健康と衛生は、水の支配から
「さて、皆さん。おはようございます」
宣言の翌朝。私は、集まってくれた七人──老兵五人、老夫婦二人を前に、昨日よりもずっとすっきりした気分で挨拶をした。彼らの顔には、まだ半信半疑の色が浮かんでいる。……いや、半分は「どうせ口だけだろう」という諦め、残り半分が「もしかしたら」という淡い期待、といったところか。
「本日は、この砦の『水』の問題を、根本から解決します」
私は、彼らの目の前……中庭の、比較的乾いている場所に広げた作業台(と呼ぶのもおこがましい、ただの古い板)の上に、設計図の一枚を広げた。『アルトハイム砦・給排水計画図』。
「まず、この中庭に水が溜まるのが諸悪の根源です。これを、砦の外に排出する『暗渠排水』を敷設します」
「あんきょ……?」
「はい。地下に掘る、隠れた水路です」
私は、前世の土木工学の知識を、この世界の人々にも理解できるよう、必死に言葉を噛み砕く。
「見てください。この砦は、幸いにもわずかに傾斜した土地に建っています。この地形を利用するのです。中庭の最も低い地点から、砦の外……あちらの谷側に向かって、溝を掘ります。深さは、私の腰のあたりまで。そして、勾配――傾きですね――は、百メートル進むごとに、こちらの棒一本ぶん低くなるように」
私は、測量用に自作しておいた、目盛りを刻んだ棒を指さした。老兵たちは、私の具体的な指示に、ただただ目を白黒させている。
「さあ、始めましょう。ゲルハルトさんは、石工の経験があると伺いました。排水路の底と側面に敷き詰める石の選定をお願いします。他の方は、まず溝掘りを」
私の指揮のもと、改修がスタートした。もちろん、私も「お嬢様」らしく、日傘の下で椅子に座っている……わけではない。
「そこ、もっと深く! 勾配がずれます!」
私は、ドレスの裾をまくり上げ、自らも泥の中に足を踏み入れ、簡単な「水盛り」(水を入れた器で水平を測る、前世の原始的な測量技術だ)で、溝の底の水平と勾配をチェックしていく。
「お嬢様! そのような、泥まみれに……!」
使用人の老婆が悲鳴を上げたが、私は構わなかった。
「服は洗えば済みます! ですが、ここの勾配を一度間違えれば、水は二度と流れませんよ!」
(ああ、楽しい! なんて楽しいフィールドワークなの!)
設計図が、ただの紙切れから、現実の「建築」になっていく。この瞬間のために、建築家は生きているのだ。
最初は「公爵令嬢に何をさせているんだ」と恐縮していた老兵たちも、私のあまりの手際の良さと、飛び交う専門的な指示に、次第に顔色を変えていった。
「溝の底には、その大きな石ではなく、『栗石』……こぶし大の石を敷き詰めてください。水の通り道を確保しつつ、底を安定させます!」
昨日、石工の経験を口にしていたゲルハルトは、水を得た魚のようだった。
「ゲルハルトさん! その石組み、完璧です! その調子で!」
「おお……これか。この『面』を合わせる積み方……。親方が言っていたのは、これだったか……!」彼は、私が図解で示した石の積み方を、見事に再現してくれている。他の老兵たちも、年齢故の衰えこそあるものも長年の軍務で鍛えた体力と、なにより「真面目さ」で、私の指示通りに土を掘り、石を運ぶ。使用人の夫婦も、私たちのために質素だが温かい食事を運び、作業を手伝ってくれた。
数日後。驚くべきことが起こった。
「お、お嬢様! 早い、早すぎますぞ!」
ゲルハルトが、汗をぬぐいながら興奮気味に言った。
「普通、これだけの溝を掘り、石を敷き詰めるなぞ、我ら年寄りだけでは一月はかかる……それが、たったの数日で」
(それは、私が最適な人員配置と、無駄のない工法を指示しているからです)
前世で、どれだけ非効率な現場を見てきたと思っている。
「まるで、熟練の職人が十人もいるみたいだ……」
ゲルハルトのその呟きこそ、私の実務が正しく機能している証拠だった。
そして、ついにその時は来た。暗渠排水が、砦の外壁を抜け、谷へと通じた、その日の午後。
――ザアアアアッ!
折良く、この時期特有の激しい雨が降り始めた。
「「「あああっ!」」」
老兵たちが、空を仰いで悲鳴を上げる。せっかく掘った溝が、泥で埋まってしまう、と。だが、私は笑っていた。
「皆さん、中庭を見てください!」
今までなら、この雨は「絶望」の合図だった。中庭は瞬く間にぬかるみ、沼沢地と化し、その水が数日間引かずに、カビと悪臭の原因となっていたはずだ。だが、今は違う。
ゴオオオオオッ!
山から流れ込んできた雨水が、中庭に溜まる……かと思いきや、私たちが設計した「集水地点」へと吸い込まれ、新設された暗渠排水路を通って、砦の外の谷へ、轟音を立てて排出されていく!
「「「おお……!」」」老兵たちが、その光景を見て、歓声を上げた。雨が上がった時。そこには、信じられない光景が広がっていた。砦の中庭は、昨日までの沼沢地が嘘のように、カラリと乾いている。何よりも……
「……臭くない」
誰かが呟いた。そうだ。あれほど鼻をついていた、淀んだ水の腐臭と、カビの臭いが、完全に消え失せていた。私は、もう一つの「仕掛け」を指さした。谷から引き込んだ水路の先にある、大きな木枠だ。
「そして、こちらが『簡易浄水システム』です。谷の水も、そのままではお腹を壊しますから」
仕組みは簡単だ。砂と、小石と、焚き火の残りで作らせた炭を、適切な順番で重ねただけの、原始的な濾過槽。ゲルハルトが、おそるおそる、その濾過槽から流れ出た水を、ひしゃくで汲んだ。透明だ。昨日まで飲んでいた、よどんだ井戸水とは、比べ物にならないほど澄んでいる。彼が、意を決してそれを一口飲む。
「……! う、うまい……! 水が、うまいぞ!」「「「おおおおお!」」」
その瞬間、砦の者たちの士気は、かつてない域に達した。清潔な空気。乾いた床。そして、美味しい水。
その夜。食堂で質素な食事をとっている時だった。ゲルハルトが、はっとした顔で、自分の胸に手を当てた。
「……?」
「どうしました、ゲルハルトさん」
「……棟梁。いえ、イレーネ様」
彼が、信じられないという顔で、私を見る。
「わし、今日……一度も、咳をしておりません」
「「「!」」」
他の老兵たちも、言われてみれば、という顔をした。あれほどこの砦中に響いていた、ゲルハルトの苦しそうな湿った咳が、今日は一度も聞こえていなかったのだ。
「カビと湿気が消えたからです。あなたの咳は、病気ではなく、この砦の環境が起こしていたものですから」
「なんと……」
ゲルハルトは、自分の乾いた喉の奥を確かめるように、ゴクリと唾を飲んだ。そして、ゆっくりと私に向かって膝をついた。
「……奇跡だ。イレーネ様は、奇跡の聖女様だ……!」
私がもたらした衛生環境は、彼らが人間として生きるための「尊厳」を、そして「健康」を取り戻させたのだ。彼らが私に向ける目は、もはや「追放されてきた哀れな令嬢」を見る目ではなかった。それは、絶対的な信頼と、敬意……いや、一部の者は、まるで「奇跡の聖女」でも見るかのような目だった。
(聖女じゃない、私は建築士)
彼らが「イレーネ様のおかげだ!」と、何年かぶりの喜びに沸く中。私は、彼らの輪から少し離れ、すっかり乾いた中庭の真ん中に立っていた。そして、次の図面――『防壁補強案』――を、バサリと広げる。
「さて、皆さん」
歓喜の声を上げていた老兵たちが、私の声に、ピタリと動きを止めて振り返る。私は、笑って、次の「プロジェクト」を指さした。
「『内側』の問題は片付きました。次は、この砦の『外側』を固めますよ」
私は、図面の一点を指さす。
「特に、あちら。隣国に面した、あの崩れかけた南壁が、最優先です」




