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19/30

19 長い長い時間

 メモリア峰へ出発の朝。

「絶対に黒蝶を見つけて帰ってくるから。……それじゃ、行ってくるよ」

「はい。お気をつけて……」


 四人は朝靄の中、遠ざかっていく。その背中が見えなくなっても、私はいつまでも見送っていた。皆さんの帰還は明後日午後の予定だ。


「お嬢様、そろそろ部屋へ戻りましょう。三日なんて、すぐですよ」

 シエンナの優しくて、頼もしい声に励まされる。

「えぇ、そうね」

 私は僅かに笑みを浮かべてうなずき、宿屋に足を向ける。扉をくぐる前にもう一度だけ、みんなの行った方向を振り返った。



「お嬢様、お茶のご用意が出来ました。本日の茶葉はヴェール連峰特産の『ヴェール・ドロップ』でございますよ」

 部屋でコリンズ先生からお借りした、この周辺の高山蝶の資料を読んでいると、シエンナがティーセットを運んできた。

 ここは貴族御用達の宿屋というだけあって、客室にはお湯を温める小さな炉が備え付けられている。


「ヴェール連峰の茶葉なんてあるのね。初めて聞いたわ」

「はい。とても希少らしく、ベルアンスでしか手に入らないそうです」

 湯気の立つ白い磁器のカップに、澄んだ琥珀色の水色(すいしょく)が映える。口に含むとスッとした爽やかな香りが鼻を抜けた。

「……うん。すっきりとしてておいしいわ……」


「あと、こちらはこの宿自慢の、温泉の蒸気で蒸した『スチームクレープ』です。熱いのでお気をつけてくださいね」

 シエンナがクロッシュを開けると、ふわっと白い湯気と甘い香りが立ち込めた。中には丸くてツヤツヤした白いものが並んでいる。私の知っているクレープとはだいぶ見た目が違う。

「これがスチームクレープ?」

 フォークを入れると弾力があり、中から真っ赤なジャムが溢れ出した。

 ふうふうと息を吹きかけてから口に入れる。生地はモチモチふわふわとした不思議な食感で、トロリとした酸味のあるベリージャムとよく合う。


「! ……おいしいわ!」

「ふふっ、よかったです。実はこちらは、殿下が是非お嬢様に召し上がってほしいと、ご用意してくださったのですよ」

「え! レノ様が!?」

 私は驚いて声を上げ、スチームクレープをまじまじと見つめる。

「えぇ。きっと殿下は、お嬢様にはのんびりお菓子でも食べて、虫の観察でもして待っていてほしいのではないでしょうか」

「そ、そうなのかしら……?」

 レノ様の心遣いにきゅんと胸が疼いた。


 ご自分のことで忙しいはずなのに、いつも私を気にかけてくれる。

 黒蝶探しに山へは行けないし、資料探しも、私ばかり楽しんでいる。パーティーの時も、昨日も、助けてもらってばかりだ。


『俺の帰りを待ち、笑顔で出迎えることも、助手兼仮の婚約者であるおまえの大事な役目だ』

 そうは言ってくれたけれど、私は彼に何を返せているのだろうか。


「シエンナ……。私は、レノ様の足手まといになっていない?」

 私が自信なさげに問いかけると、シエンナは驚いたように目を見開いた。

「え? どうしてそのようにお思いに?」

「う……ん。私は蝶や幼虫のことに夢中で、レノ様にはご迷惑ばかりかけている気がするの……」

 私がうつむいていると、突然シエンナは可笑しそうに笑い出した。


「ふふふっ、それは大丈夫でしょう。きっと殿下は、とても可愛らしいと思っておられますよ。お嬢様はそのままでいらしてくださいませ」

「え? かわいらしい!?」


 先日、テラスでレノ様が『かわいい』と呟いたことを思い出して、ドキッと鼓動が高鳴った。

(ま、まさか、あれって私のことではない……よね……? いやいや、きっと違うわ……)

 慌てて首を振って気持ちを落ち着かせ、紅茶を口に含んだ。


 窓の外にそびえるヴェール連峰の頂に視線を送る。

「……皆さん、どの辺まで登っているかしら……。もう中腹辺りかな?」

 見えるはずはないけれど、彼らのいるであろう山の中腹を必死に見つめ続けた。


 ◇ ◇ ◇

 レノ様たちがメモリア峰に向かってから三日経った。

 窓から外を覗くと、差し込む朝日が眩しくて目を細める。


「今日、いよいよ帰ってくるのね……」

(皆さん怪我などしてなければいいけど。それに黒蝶は見つかったのかしら?)

 私はそわそわしてしまって、どうも落ち着かない。

 いつもは部屋で済ませていた朝食を、気分を変えて今日は食堂でとることにした。


 食後のミルクティーを飲んでいると、宿屋の主人と旅人風のお客さんの会話が耳に入ってきた。

「これから峠越えだって? 今日は止めときな。嵐になるぜ」

「なんだって? こんなに晴れてるじゃないか!」

「いや……、空が青すぎるな。それに地下水の温度も上がってる。山が荒れ狂う前の、不気味な静けさだ」


(嵐!? まさか、そんな……っ)

 私は居ても立ってもいられず、宿の主人の元へ駆け寄る。


「あのっ、嵐になるって、その話は本当なんですか?」

 主人はこちらをチラリと見た後、窓から山頂へ指差した。

「あぁ、そうさ。……見てみな、あの山頂の雲を」

 まるで円盤のような形の雲が山の上に浮かんでいる。

「吊るし雲だ。上空じゃ、暴風が吹き荒れてるだろうよ。こっちにも昼過ぎには一気に雲が降りてくるさ」


(そ、そんな……、みんな大丈夫なの!? レノ様……っ)

 心配で私は祈るように山を見つめた。


(は、早く、無事に帰ってきて……)


 宿屋の主人の予想が的中し、その日の昼過ぎから空が荒れ始めた。激しい横殴りの雨や強風が窓を打ちつける。

「み、皆さん、大丈夫かしら……」

「えぇ、心配ですね」

 シエンナも顔を強張らせている。私が部屋の窓から街を見下ろすと、人の気配はなかった。

 その時、空が切り裂かれるように光り、ドォォーンと地響きのような雷鳴が轟く。


 ――そして、予定の時刻が過ぎ、夜が更ける。

 その日、いつまで待ってもみんなは帰ってこなかった。

 

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