建築令嬢と武人王
「――お断りします。私は、ここで充実した生活を送っておりますので」
イレーネの冷ややかで、しかし、きっぱりとした拒絶。それが、王都から来た使者を逆上させた。
「き、貴様ッ! 今、何と!」
使者は、わなわなと震えながら、剣の柄に手をかけた。
「オスカー殿下のご温情を! 婚約破棄の撤回という、ありえない名誉を! それを、無にするというのか! そ、それは、王命への反逆に……!」
「――うるさい」
地の底から響くような、低い声だった。それまで、この面白い見世物を楽しむかのように、乾いた地面に片膝をついたままだった男。武人王バシュトラが、ゆっくりと立ち上がった。彼は、激昂する使者と、イレーネの間に、静かに立ち塞がる。その巨躯が、使者から、イレーネを完全に隠した。
「……な、なんだ、貴様は! 商人風情の出る幕はないぞ……!」
「この女性は」
バシュトラは、使者をまるで、足元の石ころでも見るかのように冷ややかに見下ろし、宣言した。
「私が、我が国の『王都設計者』および『建築士長』として、たったいまスカウトした、イレーネ・フォン・アルトハイム嬢だ」
『王都設計者』、『建築士長』。その耳慣れないが、明らかに公的な重役を示す言葉に、使者が息をのむ。
「彼女の身柄は、今、この瞬間より、我が国の庇護下にあると、そう解釈してもらおうか」
「なっ……! 隣国の王が、我が国の貴族に、手を出すと……!」
「手?」
バシュトラは、心底、馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「手を出しているのは、貴様の主だろう。一度、自ら捨てた至宝に、今更すがりついてきた」
「ぐっ……!」
「帰って、あの『見る目のない男』に、事の顛末を伝えろ……そのために生かしてやる」
武人王の、本物の「威圧」。戦場で鍛え上げられた、むき出しの覇気。使者は、腰の剣を抜くことさえできず、「ひっ」と短い悲鳴を上げると、倒れた馬を必死に起こし、尻尾を巻いて逃げるように砦を去っていった。
◇ ◇ ◇
王都。傾いた大広間でオスカーは、使者が持ち帰った最悪の報告に激怒していた。
「お断りします、だと!? あのイレーネが! バシュトラの庇護下だと!? ふざけるな!」
彼は、手近にあった高価な、だが非効率なデザインの椅子を蹴り飛ばした。強度の足りなかったそれは、一回転すると無惨にバラバラになった。
だが、彼がいくら激怒しようとも、現実は変わらない。イレーネは、戻らない。そして、王宮の修繕は、イレーネが残した──今や、王国の誰にも解読できない──難解な設計図なしには、まったく進まなくなった。王宮の大広間は、傾いたまま。このままでは王宮自体が『見る目のない王太子の愚かな記念碑』と呼ばれるようになるのは、そう遠くない。
バシュトラにイレーネという才能を奪われ、自らの居城さえ、まともに維持できない。イレーネという国家レベルの実務能力の喪失は、王国のインフラ維持能力そのものを毀損させた。オスカーの評価は、貴族たちの間で急速に失墜し、彼が政治的な実権を握ることは、二度となくなった。彼が自らの愚かさで全てを失ったことに気づいたのは、もちろん、手遅れだった。
◇ ◇ ◇
突然の事態に呆然とするイレーネと老兵たちが残された、アルトハイム砦。
バシュトラは「返事を急ぐ必要はない」と言うと、そのまま砦に居座っていた。「彼女の決心がつくまで動くつもりはない」そうだ。
いつ王都から刺客が送り込まれてもおかしくないというのに、バシュトラは、全て返り討ちにしてやる、と言わんばかりの覇気をみなぎらせている。いや、実際のところ撃退できるだろう。わずかな手勢であっても、武人王の戦術眼とこの砦の機能美が、力をあわせれば。
「イレーネ嬢、そろそろ決心はついたか?」
バシュトラは、顔を合わせるたびにイレーネの前で片膝をつこうとする。
「あ、いえ! 立ってください! 汚れてしまいます!」
「構わん」
彼は、イレーネの制止を無視し、再び、彼女と視線を合わせる形になった。
「さて。改めて、返事を聞かせてもらおう、イレーネ嬢」
彼の、灰色の瞳が、真っ直ぐにイレーネを射抜く。それは、彼女を「女」として、あるいは「公爵令嬢」として見ている目ではなかった。彼女の「職能」と「魂」そのものに、問いかけてくる目だった。
「私のスカウトと……そして、求婚。その、返事を」
イレーネは、深く息を吸った。三日ほど考えたが、同じ答えしか出てこない。もう迷いはない。王都、そしてオスカーとの過去は、完全に断ち切られた。
「お受けいたします」
バシュトラの目元が、わずかに和らぐ。ゲルハルトたちが「おお……!」と、歓喜の声を上げるのが聞こえる。だがイレーネは、手を挙げて、それを制した。
「――ただし、いくつか条件があります」
「……ほう?」
バシュトラが、面白そうに眉を上げた。イレーネは、彼を真っ直ぐに見つめ返し、自身が自立するための最後の交渉を提示した。
「王妃の座は、お受けします。ですが、それだけでは、私は満足できません」
「ほう」
「私を、あなたの国の王妃としてだけでなく、『王都設計者』を担当する『建築士長』として、公式に『雇用』してください」
それは、この世界では、ありえない提案だった。王妃は、夫王の「所有物」であり、装飾品だ。公務を持つなど、前代未聞。
だが、バシュトラは。この合理主義者で、実利を重んじる「武人王」は。イレーネの、前代未聞の「条件」を聞いて。
――破顔した。
「お安い御用だ。その申し出、喜んで受け入れよう」
彼は、立ち上がった。そして、イレーネの手を取った。それは、か弱い令嬢の手を取る、王子のそれではない。イレーネの泥とインクと汗にまみれた、「建築士」にして「職人」の手。その手を、同じ「実務家」として、対等な「パートナー」として、彼は、固く、固く、握りしめた。
「よろしく頼む、イレーネ『建築士長』」
「……はい! バシュトラ『陛下』」
◇ ◇ ◇
数ヵ月後。隣国の、新しい王都。その王宮の最も日当たりが良く、最も「動線」が効率的な、広大な執務室。私が、この国で最初に手がけた「成果物」でもある。そこには、床一面に広げられた、壮大な都市計画の図面があった。給排水。道路網。防衛機能。居住区。すべてが合理的で、機能美にあふれた、前世の私が夢にまで見た理想の都市設計だった。
「……バシュトラ陛下。例の上水道の勾配、今のままでは水圧が足りません。水源地の高さをもう五メートル上げるか、中継の加圧槽を設計しなおすかの二択です」
「嵩上げは論外だ。水源地を上げれば、弓兵隊を配置した防衛砦からの射線が通らなくなる。加圧槽でいけ。経費は、そこの神殿の無駄な装飾を削って充当しろ」
「……あれは装飾ではなく、構造力学的な『フライング・バットレス』です! あと、削るなら、そこの騎士団詰所の、無駄に豪華なエントランスでしょう!」
「あれこそ、士気の維持に必要な『機能』だ!」
王という名の『武人』と王妃という名の『建築士長』は、今日も、この国で最も幸せな議論を戦わせている。その様子を、王妃直属の『近衛工兵隊』として雇われたゲルハルトたち老兵らが、遠巻きながら微笑ましげに見守っている。
追放された公爵令嬢は、自分を捨てた元婚約者の哀れなうわさを聞き流し、己の価値を、もしかしたら自身より高く評価してくれた隣国の武人王と、誰よりも幸せになっていた。
私の最高のフィールドワークは、隣国の地をキャンバスにして、今、始まったばかりだ。




