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隣国の武人王、砦の「機能美」に惚れる

バシュトラ・ヴァーリは、苛立っていた。彼は「武人王」と呼ばれる男。虚飾を嫌い、実利と機能を全てに優先する合理主義者だ。その彼が、斥候の持ち帰った一枚の「スケッチ」に心を奪われて数日。ついに我慢の限界を迎えた。側近の制止を振り払い、身分を隠し、わずかな供だけを連れて国境を越えた。表向きは、交易路の視察。だが、真の目的は、あの「ボロ砦」……今は「要塞」と呼ばれるようになった、あの異常な建築物を、この目で確認するためだ。


「……ここか」


馬を降り、護衛に雇った傭兵という体裁で口裏をあわせてある数名の供と共に、歩いて砦の入り口に向かう。遠目にも、あの崩れかけていた南壁は、明らかに違うものに生まれ変わっていることが分かる。計算され尽くした「擁壁」技術。あの角度と石積みは、衝撃を巧みに逃がす設計だ。


(やはり、本物か)


そして、入り口だ。バシュトラは、交易商人の代表と偽って、ゲルハルトが対応する門の前に立った。


「我らは、武具を商う者だ。この先の街へ向かう途中だが、砦が新しくなったと聞き、ご挨拶と、よろしければ食料や日用品などの取引を願いたい」


彼は、ゲルハルトと会話をしながら、その視線は、自分が今立っている「場所」に釘付けになっていた。斥候のスケッチ通り。入り口は、あえて狭く、ねじ曲げられている。


(……恐ろしい)


内部へ攻め入るためには必ず通らねばならず、それでいて相当な犠牲を強いられるだろう。武人であるバシュトラだからこそ、この「虎口」の真の恐ろしさが理解できた。


一歩、足を踏み入れる。角を曲がるため、騎馬はもちろん、部隊は必ず速度を落とし、一列にならざるを得ない。そして、立ち止まったその地点。バシュトラは、肌に粟を生じるのを感じた。殺意。設計者からの、明確な殺意だ。


彼はゆっくりと顔を上げる。左右、そして上。黒い口を開けた「狭間」が、三方向から、寸分の狂いもなく、今彼が立っているこの「一点」を狙っている。


(……ここは処刑場か?)


斥候の報告にあった通りの、完璧な死の罠だ。彼は、冷や汗を背中に感じながら、何とか平静を装って、その虎口を通り抜けた。


「……どうぞ。大したもてなしは出来ませんが」


ゲルハルトが、彼らを中庭に案内する。そして、バシュトラは、第二の衝撃を受けることになった。中庭は、カラリと乾いていた。


(なんだ? この居心地の良さは……)


以前の斥候の報告では、ここは沼沢地であり、砦全体がカビと腐臭に満ちている、はずだった。だが、今、彼が吸い込んでいる空気は、清潔そのものだ。


「失礼だが、ゲルハルト殿。以前は、ここは水はけが酷いと聞いていたが」


バシュトラが尋ねると、ゲルハルトは──待ってました、とでも言いたげに──誇らしげに胸を張った。


「ああ。だが、我らが『棟梁』が、全て解決してくださった。『暗渠排水』というもので、水は全て谷に流れるように……ほら、あそこが簡易浄水槽だ。水も、王都のよりうまいぞ」


(暗渠排水? 浄水槽?)


バシュトラの思考が、追いつかない。軍事拠点としてだけではない。土木や衛生まで、完璧に掌握しているというのか。しかも、それを数週間で?


彼の驚きは、まだ終わらなかった。砦の奥、兵士たちの居住区があった場所が、一部、工事中だった。老兵たちが、壁に何かを打ち付け、図面らしきものを見ながら作業をしている。


「今度は、何を?」

「おお。これは『動線』の改修だ。今までは、有事の際、防壁まで走るのに無駄が多すぎた。棟梁の新しい設計なら、最短距離で持ち場に着けるようになる」


動線。バシュトラは、その言葉を聞いて、軽く眩暈がした。この天才建築家は、バシュトラが武人王として最も重視する、「効率性」「機能性」の化身のような存在だった。この砦で行われている全てが、実利と機能美に貫かれている。虚飾が、一切ない。


(……会いたい)


狂気じみた天才。おそらく自分と同じ思考回路を持つ設計者に、一目会いたい。


「ゲルハルト殿。その棟梁に、ぜひ、ご挨拶を。これほどの改修を成し遂げた方だ。ぜひ、お顔を拝見したい」

「おお、棟梁の仕事の価値が、お分かりか!」


ゲルハルトは、身分を隠していても滲み出るバシュトラの威圧感よりも、純粋に棟梁の仕事を褒められたことが嬉しかったようだ。


「よろしい。だが、邪魔はしないでくだされ。棟梁は、今、仕事に集中しておられる」


そう言って、案内された先。


バシュトラは、目を見開いた。そこにいたのは、彼が想像していたような、百戦錬磨の厳格な老技術者ではなかった。泥まみれの、ドレスを魔改造した簡素で珍妙な、しかし機能的な作業着を着た、一人の「少女」だったからだ。


「……違います! ここの壁は『構造壁』です! これを取っ払ったら、上の梁が持ちません! 動線を確保するなら、こっちの壁を抜いて、あちらに『補強柱』を入れるべきです!」

「は、はあ……しかし、イレーネお嬢様。それでは……」

「いいですか!? 人の流れは、水の流れと同じなんです! 淀んだら、そこから腐る! この居住区から防壁までの『動線』が、どれだけ非効率か! 設計した人間は、何を考えて……!」


少女――イレーネ・フォン・アルトハイムは、地面に広げた新しい図面の上を這いつくばりながら、羽ペンで修正を入れ、建築オタクとしての怒りを実務にぶつけていた。バシュトラは、その姿を見て、一瞬、思考が停止した。


(……女? いや、あれは……)


バシュトラの脳裏に、隣国の王宮に潜り込ませていた内通者からの報告がよみがえる。もっとも武人王にとっては大して興味を惹かれない、つまらぬ内容だったと記憶している。王太子オスカーが婚約破棄して、この地へ追放処分にされたという令嬢。確か、アルトハイム公爵家の。「女らしくない」「趣味に没頭して不敬だ」とくだらない理由で断罪されたという、あの。しかし、時期は一致する。


(……趣味?)


バシュトラは、目の前の光景と、内通者の報告を反芻した。擁壁。処刑場。暗渠排水。動線設計。これが、「趣味」? この、国家レベルの実務能力が?


バシュトラは、悟った。そして、こみ上げてくる笑いを、必死にこらえた。


(……馬鹿だ)


彼は、心の底から、隣国の王太子を嘲笑した。


「……これほどの才能を、みすみす手放すとは」


ぽつり、と漏れたバシュトラの呟きは、幸い、イレーネの熱弁にかき消された。


(オスカー太子は……見る目のない男だ)


その瞬間。バシュトラの合理主義の心は、イレーネの職能と実務能力の高さに、完全に奪われていた。美しいドレスを着た令嬢など、この世に掃いて捨てるほどいる。だが、これほどの機能美を理解し、ゼロから要塞を創り上げる才能を持つ女など、世界中どこを探しても、この一人だけだ。


その時、イレーネが、議論の邪魔が入ったことに気づき、泥まみれの顔を上げた。


「……どなたです? ゲルハルト、お客様なら、今は……」

「失礼した」


バシュトラは、イレーネの前に進み出た。


「いまの議論、実に興味深い。だが手間を考えるなら、ここの壁を抜くより、あちらの窓を潰して通路を新設すべきではないか?」

「……!」


イレーネの目が、カッと見開かれた。この男。この、商人らしき風貌だが、妙に威圧感のある男。


(……わかってる!)


イレーネは、この世界で初めて「建築」の話が通じる人間に出会った喜びで、興奮した。


「そ、それは! 確かにコストは安上がりですが、そうすると『採光』が失われます! 有事の際の視認性を考えれば、コストが高くても、こっちの壁を……」

「採光なら、天窓を新設すればよいではないか」

「天窓!? この梁の構造で、どこに……!」


議論が、白熱した。老兵たちは、完全に置いてきぼりだ。そして、数分後。はっ、とイレーネが我に返り、いまさらながら目の前の男を警戒した。


(この人、何者?)


その、奇妙な沈黙の中。一方のバシュトラは、確信した。


(間違いない、この女だ)


彼は、自らが羽織っていた、みすぼらしい変装用のマントを、静かに脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、黒を基調とした、機能的な、だが、明らかに上質な軍装。そして、腰に下げられた、狼の紋章が刻まれた王の剣。


「「「なっ……!?」」」


ゲルハルトたちが、慌てて武器を構える。


「貴様、何者だ!」

「隣国の……! あの紋章は、武人王バシュトラ!」


緊迫した空気の中。イレーネだけが、まだ状況を飲み込めず、泥まみれのまま、目の前の男を見上げていた。


その、バシュトラが。武人王が。この砦の、泥だらけの中庭で。イレーネの前に、片膝をついた。


「――イレーネ・フォン・アルトハイム嬢」


彼は、彼女の職能に対して、最大限の敬意を込めて、宣言した。


「その才能に、惚れた」

「……はい?」

「貴女を、我が国の『王都設計者』として、招きたい」

「……はい!?」


スカウト? 老兵たちが、武器を構えたまま、固まる。


そしてバシュトラは、とどめを刺しにかかった。


「……いや。訂正する。できることなら、私の『王妃』として、迎えたい」

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― 新着の感想 ―
優れた設計で自称処刑場があっても 身分や正体がはっきり証明されないものに(自称商人の不審者に)色々見せ 袋小路にする罠仕掛け通り過ぎて中に招き入れたら 全く意味ないのでは? 王様が惚れたって展開にな…
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