第97奏:迷奏
綾乃と別れたその日の夜、琴音の自宅にて。
自室に戻った琴音は、すぐにキーボードに向かっていた。
机の上には、ノートとペンが置かれている。
そして、その隣には、手つかずの夏休みの宿題が山積みになっていた。
しかし、琴音はちらりと宿題を見たが、すぐに視線を戻した。
「宿題は後で……今は新曲を……」
琴音は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
キーボードの鍵盤に指を置き、ゆっくりと音を鳴らしていく。
しかし、何も浮かんでこない。
ただ、意味のない音が空間に響くだけ。
「……どうして」
琴音は頭を抱えた。
『欠片の音色』を作った時は、すぐにメロディーが浮かんだ。
『Over the Top』の時も、海での経験からインスピレーションを得た。
でも、今回は何も浮かばない。
「最高の1曲……どうすれば……」
琴音は呟きながら、再びキーボードに向かった。
時間だけが、容赦なく過ぎていく。
時計の針は、深夜1時を指していた。
琴音はまだ、キーボードに向かっている。
しかし、新曲のメロディーは、まだ一つも生まれていなかった。
「どうして……何も浮かばないの……」
琴音の目から、涙がこぼれ落ちた。
机の上の宿題が、琴音を責めるように見つめている。
でも、琴音は宿題に手をつけることができなかった。
新曲を作らなければ。
その想いだけが、琴音を支配していた。
一方その頃、イヴの自宅。
イヴは自分の部屋で、夏休みの宿題に取り組んでいた。
数学のワークブックを開き、鉛筆を持つ。
しかし、問題を解こうとしても、頭に入ってこない。
「……琴音ちゃん、大丈夫かな」
イヴは鉛筆を置き、窓の外を見つめた。
夏の夜空に、星が輝いている。
琴音の様子が、明らかにおかしかった。
顔色は悪く、表情も暗い。
そして、新曲ができないことに、相当なプレッシャーを感じているのが、イヴにもわかった。
「私にも、何かできることないかな……」
イヴは呟いた。
しかし、これまで作曲は琴音の役割。
イヴには、作曲といった音楽の知識がない。
「……せめて、琴音ちゃんを元気づけられたらいいんだけど」
イヴはそう思いながら、再び宿題に向かった。
そして同時刻、綾乃の自宅。
綾乃もまた、自分の部屋で琴音のことを考えていた。
ベースを磨きながら、今日の琴音の様子を思い返す。
「琴音、一人で抱え込んでるな……」
綾乃は呟いた。
琴音が、新曲のプレッシャーに押し潰されそうになっているのは明らかだった。
しかし、琴音は誰の助けも求めようとしない。
「作曲は私の役割だから」
そう言って、イヴの申し出を断った琴音。
その言葉の裏には、「みんなに迷惑をかけられない」という想いが隠されているのだろう。
「……明日、ちゃんと話してみよう」
綾乃はそう決意した。
このままでは、琴音が潰れてしまう。
綾乃は、それを食い止めなければならない。
翌日。
四人は再び、雅の家のスタジオに集まった。
しかし、今日の琴音の顔色は、昨日よりもさらに悪かった。
明らかに寝不足だ。
目の下には、クマができている。
「琴音ちゃん、ちゃんと寝てる?」
イヴが心配そうに尋ねると、琴音は小さく答えた。
「大丈夫です……」
しかし、その声は弱々しい。
綾乃と雅は顔を見合わせた。
琴音の様子は、明らかにおかしい。
「琴音……」
綾乃が声をかけようとすると、琴音が無理に笑顔を作った。
「練習、始めましょう」
その笑顔は、痛々しいほど無理をしているように見えた。
そしてすぐに練習が始まった。
しかし、すぐに異変が起きた。
『欠片の音色』を演奏している最中、琴音がキーボードでミスをしたのだ。
いつもはミスなどしない琴音が、明らかに集中できていない。
演奏が止まると、綾乃が優しく声をかけた。
「琴音、今日は休もうか」
綾乃の提案に、琴音は首を振った。
「大丈夫です……続けましょう」
琴音は頑なに拒む。
「でも……」
「大丈夫ですから!」
琴音の声が、少し強くなった。
三人は、それ以上何も言えなかった。
再び、演奏が始まる。
しかし、琴音のミスは増えていく。
いつもなら完璧に弾けるフレーズで、何度もつまずいてしまう。
そして、ついに……。
琴音が、手を止めてしまった。
「……ごめんなさい」
琴音の目から、涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
琴音は何度も謝りながら、涙を流し続けた。
イヴが慌てて琴音の肩を抱く。
「琴音ちゃん、無理しないで!」
綾乃も琴音の隣に座った。
「一人で抱え込まないで。私たちがいるから」
雅も静かに琴音に近づき、優しく声をかけた。
「わたくしたちは仲間ですわ」
三人の優しい言葉に、琴音の涙はさらに溢れ出した。
「新曲が……全然できないんです……」
琴音は震える声で、本音を吐露した。
「みんなに迷惑かけられないって思うと、焦っちゃって……。でも、焦れば焦るほど、何も浮かばなくて……どうしたらいいのか、わからないんです……」
琴音の言葉に、三人は静かに耳を傾けた。
しばらくの沈黙の後、綾乃が口を開いた。
「今日は練習やめよう。琴音、ゆっくり休んで」
綾乃の言葉に、イヴも賛成した。
「そうだよ! 無理しちゃダメだよ!」
雅も優しく微笑んだ。
「新曲は、焦って作るものではございませんわ」
三人の言葉に、琴音は涙を拭いながら頷いた。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
綾乃は琴音の頭を優しく撫でた。
「私たちは、四人で一つのバンドなんだから」
その言葉に、琴音は再び涙を流す。
結局、その日の練習は、中止となった。
そして琴音は先に帰り、綾乃とイブは雅の家を出て、少し離れたところで立ち止まった。
「綾乃ちゃん……」
イヴが不安そうに声を出す。
「琴音、このままじゃ潰れちゃうよ」
綾乃も深刻な表情で頷いた。
「うん……何とかしないと……」
「でも、どうすれば……」
イヴの問いに、綾乃は少し考えた。
「……琴音を、リフレッシュさせないと。新曲のことを一旦忘れられる時間が必要だよ」
「リフレッシュ……」
イヴは考え込んだ。
「何か、いい方法ないかな……」
二人は、琴音を救う方法を考え始めた。
その日の夜、琴音の自宅。
自室に戻った琴音は、ベッドに倒れ込んだ。
体も心も、限界だった。
「……どうしよう」
琴音は天井を見つめながら、涙を流し続けた。
新曲が作れない。
みんなに迷惑をかけている。
宿題も手つかず。
全てが、琴音を押し潰そうとしていた。
「……ごめんなさい」
琴音は小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、琴音自身もわからなかった。
ただ、謝ることしかできなかった。
夏の夜は、静かに更けていく。
琴音のプレッシャーは、日に日に大きくなっていく。
四人の夏は、まだ始まったばかりだった。
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