25 自分の気持ちに気づくとき
「ケ、ケイシー様……、どうして、こちらに……?」
研究所を突如訪れたケイシー様。
私は立ち上がり、そう言葉にするのがやっとだった。
鼻につくような甘ったるい香水の匂いが、部屋の中に充満する。
「ふふっ、ティナ様がここにいるって知り合いから聞いて、来てみたのよぉ」
ケイシー様の後ろには苦笑いを浮かべているクリフさんの姿があった。……やっぱり、私がビーン男爵邸の庭園で目撃した男性はクリフさんだったんだ。
彼女は私から隣に視線を移すと、一段と瞳をギラつかせる。
「あらぁ。あなたがティナ様の『新しい婚約者』の方ですかぁ?」
どこから出しているのかと疑問に思うほどの猫なで声で、レノ様の方へ歩み寄る。
レノ様は優雅に椅子から立ち上がり、非の打ち所がないほど美麗な笑顔を浮かべた。
「レノと申します。レディの名前を伺ってもよろしいですか?」
ケイシーは頬をほのかに赤く染め、うっとりとレノ様に見惚れている。
「あ……、はい。私はケイシー・ビーンと申しますわぁ。レノ様って、すごく、ビジュ……いいですね……」
「……ふっ、ありがとうございます。あなたのような、可憐な方にそう言っていただけて光栄ですよ」
レノ様は少し照れたような表情を見せた。
「かっ、可憐だなんてぇ、レノ様ったらぁ!」
ケイシー様は顔を真っ赤にして、はしゃぎながらレノ様の腕をバシバシと叩いている。
隣で二人のやり取りを見ながら、私は何とも言えない疎外感を抱いていた。
(レノ様……、どうして……? ケイシー様にあんなふうに優しく笑うの……?)
胸の奥から、冷たく鬱々としたものが溢れ出てくる。
立っているのが辛くなり椅子に崩れるように腰掛けるが、二人は特に気にした様子はなく会話を続けていた。
「あれぇ、レノ様とどこかでお会いしたかしらぁ?」
「いいえ、初対面だと思いますが。……あなたともう少し早くお会いしていれば、私たちの運命も変わっていたかもしれませんね」
「運命……だなんてぇ。これからでも変えられると思いますぅ」
「ふっ、あなたとは気が合いそうだ」
「もぉ、レノ様ったらぁ」
私は目の前の資料に集中しようとするが、どうしても二人の会話が耳に入ってきてしまう。
資料をめくる手が僅かに震えている。
「……お嬢様……」
「ティナさん……」
シエンナと先生の心配するような呟きが聞こえる。私は二人に「大丈夫」と言うかのように笑みを見せ、再び資料に目を落とした。
「レノ様ぁ。お近づきの印に、これからお茶でも行きませんかぁ?」
「それは嬉しいお誘いですね」
「きゃっ! じゃあ行きましょう!」
ケイシー様は当然のようにレノ様の腕に自分の腕を絡め、部屋から出て行こうとする。私という存在を忘れてしまったかのように。
「レ、レノ様っ!」
私は咄嗟に、その後ろ姿を呼び止めてしまった。
レノ様は足を止めこちらを振り返り、感情の読み取れない笑みを浮かべ私を一瞥する。
「早く行きましょうよぉ」
ケイシー様に促され、何も言わず扉の向こうへ消えていった。
(……レ、レノ様……)
静かになった室内は、甘ったるい香水の匂いだけが残された。
それからというもの、ケイシー様は頻繁に研究所を訪れるようになった。
今も資料を読んでいるレノ様にべったりとくっついている。
「この前、レノ様にプレゼントしていただいたネックレス、つけてきましたのぉ。どうですかぁ? 似合ってますぅ?」
ケイシー様の胸元には大きなルビーのネックレスが、キラキラと輝いていた。
「えぇ、とてもお似合いですよ」
「きゃっ、ありがとうございますぅ。レノ様のおうちは宝石商をされてるんでしたよねぇ?」
「えぇ。まだまだ、あなたに似合いそうな宝石がたくさんあるんですよ、他もプレゼントさせてください」
「え〜っ! うれし〜いっ!」
ケイシー様はレノ様の腕に抱きついて大袈裟なくらい喜んだあと、私の方に勝ち誇ったような視線を向ける。
「ティナ様は、レノ様にどんな宝石をプレゼントしてもらったのぉ?」
「え? わ、私は……、何も……いただいてはいません……」
消え入りそうな声で答える。
「えぇ、うそぉ! 可哀想! いくら似合わないからって、それはあんまりだと思いますわぁ、レノ様」
「はは、そうかな?」
レノ様は否定することなく、笑みを浮かべたままだった。
(べ、別に私は宝石なんて欲しくないわ……。レノ様からはクマちゃんをいただいたし。……って、何、対抗してるのかしら……私)
私はうつむいて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。
ケイシー様はレノ様に顔を近づけて、甘えたような声を出す。
「ところでレノ様ぁ、これからうちの屋敷に来ませんか? 前に来たいとおっしゃっていたでしょぉ?」
「えぇ、そうでしたね」
「実はぁ、今日は両親がいませんのぉ。だから……ゆっくりとおもてなしができると思いますわぁ」
ケイシー様はレノ様の耳元に唇を寄せて囁いた。大きな瞳を潤ませて上目遣いをする彼女は、同性の私から見てもとても可愛らしい。
「それは、ぜひ、お招きに与ろうかな」
レノ様が甘く微笑むと、ケイシーは頬を染める。二人はしばらく見つめ合っていた。
見たくはないはずなのに、どうしても目の端に二人の姿を捉えてしまう。
じわりと視界が滲んで、文字が歪んで見える。
(……苦しい……。これ以上、耐えられないわ……)
「……あの、先生、奥の部屋の標本を見てもいいでしょうか?」
明るい声を出したつもりなのに、震えが隠せていない。
「あ……、あぁ、どうぞどうぞ。ごゆっくり見てきてくださいねぇ……」
先生は慌てたように、コクコクと何回も首を振った。
「……ありがとうございます」
私は椅子から飛び上がるように立ち上がる。
「――お嬢様、私もっ」
立ち上がろうとするシエンナを制するように、黙って手を振った。これ以上何か話したら、涙が溢れてしまいそうだったから。
奥の部屋へ飛び込み、ドアを閉めた瞬間、その場に崩れ落ちる。
「……う……っ、うっ……」
我慢していた思いが止めどなく溢れ出した。
私とレノ様は、婚約者でも何でもない。私はただの助手で、協力者。それ以上もそれ以下でもない。
レノ様が何をしても、誰と仲良くしても私は口出しする権利はないのだから。
……だけど、彼の笑顔の裏に隠された苦悩や思いに触れ、お母様の為に懸命に黒蝶を探す一途な姿。少し乱暴な素の性格や、辺りを圧倒する冷酷な視線も。色々なレノ様を知ってしまった。
その全てが愛おしく思えて……。
(私……、レノ様が、好き……なんだわ……)
自覚してしまったその思いを抱いて、私はしばらく泣き続けた。




