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虎の顎門(あぎと)が、牙を剥く

「さて、皆さん。水と衛生の問題は解決しました」


すっかり乾いた中庭に、私は砦の全員を集めていた。たった数日のことだが、彼らの顔色は劇的に改善している。清潔な水と、カビ臭くない空気。それだけで、人間の士気はここまで上がるのだ。彼らが私に向ける、絶対的な信頼の視線が、少し気恥ずかしい。


(信頼は、嬉しいけれど)


私たちが生き残るためには、これだけでは足りない。


「次は、この砦の『外側』。防衛です」


私は、あの崩れかけた南壁の前に立ち、新たな図面――『防壁補強案』――を広げた。


「この壁。ただ積み直すだけでは、またすぐに攻められます」


私は、前世で得た「城郭建築」……すなわち、いかにして敵の戦意を削ぎ、最小の労力で撃退するかの「設計思想」を、彼らに説明する必要があった。日本の戦国時代の城に見出した機能美こそ、前世の私が建築家を志したきっかけに他ならない。


「いいですか。砦の壁というのは、ただの『仕切り』ではありません。敵を『殺す』ための、『道具』です」

「「……っ!」」


老兵たちの顔が、一斉に引き締まった。彼らは軍人だ。この言葉の重みは、誰よりも理解できる。


「ただ頑丈なだけの壁は、敵に『乗り越えてやろう』という意欲を起こさせます。私たちが目指すのは、敵がこの壁を見た瞬間、『ここを攻めるのは、絶対に無理だ』と、戦意そのものを喪失する設計です」


私の言葉を、今や、私の最も忠実な部下となったゲルハルトを筆頭に、老兵たちは真剣な眼差しで聞き入っている。


「まず、強度。ゲルハルトさん、出番です」

「はっ!」

「例の『崩れた石材』を再利用します。ですが、ただ積むのではありません。あの排水路でやった『擁壁(ようへい)』の技術を使います」


「擁壁」というのは、ただ垂直に石を積むのではなく、少し斜めにもたれかかるように積むことで、背後にある土の圧力にも耐えられる、非常に強固な壁を作る技術だ。ゲルハルトの指揮のもと、老兵たちが石を組み上げていく。排水を考慮し、裏側には栗石を詰め、計算された勾配で積んでいく。それは、ただの石積みではない。下部が厚く、上部に行くにつれてわずかに傾斜した、見るからに強固な「石垣」だった。


「棟梁。これは……」


ゲルハルトが、自ら組み上げた壁を見上げ、感嘆の声を漏らした。


「これなら、ただ積んだ壁の数倍は頑丈だ。崩そうにも、力が逃げる……」


「ええ。ですが、強度だけでは不十分です」


私は、壁の改修が、砦の「入り口」部分に差し掛かかったところで、作業を止めた。


「この砦は誰が見ても、すぐに落とせそうだ、と思ってしまいます。ですが、それは何故ですか?」

「それは……壁が脆かったからでは?」

「それもあります。ですが、最大の理由は『馬鹿正直』だからです」


私は、入り口部分の新たな設計図を広げた。


「見てください。今までの入り口は、まっすぐで、幅が広い。これでは『どうぞ攻めてください』と言っているようなものです。敵は、勢いを殺さずに突撃できますから」


私が示した図面。それを見た老兵たちが、今度は困惑の表情を浮かべた。


「棟梁。これは……入り口が、曲がっておりますが」

「ええ。わざと『導線』を曲げるのです。これを『虎口(こぐち)』と言います」


私が設計したのは、敵がまっすぐ侵入できないよう、あえて道をS字に曲げ、さらに幅を狭くした入り口だった。


「こんなに狭くては、我らが出入りするのも不便では……?」

「その通り。ですが、敵はもっと不便です。特に、騎馬隊や破城槌は、この角を曲がれずに、勢いを完全に殺されます」

「……!」

「そして、この『虎口』と合わせて、こちらも作ります」


私は、組み上げている壁の一点を指さした。「『狭間(さま)』です。中から安全にクロスボウで矢を射るための、細い覗き穴のことですね」


私は、図面で「狭間」を配置する場所を指示した。


「ここと、ここ。そして、あそこの上にも」


私の指示は、一見、ランダムに見えたかもしれない。だが、健康とともに覇気を取り戻したゲルハルトは、違った。彼は、防壁の図面と、虎口の図面を、交互に食い入るように見つめ……やがて、その顔から、サッと血の気が引いた。


「……まさか。棟梁、これは」


彼は、震える声で、虎口の図面の一点……敵が角を曲がるために、必ず速度を落とさねばならない地点を指さした。


「ここの『狭間』は……」


そして、壁の図面を見る。


「……あそこの『狭間』と……」

「……そうです」


私は、静かに頷いた。


「敵が、ここで立ち止まらざるを得なくなった瞬間。あそこと、あそこと、こちら。三方向から、矢が集中するように配置してあります」


老兵たちが、息を飲んだ。それは、もはや「防衛」ではない。敵を誘い込み、動きを封じ、一方的に殲滅する。合理的で、狡猾で、残忍な……「罠」。彼らは、私の設計の「意図」を理解し、戦慄した。だが、彼らは忠実に作業を進めた。私への信頼と……そして、自分たちの生存が、この設計にかかっていると理解したからだ。




数週間後。南壁の改修は、完了した。そこに立っていたのは、かつての「ボロ砦」の面影など微塵もない、完璧な「要塞」だった。老兵たちが、完成した壁を見上げ、言葉を失っている。


「……信じられん」


ゲルハルトが、自ら指揮して作った、新しい「虎口」の前に立った。狭く、暗く、曲がりくねった入り口。彼が、おそるおそる、敵兵になったつもりで、その虎口を一歩入る。そして、立ち止まる。そこが、設計図で指定された「敵が足を止める場所」だった。ゲルハルトが、ゆっくりと顔を上げる。彼の視線の先。壁の上、そして左右。三方向の「狭間」が、黒い口を開けて、まるで獲物を待つかのように、彼を睨みつけていた。


「……ひっ」


ゲルハルトが、息を飲んで、そこから飛びのいた。


「こ、これだ……! ここだ!」


彼は、仲間たちに向かって叫んだ。


「ここで、敵は十字砲火を浴びるんだ! 逃げ場は、ない!」

「おお……」

「ここなら……クロスボウが数丁あるだけで、敵は、ここを、一歩も通れない……!」


私は、彼らに静かに告げた。


「ええ。まさに、この砦の『キルゾーン』です」

「キル……ゾーン……」

「これなら……これなら、十倍の敵が来ても、寄せ付けずに撃退できる!」

「王都の騎士団だって、ここを突破するのは不可能だ!」


老兵たちは、もはや私に心酔する、という段階を通り越していた。彼らが私に向ける目。それは、敬意と、信頼と……そして、ほんの少しの畏怖。彼らは、自らの手で、この世で最も安全な「巣」を作り上げたのだ。私の実務は、彼らに、水と衛生に続く、「絶対的な安全」というカタルシスをもたらした。


だが、この異常な速度で進む改修劇を、見ている者がいた。いや、見ている国があった。


◇ ◇ ◇


その頃。国境を接する、隣国。狼の紋章が掲げられた、質実剛健な王の執務室。


「……馬鹿馬鹿しい」


玉座に浅く腰掛け、報告書を読んでいた若き王が、それを投げ捨てるように呟いた。若く、精悍な顔つき。灰色の瞳が、戦場の厳しさを物語っている。彼こそ、その若さで一代で国をまとめ上げ、「武人王」と呼ばれる男、バシュトラ・ヴァーリだった。


「アルトハイムの、あのボロ砦が、『難攻不落の要塞』に?」


バシュトラは、報告を持ってきた斥候を、冷ややかに見下ろした。


「我が国の斥候は、いつから冗談を言うようになった? あの砦は、来月には自然に崩落すると踏んでいたが」

「お、お言葉ですが、陛下! この目で、確かに! ここ数週間で、壁が、まるで別物に……!」

「数週間だと? 優秀な石工を集めても、あの規模の壁の修復には最低でも半年はかかる。お前は、常識をわきまえろ」


バシュトラは、虚飾や伝統よりも、「実利」と「機能」を重んじる合理主義者だ。だからこそ、斥候の報告が信じられなかった。非合理的すぎる。


「ですが、陛下! こ、これを……! 新設された入り口のスケッチです!」


斥候が、震える手で一枚の羊皮紙を差し出す。


バシュトラは、鬱陶しそうにそれを受け取った。そして。彼の、嘲笑を浮かべていた表情が、固まった。


スケッチは、お世辞にも上手いとは言えなかった。だが、そこに描かれた設計は、バシュトラの目を釘付けにした。あえて狭められ、ねじ曲げられた入り口。そして、その曲がり角の、敵が必ず減速する地点を、寸分の狂いもなく狙うように配置された、複数の「狭間」の配置図。


「これは……」


バシュトラは、指で、そのスケッチの線をなぞった。無駄な装飾が、一切ない。ただ、敵を効率的に排除するためだけに設計された、機能の塊。彼の合理主義の魂が、この設計の「本質」を即座に見抜いていた。


(……美しい)


王宮の無駄なレリーフなどとは、比べ物にならない。完璧なまでの機能美だった。


バシュトラは、硬い声で、低く呟いた。


「……辺境の老兵が、思いつきでできる仕事ではない」


彼は、斥候に、初めて鋭い視線を向けた。


「この異常な改修速度。合理的すぎる設計……何者だ」


武人王バシュトラは、その天才建築家に対し、強烈な興味を抱いていた。


「これを設計したのは、何者か。調べろ」

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