王宮の崩壊と、遅い後悔
時は、少しばかり巻き戻る。
王都は、一見、イレーネが去ったことなど微塵も影響がないかのように、華やかな日常を謳歌していた。王宮の大広間。王太子オスカーは、イレーネを追放した後に新しく選んだ婚約者――従順で、可憐で、「図面引き」などという女らしくない趣味とは無縁の伯爵令嬢を伴い、意気揚々とパーティーを開催していた。
「ははは、アメリア。そのドレス、実によく似合っている。やはり、女はそうでなくてはな」
「まあ、オスカー様! オスカー様のお側にいられるだけで、わたくし、幸せですわ」
小動物のようにオスカーに寄り添うアメリア。それこそが、オスカーが求めていた王太子妃の姿だった。
(イレーネめ。今頃、辺境のボロ砦で、自分の愚かさを悔やんで泣いているだろう)
オスカーは、自分の采配に、心の底から満足していた。
――その、油断しきった瞬間。
ゴロゴロゴロ……!!
空気を切り裂くような雷鳴と共に、先日、辺境の地を浄化したのと匹敵するほどの、記録的な豪雨が、王都を襲った。
「きゃっ!」
「なんだ、すごい雨だな」
貴族たちが、窓の外を見て、不安そうに囁きあう。そして。
――ピチャン。
オスカーの足元に、冷たい滴が落ちた。
「……?」
オスカーが、この王宮の自慢である、悪趣味なほど巨大なシャンデリアを見上げる。その、金めっきの装飾の隙間から。
――ポタ、ポタタタッ!
「「「きゃあああああ!」」」
雨漏りだ。かつてイレーネが内心でその構造的欠陥を指摘していた、あの大広間の天井が、ついにその限界を迎えたのだ。一箇所ではない。あちこちで、滝のような雨漏りが始まった。楽団員は楽器を持って逃げ惑い、貴婦人たちの高価なドレスが、天井の埃と混じった泥水で汚れていく。
さらに、悲劇は続いた。雨漏りで、床が水を吸う。ミシッ、と、嫌な音が響いたかと思うと、オスカーとアメリアが立っていた床の一部が、ギギギと音を立てて傾いた。
「「「ひっ……!」」」
「な、なんだ! どうなっている!」
オスカーは激怒し、パーティーの責任者でもある王宮の執事を怒鳴りつけた。
「直せ! 今すぐ、これを直さんか!」
「で、ですが殿下! こ、これは、もはや……!」
新しい婚約者のアメリアは、その場で「まあ、ドレスが汚れるわ!」と泣き言を言うだけで、何一つ役には立たない。
その、パニックの最中。一人の老齢の側近が、顔面蒼白でオスカーに駆け寄った。
「お、オスカー殿下……!」
「うるさい! 今は、それどころでは……!」
「申し上げます! 恐らく、この雨漏りの原因……!」
側近は、震える声で報告した。
「……イレーネ様が内密に管理なさっておられた、『王宮修繕計画書』。あの方の追放以来、その手法が、完全に途絶しておりまして……」
「……なんだと?」
オスカーは、初めて聞く単語に、眉をひそめた。
「イレーネ様は、趣味の図面引きと称し、この王宮の全ての『欠陥』を把握し、優先順位をつけて、修繕計画を立てておられました。我ら下々の者では、到底解読できないような、緻密な『設計図』と共に……。この大広間の天井も、計画書によれば『次期最優先修繕箇所』と……」
オスカーは、固まった。あの「図面引き」。あの、女らしくない「趣味」。それが、「趣味」などではなく。この、老朽化した王宮の、いや、国家のインフラを支える、とんでもない「実務」だったと。この期に及んで、オスカーは、ようやく、気づいたのだ。
(……まさか)
その時。オスカーの遅すぎる後悔に、追い打ちをかけるように。パーティー会場の扉が、荒々しく開かれた。ずぶ濡れで、泥まみれの伝令騎士が、転がり込んでくる。
「き、緊急報告! 北の辺境より!」
大広間の視線が、一斉に伝令騎士に集まる。
「アルトハイム家の、あの『ボロ砦』が……! 『無敵要塞』と、なっております!」
「……は?」
オスカーが、間の抜けた声を出す。
「数週間で、難攻不落の要塞に……! そ、そして!」
伝令騎士は、息も絶え絶えに、最悪の報告を叩きつけた。
「隣国の『武人王』バシュトラが! その砦に興味を示している様子! 極秘に越境して、要塞の改修を手掛けた本人……イレーナ様と接触するつもり、とのうわさが!」
(……バシュトラが? イレーネと?)
オスカーの思考が、現実の認識を拒否した。自分が捨てた女。自分が捨てた砦。その二つが、自分の知らないところで「無敵の要塞」と「天才建築家」という、とんでもない価値を生み出し――そして今、王宮が、崩壊しかけている。それどころか、隣国の王に、全てを奪われようとしている。
(才能と、領土と、婚約者。全てを俺は……)
──見る目のない男。
その言葉が、オスカーの頭の中で、嘲笑うかのように反響した。
「……連れ戻せ!」
オスカーは、叫んだ。
「今すぐ、使者を出せ! イレーネを、王都に、連れ戻すんだ!」
「は、しかし、婚約破棄は……」
「撤回だ! 撤回すると言っている! 王宮の修繕のためだ! あれは、我が国の『資産』だ! バシュトラなどに、渡してなるものか!」
◇ ◇ ◇
そして、現在のアルトハイム砦では。
武人王バシュトラが、泥まみれのイレーネの前に、片膝をついている。
「……私の『王妃』として、国に迎えたい」
その衝撃の求婚。ゲルハルトたち老兵が、武器を構えたまま、固まっている。イレーネも、あまりの展開に、口をパクパクさせている。
(『王都設計者』? 王妃? この人が、あの高名な武人王?)
その、完璧なまでに膠着した瞬間。
――ダダダダッ!
新たなる馬の蹄の音が響き、砦の入り口……『虎口』に差し掛かったところで途絶える。直角のカーブを曲がり切れずに転倒したのだ。落馬の痛みに耐えながら、一人の使者が息を切らして広場に転がり込んできた。王都の派手な紋章をつけた使者だ。
彼は、泥まみれの作業着姿のイレーネと、商人に変装しつつも王の威厳を隠し切れないバシュトラと、武器を構える老兵たち、という、あまりにもカオスな状況を、まったく理解できていなかった。彼は、強制労働者のような格好のイレーネをなんとか見つけると、オスカーから預かってきた命令を、大声で読み上げた。
「イレーネ・フォン・アルトハイム! 貴様に、オスカー殿下より、ありがたいお言葉だ!」
イレーネは、嫌な予感しかしない。バシュトラは、片膝をついたまま、微動だにせず、この面白い見世物を、静かに見守っている。
「オスカー殿下は、寛大にも、貴君との婚約破棄を撤回なさると! ただちに王都へ戻り、王宮の修繕にあたれ、とのことだ! 光栄に思え!」
……シーン。
空気が、凍りついた。使者の、あまりにも高圧的で、場違いな命令。バシュトラが、この砦の機能美と、イレーネの職能に、王として求婚という最大級の敬意を払った、その直後に。オスカーは自ら足を運ぶこともなく、イレーネを壊れた家財の修繕係として、高圧的に連れ戻しに来たのだ。
イレーネは、ゆっくりと、使者を見やった。そして、片膝をついたまま、自分を見ているバシュトラを見やった。
(……ああ、なるほど)
イレーネは、全てを理解した。彼女は、使者に向き直ると、ドレスの裾を引く代わりに、泥だらけの作業着のまま、にっこりと、冷ややかに、微笑んでみせた。
「お断りします」
「……は? 何を、言っている、貴君。これは王太子の……」
使者は、信じられない、という顔をしている。イレーネは、この上なく、穏やかな声で、繰り返した。
「お断りします。私は、ここで充実した生活を送っておりますので」
王太子という過去の男からの復縁命令。それを、隣国の王という求婚者の、目の前で。イレーネは、完璧に一蹴した。




