化すように。

 

 資料に目を通していると、ふと視線を感じた。

 何とはなしに横を向くと、こちらをじっと見つめていたらしいレノ様と目が合う。

(えっ?)

 私を見ているとは思わなかったので、心臓が跳ねる。


「えっと……? あの……?」

 緊張してあたふたしていると、ふいにレノ様の長い指が私の頬に触れた。

「……っ!?」

 私の顔が熱いせいか、やけにそのひんやりとした指先の感触を鮮明に感じ取れる。


「……目が腫れているな」

 ぼそりと独り言のような呟きが聞こえてくる。

(バレてる!? まずいわ。ご、誤魔化さなきゃ……)

 視線を空中に彷徨わせ、必死に言葉を探した。


「えっと……、これは、く、クマちゃんを毎日観察していたら、とても感動してしまいまして。せ……生命の神秘……というのはとても素晴らしいなと、改めて感じたのです……」

(う……、なに訳わからないこと口走ってるの……私は……っ)

 恥ずかしくて睫毛を伏せると、微かな声が耳に届く。


「……あと少しだから……」

 

「え?」

 私が顔を上げて聞き返した時には冷たい指は離され、レノ様はこちらを見てはいなかった。

(あと少し……? 確かにそう聞こえたわ……)


「レノ様ぁ、ケイシーですぅ。レノ様いらっしゃいますかぁ?」

 玄関からケイシー様の甘ったるい声が聞こえてくる。

 レノ様は小さく溜息を吐くと椅子から立ち上がり、背を向けて行ってしまった。


「あぁ、お待ちしてましたよ、ケイシー嬢」

「レノ様ぁ、今日はこれからどうしますかぁ?」

「そうですね。あなたにぴったりのワインがあるのですが、いかがですか?」

「わぁ、うれし~! じゃあ一緒に飲みましょう!」

 二人の話し声が遠ざかっていく。


(あと少しって、どういう意味……?)

 私は自分の頬に触れ、微かに残った冷たい感触を確かめながら、レノ様の言葉を何度も何度も反芻していた。

 

 ふと、今朝の出来事が頭をよぎる。 

「あ、先生。実は今朝、クマちゃんが蛹になる準備を始めたのです」

「あぁ、そうですか! それはそれは。クマちゃんも大事な時期を迎えたのですねぇ」

「はい」


「……ただ待っているのは辛いものですが、信じてあげてくださいねぇ。クマちゃんも、そして……彼も」

 先生は何でも見通しているような含みのある笑顔を浮かべ、玄関の方へと視線を移す。


(……彼を……信じる……? それって……)

 私も先生に誘われるように、誰もいなくなった玄関の方を見つめた。



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